古都・京の紅葉へ 平安王朝の文学 その背景と解釈へのお手引き ⑦ 最終回

 

 

 

 紀州徳川家に伝わる有職雛 雄雛と雌雛

 

 

 

 

       古都・京の紅葉へ 

        平安王朝の文学 その背景と解釈へのお手引き ⑦ 最終回

    

 

    第七部(最終回) 結婚

 

  当時の貴族の結婚とは、一夫多妻が普通でした。男系相続を一般的に所望された産物でしょう。道長の長男・頼道(よりみち)は、村上天皇の孫、具平(ともひら)親王の子・隆(たか)姫と結婚しました。仲良く暮らしておりましたが、三条天皇から皇女をどうかという打診を受けられました。何せお相手が天皇です。すげもなく断わるわけでは行きませんでした。『栄華物語』(寛一二・玉のむら菊)によると、妻を思う頼道は、涙を浮かべ、道長の助言を受けその意向に従うことにしました。そのうちしおれた様子を見て、道長は、「男は妻(め)ひとりのみ持たる、痴(しれ)のさまや、今まで子もなかれば、とてもかうても、ただ子を設けむと思はめ。このわたりは、さやうにはおはしますなむ」と言い聞かせています。大意と申しますと、「男子たるもの妻がたったひとりなどというのはとんでもないこと。めそめそするとは、まぬけもいいところだ。今まで子宝に恵まれていないのだから、子を授かるのだと割り切ればいい、あの三条天皇の皇女ならきっと子宝に恵まれることだろう」ということになりましょうか。当時の貴族、特に男性の結婚観がよく現わされています。でもこの結婚話は、隆姫の亡父・具平親王の「物怪(もののけ)」が現れて妨害され、幸か不幸かお流れになってしまいます。『源氏物語』でも、たった二年半、須磨への流刑で終わった光源氏は都に復帰してみると、既に兄朱雀帝は上皇になられていて、何と藤壺との間にできた子・冷泉帝に代わっていました。次第に我が父は光源氏ではないかと悟った冷泉帝は、光源氏を准太天皇にして、上皇の次に偉い権力者に致しました。時に出家されようとしていた前帝・朱雀上皇(光源氏の兄)から光源氏は相談を受けます。出家するにおよんでたった一つの心残りは、娘のことだと。光源氏は四十過ぎていましたが、兄から言われ、まだあどけない女三宮を迎える(結婚)ことにしたのです。権力者となった光源氏はその時、六条院という壮大なお屋敷を構えていましたが、春の御殿には正妻・紫の上がいました。でも紫の上に申し伝え、不承不承(紫の上からは)承知させたのでしたね。かくして女三宮は、光源氏の正妻となります。紫の上は源氏が理想的なをんなに育て上げた可愛い素敵な妻であったのですが、これ以降、紫の上には一つもいいことがなくなってしまいます。

 十世紀末成立したと考えられる物語に、『落窪物語』があります。継母に酷い扱いを受けていた権中納言の娘を一人の貴公子が救い出して結婚し、一生他のをんなたちに目もくれず、ひたすらその妻だけを愛し続けたというお話です。見事に一夫一婦を貫くのですが、作り物語の世界でのお話で、果たして現実にはどうだったでしょうか。その貴公子の母は、男が何人もの妻を持てば、どうしても妻たちの間に不満が生じ、そうした妻の嘆きや、悲しみを背負うことになるし、自分自身が苦しいことなのだから、妻は一人に定めなさいと忠告しています。『蜻蛉日記』の作者のように、多くのをんなたちは、愛を分け与える夫に対する不平不満を真っ直ぐにぶつけることが出来た女性は少なかったと思うのです。ひたすら忍従する妻たちのほうが遥かに多かったのではないでしょうか。紫の上が、女三宮を受け入れえたように、内心ではこのジジイぐらいな不満があったことでしょう。

 さて何人もの妻がいる場合、本妻とその他はどう差別されたのでしょう。でも当時としては然程、そうした差別は問題にならなかったようです。道長は、最初宇多天皇の孫、当時の源氏の重鎮である源雅信(まさのぶ)の娘・倫子と結婚し、更に醍醐天皇の子、源高明(たかあきら)の娘・明子をも妻にしましたが、『大鏡』(道長伝)では、どちらにも等しく「北の方」と記してあります。特別に扱いの違いはありません。妻の実家の格差が酷ければ別になっていたかもしれませんが、要するに妻は妻ということのようです。但しはじめに妻となって先に子を産んだ方が強いわけです。道長の場合も、倫子の子の方が、明子の子に比べると、出世という点では距離が生じています。さきほどの頼道は、道長の跡を継いで摂政・関白となりますが、倫子の子です。彰子もそうでした。

 さて求婚は、男から女に和歌を贈ることから始まるのが普通です。『蜻蛉日記』によりますと、兼家の求婚は全く率直そのもので、普通ならば、しかるべき仲介を立てて感触を探るところなのに、「親とおぼしき人に、たはぶれにもまめやかにほのめ」かしたそうです。「親とおぼしき人」とはもって廻った言い方ですが、親そのもののことで、作者の父を指しています。冗談のようであったような打診で、作者のほうは、「便(び)なきこと(不都合ナお話)だと取り合わなかったのですが、そんなことをお構いなしに、或る日求愛の和歌を届けてきたのでした。でもその筆跡を見て評判とは違って、えらくそっけない書きようなので、本物かしらと作者は思うのでしたが、これが切っ掛けで何回か二人の間に和歌の遣り取りがあって、とうとう結ばれてしまいました。夏に求婚され秋にはスピード婚を果たしたのでした。

 結婚といっても現代のように盛大な結婚式や披露宴があるわけではありません。よろしいとなると、男の方が相手の家に通い始めるのです。今の式に当たると言えば、「みかのよ」、つまり三日目の夜に新郎新婦がお餅を食べる儀式ぐらいでしょうか。初めて新郎に食事を供することが、娘の夫として正式に身内として受け入れられたことの確認になるのです。それまでは新郎だけが夜ひっそりと通って来て、夜明けには帰るだけですが、みかのよ」を境にして、昼もその家に」いることが許されたのです。

 このように娘に婿ができると、その生活の面倒一切合財は、妻の実家の方がみることになります。食事の世話や衣服の調達などが立派にとり賄えてこそ「北の方」さまなのです。又、子が産まれると、その養育も母方、妻の実家ほうで行われます。子は、父方よりも母方、つまり外戚の人々との馴染みの方が強くなるのが当然でした。『源氏物語』についてお話しましょう。光源氏は十二歳で元服し、左大臣家の娘をと結婚します。その妻・葵の上は、長男・夕霧を出産した後亡くなってしまいます。出産のために命を落とした事実は結構あったことなのです。葵の上は亡くなりましたが、忘れ形見の夕霧は、そのまま外祖父母の手元で育てられます。妻を失った光源氏は、薄情のようですが、左大臣家から足が遠のいていってしまいます。年が明けて初春、しばらくぶりに左大臣家を訪れた光源氏を迎えて左大臣夫婦は悦びます。故人の部屋は生前と変わりなく、その衣装掛けには例年のように、光源氏が着るべき晴れ着が掛けられていました。「御衣掛(みぞかけ)の御装束など、例のやうにし掛けられたるに、女(葵の上)のが並ばぬこそ、なべてさうざうしく映えなけれ」と記されていますが、少々しんみりと致しますね。その装束は女の実家の務めとして左大臣の妻が用意したものでした。光源氏は心の中で「来(こ)ざらしましかば、口惜しう思(おぼ)されまし」と思うのでした。ああ、訪れてよかった、もし来なかったら、どんなに残念にお思いになったことだろうと。「葵」の巻でのことです。

 夫の身の回りの面倒は妻の家でみるということであれば、財力がなければどうしよもありません。妻の家が貧しければ、離れる原因ともなります。『伊勢物語』の第二十三段(筒井筒の段)は、初恋を実らせて結婚した夫婦にやがて危機が訪れます。危機の原因は、妻の親が亡くなり経済的に苦しくなったことにありました。夫は「もろともにいふかひなくてあらなむやは」と考え、他の女性のもとに通うようになったのです。貧しくなった女と一緒になって、こっちまで詰まらぬ状態で我慢してなんかいられないと見限ったわけです。結局、妻の誠意と真情溢れる和歌が夫の心を呼び戻したのですが、やはり財力の有無は、微妙に夫婦関係を左右しました。受領層の時にお話しましたが、受領層は財力が豊かだったので、それを目当てに結婚する貴族も多かったようです。

 それにしても、夫にとっても、子にとっても、外戚の存在は大きいものでした。一般の貴族と天皇を一緒に扱うわけにはいきませんが、上流貴族が目の色を変えて外戚の地位を目指すのも、このようにしてみればご納得が行くのではないでしょうか。藤原頼忠の例のように、外戚となり得なかった場合の関白の悲哀も相当なものだったことが分かりますね。そう言えば頼道と具平親王の娘とのお話があった時、道長は「男は妻(め)がらなり」と言って賛成したと言われています(『栄華物語』 巻八 はつはな)。男の価値は妻しだい、つまり 外戚しだいで出世も左右されたというわけです。

 こんなあれこれの事情を知って紫式部を考えてみると、当時の社会情勢を巧みに考慮に入れていたことがよく理解できます。有為翩々とした男女の機微は、同時に社会情勢の変動も無視できないことであったのです。一人娘を抱え宮仕えをした紫式部は道長と、道ならぬ恋をしたとも伝わっています。三角関係の図式が物語りの骨格です。晩年の光源氏は全く光り輝く人には描かれておりません。そうしてずっと冷たくしていた紫の上が亡くなると、光源氏も間もなく亡くなりました。最期「雲隠」とだけ書き記し終わっています。その後は恋一筋に生きた元友人の子・柏木と女三宮との間にできた薫と、明石の姫君から生まれた匂宮と、浮船との三角関係で、宇治十条が生まれます。多分宮仕えを終えた後に描かれたものでしょう。幾ら高貴な御方だからと言って、紫式部の筆致は容赦なく益々冴え渡ります。それこそ自由に描かれたのではないでしょうか。二人の貴公子の狭間で悩み苦しんだ挙句、浮船は入水自殺をします。然し死に切れず、一僧侶から救われ出家致します。薫が人づてに生きていることを知り、逢いに来るのですが、やんわりと断わってしまいます。突然そこでこの長い小説は終わりを告げるのですが、この終わり方こそ、紫式部が願った「女人往生」ではなかったのでしょうか。あの石山詣でによって如意輪観音菩薩さまに祈った時のように!西暦1005年に宮仕えに出たことは分かっているのですが、生没ともにすべて不明です。『源氏物語』は、世界一の普遍的な壮大な小説だと信じます。

 

 

 

 

 源氏物語展から 十二単 一部

 

 

 

 

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