古都・京の紅葉へ  平安王朝の文学 その背景と解釈へのお手引き ①

 

 

 石山寺縁起絵巻より 石山詣

 

 

 

 

            古都・京の紅葉へ

           平安王朝文学 その背景と解釈へのお手引き ①

 

 

   第一部 道長の「しと」

 

 今朝もまた、早寝起きでややネガティブな心から、新しい今日のポジティブな心へ劇的に変えてもらうため、ターシャやベニシアに手助けして戴きました。またどこへも出かけないで、ただ只管に学問に没頭する妻を傍で見ていても、大いなる勇気を貰えるものです。東大の史料編纂所の書庫や国立博物館の資料などすべて踏破するような凄まじい勢いで頑張っています。当然赤ちゃんの大風や、よちよち歩きと一人お喋りの得意な杏のお世話は、私が積極的に関わってすることに。でも何と言う歓びでありましょうか。子どもらと、ぴったり寄り添っていられるのがこんなにいとおしいのかと改めて感じる次第です。子どもを、来週インフルエンザの予防接種に病院へ連れて行く予定ですが、それまでは散歩もそれほどやれておりませんけれど、北風が吹く季節になっても皆元気いっぱいです。私の本来の専門職は建築学近代構造物なのですが、亡き主人と出会って以来、ビルなどの建築を担当する一方で、何と民俗学を勉強することに。櫻をキーワードにして主人と長年頑張って参りました。でもまだまだ道半ばです。特に民俗学は、幾ら古いお祭りだと言われても、今在るものとしか考えません。時代考証は、三角点の原理で、あちこちのお祭りの類似点を三箇所以上探してから、発生時代を類推する方法です。古い文献も数多く民俗行事の中にありますが、それとても変遷や変異が多く、ですから現代のものとして判断する方が無難なようです。そんなわけで、妻のように時代時代の文献重視のキッパリした視点も、偶には面白く興味があるのです。

 何故こんなことを書き出したかと申しますと、京都の紅葉へのご案内の予定があるからです。清水さんや永観堂さんや三尾の神護寺さんなど、あちらこちらの御寺で夜間拝観が始まり、夜間ライトアップの報道も存じておりますが、京都の紅葉は緑・黄・オレンジ・赤とグラディエーションのような、斑紅葉(まだらこうよう)の、まさにその時季でありましょうや。それもいいのですが、だからちょっとした真っ盛りにはまだという早い間合いを感じているからでもあります。京都の紅葉を見学する方法は各種各コース御座いますが、私は皆さまに「紫式部と歩く錦秋の、秋の京都へ」原稿の準備は既に出来上がっています)という外題で、一つの京都への秋の旅をご提案申し上げ、あるいはお薦め申し上げようと存じておりますゆえ。それは本稿の最後を飾ることにし、先ずその前に多分日々懸かり、5~7回ぐらいのシリーズになりましょうか、10世紀から11世紀にわたる平安文学華やかなりし頃の時代背景と、書かれた文書に関する様々な解釈する方法のお手伝いを申し上げたいと思いまして、古典文学へ慣れない筆を執る決意を致しました。以下どうぞよろしくお願い申し上げます。(本稿に 実は妻からの詳しい教唆も大いに働いて御座いまする)

 古典を解釈するためには、その時代の仕組みや、人々の生活の仕方や、モノの考え方や感じ方など、実に広範囲で、しかもまとまりある知識が是非とも必要です。一つ一つ文字やちょっとした文章の解釈だけでは、多分すぐに理解不能となるわけですから、包括的全般的な知識がかなり大事だということになるでしょう。例えば平安時代、10世紀から11世紀にかけて書かれた文学の代表といえば、「源氏物語」や「枕草子」などがあげられるでしょうか。でもその他のも併せた物語・日記・記録なども見て、出来るだけ広範囲に拾い読みながらお話をソロリと始めてみましょう。

 寛弘五年(1008)九月十一日に一条天皇の中宮・藤原彰子が皇子をご出産されました。のちの後一条天皇の誕生です。彰子の父左大臣・道長の歓びようったら半端ではなかったようです。だって母方の祖父、つまり後の天皇の外祖父となるのが確定したんですもの、そりゃ大変なことだったでしょう。彰子にお仕えしていた女房・紫式部は、「紫式部日記」にその時の道長の喜悦した様子を生き生きと描写しています。式部が日記の一部に次の文章があります。

  『ある時は、わりなきわざ、しかり奉り給へるを、御紐ひき解(と)きて、御几帳(きちょう)の後(うしろ)にて、あぶらせ給ふ。、この宮の御尿(しと)に濡るるは、うれしきわざかな。この濡れたる、あぶるこそ、思ふやうなる心地すれ」と、悦ばせ給ふ。』(「紫式部日記」より)

 「わりなきわざ」とは、今風に言えばしょうもないとか困った粗相だとか言うことでしょうが、失礼がないように、やんわりとぼやかして表現しているのでしょうか。この場面では赤ちゃんがおしっこを漏らしてしまったということです。しかもですよ、何とそのおしっこが、孫から発せられて引っ掛けられ、お爺ちゃんが大喜びしている様子の場面を書いているのです。当時の政界のドン(大御所)であった道長も、いいお爺ちゃんなんだなぁと微笑ましく思われるのですが、でも単なる孫への溺愛ぶりではなさそうです。

 道長が政権を握ったのは、長徳二年(996)のことでした。でも道長はこの権勢を確かなものにするために、或いは一家の繁栄を極めるために、娘を天皇の后(きさき)に立てる必要がありました。そして帝位を継ぐべく皇子の誕生こそ、絶対的権勢への必須欠くべからざる条件だったのです。でも長徳二年、長女彰子は数え年でたった九歳でした。まだ女性としての成人式(「髪上げの式」=「裳着(もぎ)の式」とも呼ばれる)さえあげられない状態でした。これを済ませておかなければ「女御(にょうご)」、更には「中宮」として正式に入内(じゅだい)、つまり内裏(宮廷)に正式に入ることなどとても無理な話だったのです。

 でもそこは権謀術策の名手・道長のことです。長保元年(999)道長はようやく十二歳になった彰子の成人式を執り行い、女御として入内させます。凄いのはここからで、翌年には、正暦元年(990)からずっと中宮の地位にあった藤原定子を皇后にまつりあげ、早速彰子を中宮に仕立て上げます。一人の天皇に対して、皇后と中宮という同格の后が並んで立つようにしたのです。このことは全く前例がなく、道長の権勢強化を狙った布石に他なりませんでした。

 定子は道長の兄・道隆の娘でした。道隆の一家は中関白家(なかかんぱくけ)と呼ばれ、長徳元年(995)にはある時期権勢を誇っていた道隆が亡くなります。翌年には伊周(これちか)、弟の隆家は失脚して京から追放処分にされていました。従って中関白家には昔日の権力や栄光はなかったのです。そして追いうちをかけるように、今度は定子が皇后という称号だけを与えられ、体よく片隅に追いやられたのでした。この定子に仕えていたのが清少納言です。『枕草子』には失意の日々を送った定子の心の遍歴や逸話がこと細かに描かれておりますが、明るく聡明なお方だったようで、じめじめした定子像は決して感じられませんね。

 定子は、彰子が中宮になった年の十二月、若干二十五歳で亡くなりました。でも一条天皇との間に、その前年の長保元年に第一皇子が誕生していました。このことだけは道長とてどうすることも出来ません。従って残る望みは彰子に皇子が誕生することだけ、残るたった一つだけの願いでした。彰子が入内してちょうど十年目、ついに彰子に皇子が誕生します。伊周や隆家も政界へ復帰を果たしていましたが、その勢力は昔日の面影はありませんでした。道長に対抗出来る勢力の存在など完全になかったのです。こうして皇子の誕生ということは皇太子になり、やがては天皇となることが決定的で、帝位を継ぐべき皇子の外祖父として安定的な地位をガッツリと確保したのです。

 このようにしてみると、あの一節に書かれた喜悦ぶりは、単なる孫の誕生に喜ぶ祖父の心情だけではなしに、皇子の「尿(しと)」に濡れながら、これで一家のいやさかが一層保証されたものだったと言えることでしょう。まさに「思ふやうなる心地」がしたのではないでしょうか。(第二部は明日 「天皇の外戚」に続く)

 

 

 

 

 吉田神社における「倭舞(やまとまい)」

 

 

 

 

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