古都・京の紅葉へ 平安王朝の文学 その背景と解釈へのお手引き ③

 

 

 

 石山寺縁起絵巻より

 

 

 

                         古都・京の紅葉へ

                     平安王朝の文学 その背景と解釈へのお手引き ③

 

 

     第三部 后(きさき)がね

 

 現在NHKハイビジョン放送では瀬戸内寂聴師の『源氏物語』が再放送されていますが、あれを観ても男女の機微や葛藤や離別や不倫などが中心になっていて、私には少しも興味が湧きません。あの源氏の世界を紐解くために、最も重要なことは時代背景のことや、どこにこの作り物語が出来る必然性があったのだろうかが最も興味あるのです。日々ターシャから後押しされ、毎日が楽しいんです。真夜中、皆が寝静まった後にコツコツ書かせて戴いていて、お粥さんの時間に校正し、お昼前後オフィスからアップする日々ですが、既に半月が過ぎ、やっぱり私の中には、私の母親や、ターシャやモンゴメリーや紫式部や清少納言などちっとも亡くなっていないんだと、逆に勇気を戴いているわけで、その驚きは実際に神秘的ですらあるのです。こうして書いていることはちっとも苦痛ではなく、亡き御方々たちが傍にちゃんといらっしゃってて下さって息づき、そんな方々との会話や、心の対話を大いに楽しんでいるような有様です。さて今日もソロリとお話を始めましょう。

 天皇の外戚となり権力を掌握し、その権威を誇るためには、優れた女子に恵まれることが最大の関心事でした。家系を絶やさないように男子の誕生が大切ですが、一方一家の繁栄を期すためには女子の出産を願ったものです。ですから女子が生まれると、将来のお后候補として大切に教育され育てられたのです。その后候補のことを、特別に「后(きさき)がね」と申しました。

 最初に道長が皇太子候補の孫の「しと」に濡れて悦ぶことをお話申し上げましたが、説話文学ならいざしらず、「しと」という言わば排泄のことをまともに文章にすることはあまりなかったのです。普通の物語や日記などではまず御座いません。それだけに「しと」があからさまに描かれ、道長の有頂天ぶりと喜悦ぶりが生き生きと描かれたということになりましょうか。例外でもあったわけですが、実はもう一つ、『宇津保物語』というのがあるのですが、この長編は『源氏物語』にも多大な影響を与えた物語なんです。この中で、登場する男性たちのうち最も活躍するのが、仲忠(なかただ)という貴族でした。琴(きん)の名手で、トントン拍子に出世し、帝最愛の娘・女一の宮と結婚することになりました。やがて二人に子どもが生まれ、それが「玉光りかかやくやうたる」女の子でした。将来のお后候補の誕生に気が狂わんばかりに悦ぶ仲忠は、その子を抱き上げて、強かに「しと」に濡れて悦ぶ有様が描かれています(「蔵開~くらびらき~上の巻)。『紫式部日記』と、ダブルように気脈が通じる文だと思いませんか。

 上流貴族がその娘を将来の「后がね」として、どんなに大切にされたか物語る逸話が、『栄華物語』の文中にあります。藤原伊周には、「北の方」つまり正式な妻との間に二人の娘がおりました。摂政・関白を務めた道隆の子として藤原氏主流の誇りがあった伊周は、叔父の道長との権力闘争に敗れた後も、その自負心は決して萎えることがなく、寧ろ強く持ち続けていたのです。自分の目の黒いうちに、何とか娘を后の位にしたいと望んで過ごしていました。ところが今でいう糖尿病に罹ってしまい、重態に落ちてしまうのです。昔の貴族たちは皆この病気で命を落とすことが大変多かったようです。伊周の父・道隆もそうでした。伊周は病み衰えてしまいましたが、「后がね」の姫二人がいるのに、無礼な姿を晒したくありませんでした。そこで烏帽子(えぼし)を被ったまま横になっていたそうです(巻八 はつはな)。人前で髪のもとどりを見せるなんて大変な無作法でしたから。病臥していても、娘をかばって烏帽子を被るというところに、「后がね」として娘をかばう伊周の執念や態度がよく表現されていると思います。

 この伊周は、道長が皇子の「しと」に喜悦した寛弘五年から僅か二年後の年の正月に、三十七歳の若さで亡くなりますが、死に臨んで北の方や子どもたちや、弟の隆家を枕辺に呼んで遺言したお話が『栄華物語』(巻八 はつはな)や、『大鏡』(道隆伝)に書かれてあります。『大鏡』の内容は、自分の死後も志を高く持って、まかり間違っても「宮仕え」など一切するな、そのような振る舞いは家名の汚れで、もしもそんなことになったら、あの世から迎えに来るぞという内容でした。当時、没落した大臣家の娘などは、「宮仕え」する慣例がなかったわけではなく、ひたすら「后がね」だけを希って大切に娘を育ててきた伊周には是非とも言い遺しておきたかったことであったのです。「宮仕え」するなど考えただけで、死んでしまったほうがましで忌々しいことだと思ったに違いありませんね。でもですね、運命って皮肉なものでして、こともあろうに、姉娘は、政敵だったあの道長の子の一人である頼宗の妻となってしまうんです。そしてそして妹はあの彰子のもとに「宮仕え」に出たのでした。伊周の遺言は淡雪のごとく綺麗に消え去ってしまったのです。

 ところで、この遺言は『栄華物語』のほうが更に詳細に出ています。娘二人に対する伊周の接し方と、跡取り息子で当時少将であった道雅に対する接し方に、微妙な差異があったのです。娘たちに対しては話し方がえらく丁寧で、敬語が用いられて描かれています。道雅に対しては、まさにザックバランでして敬語など一切使っておりませんでした。娘に対する丁寧な話し方は、烏帽子を被って病臥する心情と全く同じものだったのでしょう。これと似た傾向は当時の他の作品にも多く見受けられるのです。こうしてみますと、敬語の一つの使い方も細かく注意して読みたいものですね。

 そうだ、道雅といえば、『百人一首』に、「今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならで言ふよしもがな」の作者でした。祖父の道隆が健在で、中関白家が栄華を極めていた頃、幼い道雅(幼名は松君)は如何に大切に育てられていたか、『枕草子』に、「淑景舎(しげいさ)、東宮に参り給ふほどのことなど」の段に、その様子が描かれています。道雅は一家の没落も、出世の道も思うにまかせずに終わりましたが、作り物語にせよ、あの光源氏だって、娘・明石の姫君が中宮になったことで、「后がね」は果たされた描写がありましたね。 (第四部は明日 貴婦人の教養)

 

 

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