古都・京の紅葉へ 平安王朝の文学 その背景と解釈へのお手引き ⑥

 

 

 受領層出身のをんなたち 彼女らが実質的に平安文学を形成 和泉式部 紫式部 清少納言など

 

 

 

 

       古都・京の紅葉へ 

                平安王朝の文学 その背景と解釈へのお手引き ⑥

 

 

     第六部  受領層のをんなたち

 

  『枕草子』に、「大納言殿参り給ひて、ふみのことなど奏し給ふに」で始まる段があります。当主の道隆が関白としてにらみをきかし、その一家である中関白家が全盛を誇っていた正暦五年(994)の出来事を記したものだと考えます。「大納言殿」とは伊周を指して言っています。「ふみ」とはここでは漢詩のことです。当時、伊周は十五歳の一条天皇に、よく漢詩文について御進講されていたようです。その都度その席には伊周の妹である中宮・定子も加わっておりました。当然清少納言もおそばに控えて拝聴するといった具合でした。因みにその頃の伊周は二十歳、定子は十九歳でした。

 伊周の漢学の素養は抜群で、優れた漢詩文を幾つも残しています。更に定子の学識もかなりなものだったようです。伊周や定子の母は、高階氏という中流貴族の出で、貴子と言いました。高階氏は出世しても精々四位どまりで、官職も国の守(かみ)、つまり国司(こくし)あたりで行き止まりとなる受領層(受領とは国司の意味です)と言われる家柄で、それでも貴子の父は漢学へ造詣の深い御仁でした。『栄華物語』(巻三・さまざまなよろこび)によれば、我が娘の将来について、つまらない男と結婚して泣き目を見るよりは、宮仕えさせたほうが良いと考え、「公宮仕へ(おほやけみやづかへ)」、つまり女官として朝廷に仕えさせたのです。

 貴子は、「女なれど、真名(=漢学)などいとよく」書きこなしていましたので、「内侍(ないし)」に登用されました。「内侍」とは、「内侍司(ないしのつかさ)」という、女性たちによって構成された官庁の三等官、今で言えば局長級の幹部職員である「掌侍(ないしのじやう)」といったところです。この官職は、受領層出身の中・下流貴族出身のをんなたちにとって、そのもう一つ上位の「典侍(ないしのすけ)」とともに、「公宮仕へ」をしようとする場合、最高の地位であり、憧れの的だったのです。

 この職位を占めるには、漢学のわきまえが必須だったのです。貴子もおそらく幼児より家庭で漢学を修めたのでありましょう。貴子の学力は相当なものであったようで、『大鏡』(道隆伝)によれば、「まことしき文者(もんざ)」、即ち本格的な学者で、なまなかな男衆は敵わなかったようです。その貴子を見込んで「北の方」としたのが道隆でした。『百人一首』のなかに、「忘れじの行く末までは難(かた)ければ 今日を限りの命ともがな」という和歌がありますが、道隆と愛し合うようになった頃の貴子の作です。もっとも、同じ『大鏡』(道隆伝)によれば、をんななのに漢学に身を入れたために、夫には先立たれ、一家の没落を目の前で見るはめになったのだと批判がましく書かれてありますが・・・・・・。それは又別なお話として、こうした高階家で伊周や定子が立派に成長したわけで、その学才は母方譲りだったのでしょう。昨日漢学とは男の世界のものだと断じました。確かにそうなのですが、正面きって取り組むのはをんならしくないとされ憚られたようです。でも内輪では、漢詩文に親しむをんなたちは結構いたようです。特に「典侍」や「掌侍」を狙おうという場合には、漢学の学問はどうしても必要だったのです。高階貴子の前例の他に、『篁(たかむら)物語』という作品に、娘を「内侍」にするのが夢だという父親が、娘を腹違いの息子を家庭教師にして、漢学を教えたとあります。受領層のをんなたちは、一通り漢詩文についての素養を結構持っていたということでありましょう。

 清少納言、紫式部といえば、平安時代を代表する特に優秀なをんなたちで有名ですが、この二人とも、ともに受領層の出身で、二人とも漢学を身につけていたことは明らかです。そしてその才能を見込まれて、清少納言は定子のもとへ。一方の紫式部は彰子のもとに行き、ともに「女房」としてお仕えし 活躍しておりました。

 権勢を誇る上流貴族は、先日お話申し上げた通り、その娘を皇太子・天皇のもとに入内させます。その場合優れた侍女を集めてその娘のまわりを固めるのが普通でした。これが「女房」で、官職を持つ公的な侍女や、それを持たない私的な侍女を合わせて、比較的上層の宮仕えのをんなたちを指します。そうした最大の供給源としての役割を果たしたのが受領層のをんなたちだったのです。こうして平安時代の文学史は、受領層出身の「女房」の活躍を抜きには語ることができないのです。

 さてそうした「女房」たちの活躍ぶりをもっともよく示してくれるのが『枕草子』です。高階貴子は、宮仕え経験が豊富だったので、貴族が好む社交的センスや雰囲気がどういうものかよく心得ていました。そこで、『栄華物語』(巻三・さまざまのよろこび)によれば、娘・定子の教育にあたってもあまりにも「奥ぶか」であること、つまり引っ込みがちで近づきがたい感じを与えるようなことを嫌い、「今めかしう気近き(きぢかき)」ふう、華やいで親しみやすい雰囲気を醸し出すように心がけたそうです。『枕草子』の描く定子や伊周などのイメージもそのように感じられますね。勝気で開放的な性格の清少納言にはうってつけの奉公先であったわけで、従って水を得た魚のように、溌剌とした活躍ぶりをみせることができたのでしょう。こうした定子の周辺から考えてみると、『紫式部日記』を参照するまでもなく、彰子のところは、慎み深く閉鎖的な感じで、若い貴族にはとっつきにくかったようです。

 尚、受領層の家庭を覗いてみるには、『更級日記』がもっとも良い教材でしょう。父の任地先である上総の国から上京する長い旅の回想から始まるこの日記には、一人娘、をんなの目線によって捉えられた受領の家族の家庭が如何に地味であったか、それこそ地味な筆致で描かれています。

 受領層は、貴族としては中・下流の貴族ですが、国司をして地方を治めるというのは、富を蓄積する上では結構な好都合で、豊かな財力を誇る連中がいたようです。『更級日記』に描かれている作者の父・菅原孝標(すがらわのたかすえ)は、地味で才覚もない平凡な人物に映りますが、官僚としては大変に強かであったようで、かなりな財力を蓄え、平安京でも第一級の住宅地である三条に大邸宅を購入致しました。『今昔物語』には、「受領は倒るる所に土をつかめ」(二八・三八)という諺がありますが、中には欲の皮が突っ張った酷い輩もいたようです。 (次回最終回 明日 「結婚」)

 

 

 

 石山寺所蔵 土佐光起作 『源氏物語』 花の宴

 

 

 今日は「一茶忌」で、外は酷い時雨模様のようです。昨夜は父と共に近くの焼き鳥屋に。人生初めて、父と一緒に戸外へお酒を飲みに行って参りました。最初銀盤酒造の地ビールを飲んでいたのですが、普段二人とも晩酌の習慣がなく飲みきることができるかどうか分からずにも、一升瓶丸ごとをテーブルに持って来て戴きました。始めは私だけ、妻や子どもたちのことや、櫻の話をしたり、そして父の愛する盆栽たちや山などのことを、まるでインタビューするかのように伺ったりしていましたら、茨城・須藤酒造の冷酒「山櫻桃(ゆすら)」の味があんまり美味かったせいなのか、ついに父がボソボソと話し始めました。最初は山のことが多かったのですが、私が亡き母の、楽しかった多くのお話をチョイチョイ挟むと、唐突に父からも母の話が零れ落ちて参りました。父は本当に素朴に話すのです。そして二人で一升瓶を半分以上あける頃になって、愈々核心部分の母との出会いのことや、誰も知るはずがない母の思い出話が少しずつ明らかに。いずれ又別個な記事に書かせて戴きますが、私は久し振りにオイオイと泣いてしまいました。如何に父が母を愛していたかを強かに知り、そして流暢にフランス語でモリエールを読誦する艶やかな姿などを思い出し、初めて心底からあれこれ伺ったからです。自宅玄関前で、思わず父が私をちょっとハグし、「又飲みに行こう、淋しかったねぇ、お互い」とボソリ。初めての経験ばかりでしたので、私も、随分と意固地を張って悪かったなぁと妻に話しながら、再びハラリと泣けました。妻も貰い泣きし、冷静な妻でも珍しく泣いておりました。今朝、いつものようにお粥さん造りをした後、お祈りの時間に、一茶が霊魂と、母の御霊に深く頭を垂れました。霊前には、父がどこからか買って来たのかカサブランカの花たちが、今を盛りに咲き誇って、馨しい芳香を放っておりました。

 

 

 

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