古都・京の紅葉へ 平安王朝の文学 その背景と解釈へのお手引き ②

 

 

源氏物語絵巻より

 

 

                    古都・京の紅葉へ

                     平安王朝の文学 その背景と解釈へのお手引き ②

 

 

         第二部 天皇の外戚

 

 今日はどうやら七五三らしく、杏とお散歩に行った近くの神社には多くの子連れ親子さんがいらっしゃって、華やかに着飾っておいででした。実に微笑ましい光景で、普段冷静な杏も興味津々の様子でした。子どもは国家の宝物なのでしょう。私は現在、二児をイクメン(育児するパパ)しておりますが、来年杏は数えで三歳となることですから、「髪置(かみおき)の儀」をやることになるでしょう。五歳では長男・大風が、「袴着(はかまぎ)の儀」を、更に杏、七歳では「帯解(おびとき)の儀」をすることになるでしょう。出生から死に至るまで、通過儀礼が多彩にこと細かに伝承がある我が日本は、とっても素敵な国家だと大変誇りに思っています。また連載を出させて戴きますが、ははぁ平安の御世ってのはこんな風だったのかと、軽ぅ~いお気持ちで御覧戴ければ有り難く幸いです。では今日も早速始めましょう。

 入内させ、我が娘が皇子を出産し有頂天になるのは道長ばかりではありませんでした。時代が下がるのですが、『平家物語』では、高倉天皇の中宮・平徳子も皇子を出産致し、清盛も大喜びした様子が描かれています。あまりの嬉しさに号泣したそうで、「悦び泣きとはこれをいふべきや」(巻三 出産)と記されています。この皇子とはあの悲劇の皇子で、平家よ運命をともにし、僅か八歳でお亡くなりになられた悲劇の安徳天皇のことです。このように臣下の者として政権を担う上で、大きな権力を行使できるかどうかは、天皇の外戚、つまり天皇の母方の祖父や叔父になるかならないかで、大きく異なりました。天皇の後見役として、幼い天皇であっても成人した天皇であっても同じ意味を示していました。

 藤原氏は外戚関係を徹底的に活用することによって、確たる権力を長期間維持できた貴族でした。十世紀から十一世紀にかけて、摂関(摂政・関白)時代と象徴的に総称されています。天皇が幼い場合の後見役を摂政といい、成人した場合は関白といい、人臣の最高位の官職であったわけで、長く藤原氏の独占することになりましたが、その摂関にしても 外戚かどうかで実質が伴うものかどうか、大きく分かれるところです。名目だけではどこかぎくしゃくし、本当の権力を行使できなかったものです。

 例えば、藤原頼註などは、円融天皇の後半から花山天皇の代まで、つまり997年から985年まで関白であったのですが、『大鏡』(頼忠伝)によれば、「よその人」だったとあり、つまり外戚ではなかったらしく、天皇に対して遠慮があり、「一の人」(ここでは関白のこと)だけで、天皇に言上すべきことがあって宮中に参内する時でも、「直衣(なほし)」のような寛いだ服装ではなく、あらたまった礼服に身を固め、しかも直接言上することはかなわず、天皇に近侍する秘書のような「蔵人(くらうど)」を通して言上したようです。こんなことでは関白の権力を縦横無尽に行使することなど全くあり得ないことだったのです。外祖父であれば、このような一々の肩苦しいことはありませんでした。

 ここで作り物語(フィクション)の世界を覗いてみましょう。例えば『源氏物語』の主人公である光源氏には娘がおりました。兄である帝の寵愛する人と間違いを犯し、それが発覚してしまったために官位を返上し、須磨・明石に隠退していた時に愛し合っていた明石の上との間に生まれた明石の姫君のことです。十一歳の時に成人式を挙げ、東宮のもとへ入内し、やがて中宮となって子宝に恵まれます。このように 外戚の関係であっても皇室と密着することで、光源氏の一家はやがて不動のものとなっていったことになるわけで、道長一家の場合と全く同じになるのです。

 ところで作り物語の世界では、源氏の名が目立ちます。源氏は、「源」という性を賜って、皇族から臣籍に移った貴族のことを言います。でも天皇家の血筋をひくわけですから、血統を重んじる当時の風潮としては大変な名家だったわけです。なかには武門となられた清和源氏のような場合もあります。通常は公卿(くぎょう)、即ち上達部(かんだちめ)とも言いますが、位階で言えば三位以上、官職で言えば参議以上の、つまり政府機関の最高幹部層として形成する有力メンバーにずらりと並んでいて、藤原氏以外では最大の勢力を誇っていました。

 皇族の身分では、外戚がしっかりしている皇太子、あるいは皇太子候補という場合は別にして、式部卿、兵部卿などといった特定の官庁の名目的な長官にしかなれず、政界に重きをなすような活躍はみこめませんでした。しかし臣籍に移ると、そのような足かせはなくなり、大臣としてその才能を発揮することが出来ました。『源氏物語』の「桐壺」の巻で、桐壺帝が最愛の息子を、その母方のパワーが弱いことを憂慮して、ぱっとしない身分で終わるよりは源氏にしたのは、もっともな処置だったと言えます。やがて光源氏は太政大臣まで栄達し、上皇に準ずる待遇まで受けることになるわけですから。

 尚、お分かりでありましょうが、光源氏の「光」とは実名ではありません。九世紀前半の仁明天皇の皇子で臣籍に移った源光という人物がいましたが、それとは全く関係がありません。光源氏は幼少の頃からその「にほはしき」が特別に評判で、世の人は皆「光る君」と褒め称えたのでした。つまりあだ名でして、「光る」、「輝く」を修飾語として用いることが多かったのです。

 『源氏物語』では、上流階級を一切実名で書かれておりません。実名で考えられるのは、光源氏の乳母の子で、光源氏の手足となって大活躍する惟光(これみつ)などのように、中・下流階級に限られていました。高貴な人物は軽々しく口にはしないものという慎みによるものだと考えられます。作り物語では、『竹取物語』以来、作中人物に身分の高下に関わらず実名を与え、如何にも実在しているようにしたかのように感じられ、つまりリアリティを持たせるやり方が普通でしたが、『源氏物語』では、高貴な御方を敬い避けるという当時の風潮が、このフィクションに取り入れられたのでした。高貴な御方は、官職・位階や居住する地域・邸宅名など、また詠まれた和歌の語句などを使って間接的に示されるのが普通です。ですから『源氏物語』以降の作り物語はすべてこの手法が採られました。従って『狭衣物語』や『浜松中納言物語』なども、そうして実名は使われることがなかったのです。

 藤原定家は、若き日に、『松浦宮物語』というのを書きました。奈良時代を背景に、恋あり冒険ありという物語なのですが、それには高貴な御方にも実名が与えられておりますが、古色を出そうという意図による例外だったでしょう。

 物語といっても、『栄華物語』や『大鏡』などの類の歴史物語の大きな特徴は、一つには記録性ということがあったのでしょう。史実をそのまま記述する方法ではなく、若干脚色が施されているようで、大筋では歴史上の事実を伝え記すということから、他の人物と紛らわせないように高貴な御方でも実名で描かれることが多かったようです。『枕草子』などにも、同じ理由から上流貴族の実名を記した記述が若干御座います。どのような観点から人物が設定されているかに注意を払いましょう。 (第三部は明日 「后がね」)

 

 

 近所の空き地にて 杏とお散歩 落ち葉と遊ぶ しゃんららりんりん!

 

 

 

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