古都・京の紅葉へ 平安王朝の文学 その背景と解釈へのお手引き ⑤

 

 

 石山寺に寄贈され伝わる 土佐光起の筆による「紫式部像」

 

 

 

 

          古都・京の紅葉へ

             平安王朝文学 その背景と解釈へのお手引き ⑤

 

 

   第五部  漢学

 

 このところ関東は天候に恵まれません。今までの雨は山茶花梅雨のようなものでしょうか。今度雨が降ったら「初時雨」になるのでしょうね。今日から一層寒さが厳しくなっています。今夜、私の厳父から「焼き鳥屋」でいっぱい飲もうと誘われました。人生初めてのことです。お互い愛する妻・母をとっくの昔に亡くしたトラウマを持つ者同士です。また先日は父からひと通りの登山用具を買って戴きました。雪が降る前に、茅ケ岳に登ろうと誘われています。ですから不安というより、寒い冬に向かってとっても心が躍ることなんです。どんな話になるのでしょう。或いは黙々とただ飲んで食べて終わるのでしょうか。私は受身にではなく、寡黙な父にできるだけ優しく語り続けたいと覚悟しています。いつも山に独りで行く父だって、きっと永く淋しかったんだろうなぁと思うからです。

  前回の教養科目に、「才(ざい)」といわれた漢学の習得は入っておりません。何故なら漢学は、男性が正面きって習得するものと決まっていたからです。専ら漢学の習得の場として、唯一の国立大学である「大学寮」がありますが、入学が許されたのは男性だけでした。ですから前回の女性が習得すべき事柄は平仮名の世界と言うことになりましょう。漢学を「男手(おとこで)」と言い、平仮名を「女手(おんなで)」と呼ばれたものです。そして官僚として任官するためには、この「大学寮」に入学し、所定の学業を修了し、試験に合格することが建前だったのです。でも家柄が立身出世の大きな決め手になったこの時代には、上流階級の子弟が、そのような面倒臭い道を選ばなくても済んだわけです。そんな彼らは大学寮に入学せずにしたのが、所謂、個人教授を受けるというのが通例でした。

 

 

 扇面絵 光源氏が初めて明石の君に逢いに行く場面

 

 それでも、中にはろくすっぽ勉強もせず、大納言だ、やれ大将だといっても、満足に漢字を操れない情けない貴族もいたようです。道長の腹違いの兄の道綱という人物がいます。『蜻蛉日記』と言えば、平安時代における女流文学の代表格のような日記文学ですが、その作者は道長たちの父・兼家の妻の一人で、一夫多妻制が当たり前だった平安時代の、女性の悲しみや、苦悩をこの日記に書き記しました。その二人に生まれたのがこの道綱であったのです。どっこい『蜻蛉日記』には、道綱は親思いの心優しい子として描かれていますが、「才」のほうはどうもぱっとしなかったようです。同時代に生きた藤原実資(さねすけ)という、右大臣まで出世した硬骨漢の貴族の、『小右記(しょうゆうき)』という日記を書いた人のは、平仮名で書かれた回想風の女性のそれとは違って、すべて漢文で書かれた記録性の高い日記で優れたものです。畢竟それによりますと、道綱はやっと自分の名前を漢字で書ける程度の「文盲」であったと酷評され、蔑視されていました。

 この時代の貴族とは、要するに官僚です。物語の類だけを読んでいると、貴族は異性との交渉のみにうつつを抜かし、一生を終えるような錯覚に陥りますが、実際はそうではありませんでした。様々な儀式の執行や、中央や地方の行政や、また人事等々の処理に費やされ、結構大変だったのです。現代の我々から見るとあれやこれやと言えるのでしょうが、立法から行政・司法まで執行していたわけですから、法律や慣行に対し豊かな知識が必須だったのです。それを支えるのが漢学でした。幾ら家柄がよく出世できたとしても、漢学が疎かになることがあってはなりませんでした。

 その点で、『源氏物語』の世界では痛烈な批判精神が垣間見れます。光源氏は、長男の夕霧が十二歳になった年に成人式を挙げさせます。男の場合は、成人式を挙げることを、「元服(げんぷく)す」とか、「冠(かうぶり)す」とか、「初冠(うひかうぶり)す」などと言っています。児童の髪型や衣装を改め、成人男子のそれをもって始めて装うのがこの儀式からで、冠(かんむり)を着けるということは、大人の仲間入りしたというしるしになったのです。さて、その夕霧ですが、今をときめく権勢家の長男ですから、世間では、四位ぐらいを授けて一気に貴族の仲間入りをさせるはずだと信じていました。律令制度では、三位以上が「貴」で、四位・五位が「通貴」と規定されていて、言わば五位以上が貴族ということになります。律令制度は、この時代にはすっかり崩れていましたが、それでも五位という一線は、実質的に貴族と、それ以下の階層とを大きく区切る目安になっていたのです。五位に叙せられることを、「冠(かふぶり)たまはる」とか、「冠得(かふぶりう)」などと言っています。古くは位階の序列は冠の違いによって明らかにされ、そこから冠が位階の象徴となっていたのです。ところが光源氏は六位にとどめて、「大学寮」に入れ、みっちり学問を習得させることにしたのでした。家柄が良ければ勉学に勤しまなくても昇進してゆけるのですが、それではいざという時に何にも役立たない、「世のおもしとなるべき心おきて」つまり国家の重鎮となるに相応しいような心構えを身につけるためには「才」を充実させることが肝要だと考えたからでした。「少女(おとめ)の巻」のお話です。

 

 

 

 源氏物語 若紫の段

 

 

 「才」についてお話申し上げましたので、次に「たましひ」とか、「やまとだましひ」について少しお話申し上げましょう。「才」は大切ですが、それだけでも困ったものでした。深い思慮、しっかりした智慧が働かなくては何の意味もありません。せっかくの「才」も生かされないからです。そうした思慮・智慧・分別・度胸などを指すのが、「たましひ」で、「やまとだましひ」だった言葉です。主に『大鏡』には、そうした「たましひ」の大切さを、所々で切々と説いています。 (明日は 「受領層のをんなたち」)

 

 

 

 光源氏の二番目の正妻 女三宮 猫とお戯れの図

 

 ※ ご注意 光源氏の本当の長男は藤壺の中宮との間にできた桐壺帝の第十皇子、後の冷泉帝でしたが、あらぬ仲での長男であったために、父・桐壺帝の皇子となったのです。多分桐壺帝はかの秘め事をご存知だったかも。しかるに公に言われる長男の夕霧は葵上との間でできた子で、実際は次男です。尚長女の明石の姫君は、母が明石の君ですが、紫の上の養女となり、匂ひの宮の母親となって、光源氏は先日お話申し上げた「后がね」を果たし外戚として復権を果たすのでした。救われる思いが致します。薫、又は薫の君は表向きには光源氏の次男ですが、実際は柏木と源氏の正妻である女三宮との間にできた男子でした。藤壷の中宮と冒した過ちは、こうした因果応報だったのでしょうか。「もののあはれ」の極みです。私見で恐縮ですが、『源氏物語』は何もオンナたらしの物語ではなく、抑制がきいた詩情性溢れるすばらしい一大叙事詩と受け取っています。賢明な紫式部の、社会全体に対しきめ細かな心配りが随所に感じ取られる、全篇リリカルな物語なので、是非原文でお読みになられますことをお薦め申し上げます。

 

 

 

 源氏物語 色紙貼り図屏風 (石山寺 源氏物語展より)

 

 

 

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