紫式部と歩く錦秋の、秋の京都へ

 

 

 

 

 

                         紫式部と歩く錦秋の、秋の京都へ

 

 

  今、世界では世界五大偉人の一人と数えられ、紫式部は日本人で唯一選ばれた偉人並びに文豪として、ユネスコに登録され、世界で最も古い偉大な女性と呼ばれています。このような栄えある偉大なる人を持つ私たち日本人は幸せだと改めて感じます。さてそろそろと紫式部と京都を歩く旅に出てみましょう。

 

       石山寺

  先日お話申し上げた「ああ憧れし 錦秋の石山詣で」であったように紫式部と「源氏物語」では、この滋賀県大津市にある石山寺は先ず欠かせない御寺です。「石山寺縁起」や「源氏物語」の古注釈書である『河海抄』をはじめとして、いろいろの書物に記されれている源氏起筆の物語は、古くから心ある人々の親しまれ、石山寺と源氏物語、紫式部はと、ともに語られることが多いんです。式部の参籠したという部屋は源氏の間として現在でも保存され、その時使用したといわれる美しい「古硯」も今に伝えられています。そして折々の方々は源氏物語や紫式部に因んだ美術品や文学作品を石山寺に寄せ、平安王朝のいにしえをしのぶよすがとしてきたようです。それらの中には、有名な「石山寺縁起」、土佐光起筆とされる「源氏物語末摘花巻」、あるいは各時代にわたる式部の画像(その多くが湖面に映る月を眺めて物語の想を練っている図柄である)の数々、あるいは白河藩主楽翁の寄進にかかる「源氏物語」、江戸時代初期の貴顕が一帖宛分担書写した「寄合書源氏物語」などもあり、また源氏物語に因んで文人たちが奉納した和歌・俳諧・紀行などにもその多くを数え、石山寺と紫式部に心を寄せる風雅の士がいかに多かったかを示しているのです。白河藩主楽翁松平定信が寄進した「源氏物語五十四帖」はそれら逸品中の逸品です。題簽を名筆家・近衛三藐院信伊が端麗な筆蹟で記し、本文は幕府御連歌師・里村玄陳(紹巴の孫)が定家風の筆致で書写しているというだけでなく、表紙は各帖ごとにさまざな美しい「型押し」や「墨流し」で飾られ、全巻を納める箱もそれ以上に贅を尽くしたものであります。「源氏物語」に因んで詠まれた和歌の中にも珍しいものが御座います。江戸時代の代表的古典学者で、「源氏物語湖月抄」の著があり、和歌俳諧も能くした北村季吟は、宝永元年(1704)八十一才の時奉納した「源氏物語巻々和歌の自筆巻物」や、賀茂社の神官で源氏研究家であった鴨祐為が安永二年(1773)に、例の「こよひはじふごやなりけり…」の各文字を歌の上の句と下の句の頭に冠して百首詠じた「源氏物語冠和歌」なども残されています。祐為はほかにも源氏物語和歌数種を遺し、また紫式部の愛すべき小像を自ら刻んでおり、その傾倒ぶりが存分にうかがえることでしょう。このように、物語が誰によってどのように書かれたかということに深い関心が寄せられて来たのは「源氏物語」をおいて他に類例がないと断じても良いでしょう。それは石山寺の観音信仰が分かちがたく結びついているからでしょうね。石山に詣で、観音に祈る人々は、同時に昔日ここへ来て物語を書いたという紫式部に思慕の念を懐いたに相違ありませぬ。因みに、中世に於いては、物語の想を練る式部の姿に観音にオーバーラップさせた画像が作られ、紫式部即観音の信仰などもあったのでした。 ちょうど今頃が錦秋の石山寺、本堂のご法灯の灯かりと相俟って、一層鮮やかに全山紅葉の海となっていることでしょう。

 

        廬山寺

 京都御所の東側、京都府立医大病院の北西にある廬山寺は、源氏物語の作者で世界的な文豪とたたえられている紫式部が居住していた邸宅があった所と言われています。廬山寺は平安時代に船岡山に創建され、天正年間に現在地に移建されましたが、寺地になる前は紫式部の曽祖父・藤原兼輔の邸宅だったところから、おそらく彼女もここで育ち、結婚生活を送り一人娘の賢子(けんし)を産んでいたと思われます。夫・藤原宣孝の死別後に書き始めた源氏物語をはじめほとんどの作品は、この邸宅で執筆されたと見るのが妥当ではないかと多くの学者が唱え、昭和四十年、考古学者角田文衛博士によって邸宅跡と考証されたものです。更にその年この廬山寺境内に顕彰碑が建てられました。

       めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に
         雲がくれにし夜半の月かな
                                 紫式部
       有馬山ゐなの笹原風吹けば
         いでそよ人を忘れやはする
                                 大弐三位

 この大弐三位とは紫式部の一人娘・賢子のことで、宮仕えはしましたが、夫は三位という高い地位の貴族であったために、宮中ではそう呼ばれておりました。実際彼女自身も三位に叙せられ、何と80歳まで生きたようです。尚紫式部の生没年は不祥ですが、生まれは973年頃、没年は1019年頃と推測されているようです。本名もはっきりせず藤原香子(こうし)との説もあるが定かではありませぬ。廬山寺は元三大師・良源の創建で、与願金剛院と呼ばれ初めは北山に御座いましたが、寛元3年(1245)船岡山に移建され、さらに天正年間(1573~92)に現在地に移った記録があります。古くから皇室との関係が深く、現在の本堂・御牌殿などは仙洞御所の一部を移建したものとも伝えられています。境内には皇族や皇妃の墓が多く、御牌殿南には平安時代の感じを考証して復元したとされる「源氏の庭」があります。庭の中央の自然石に刻まれた「紫式部邸宅址」の碑の文字は文学博士・新村出氏の筆によるものです。この「源氏の庭」は平安朝の庭園の趣がよく表現さていると源氏物語研究者や多くの参詣者さんから大変な人気があるようです。白砂の所々に緑の島があり、そこには美しい紫色の桔梗が植えられ、一層風雅を伝えていますが、現在は桔梗の花は観られないでしょう。その代わりそう多くはないのですが、山もみじの配置が実に絶妙で素晴らしく、秋の廬山寺で鑑賞できる境内の紅葉は雅な美しい様相を呈しております。今がちょうど見ごろでありましょう。

 

       大覚寺

 「源氏物語」の主人公・光源氏は、「光る君」、もしくは「光る源氏」ともてはやされて、現世の栄華を極めます。でも、その心中は無常の思いをかき抱き、出家して仏に仕える生活に憧れていた面もあったのでしょうか。そして嵯峨・大覚寺の南に御堂を建立致しますが、大覚寺東の大沢池あたりの風景は、そんな光源氏の憂愁に満ちた心象をしのばせてくれるに充分ですね。大沢池は嵯峨天皇の嵯峨離宮の苑池として中国の洞庭湖を模して造られた池で、庭湖とも呼ばれているようです。静かな水面には北嵯峨の山を映し、池には天神島、菊島があり、周囲の堤に春は櫻、秋は紅葉の名所としてよく知られています。また平安時代前期の池泉舟遊式庭園としての名残をよくとどめた日本最古の人工庭園のひとつと言われており、秋は紅葉に彩られます。櫻守の佐野籐右衛門さんの苗場やご自宅はこのすぐ近くにあります。また平安時代の建築の面影を伝える大覚寺は、大同4年(809)に即位した嵯峨天皇が皇后との新居にした離宮を、貞観18年(876)に寺となされたのが始まりとされておりますが、後に、後宇多上皇が大覚寺にお入りになられ、この寺で院政を摂ったことから嵯峨御所とも呼ばれました。上皇がこの寺で没して以来、この皇統を大覚寺統と称されました。元中9年(1392)の南北朝の和議も大覚寺で行われ、南朝(大覚寺統)の後亀山天皇が、北朝(持明院統)の後小松天皇に三種の神器を譲り譲位した。大沢池の西に見える心経宝塔は嵯峨天皇の心経写経1150年記念の昭和42年(1967)に建てられた。何とはなしに、大覚寺や大沢池の周辺に来ると、錦秋の風情が何とも言えない風雅を伝えているように思われます。余談ですが、藤原定家の歌にある「見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋(とまや)の秋のゆふぐれ」や、西行の「心なき身にもあはれは知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋のゆふぐれ」や、寂蓮の「さびしさはその色としもなかりけり 真木(まき)立つ山の秋のゆふぐれ」など、所謂侘び寂びの「三夕の歌」として後世の芭蕉翁などに与えた大きな詩情を考え合わせながら茫然として佇むのもいいかもしれません。

 

       清涼寺

 源氏物語で光源氏が大覚寺の南に建立したとされる御堂は、嵯峨天皇の第12皇子・源融(みなもとのとおる)の山荘「棲霞観(せいかかん)」がそのモデルとなっているようです。棲霞観は寛平7年(895)源融が死ぬと、ご遺族が御堂を建立し棲霞寺としたのが阿弥陀堂の始まりで、今は清涼寺に吸収された形になっています。現在の阿弥陀堂は、江戸時代の文久3年(1863)に再建されたものです。風流の素敵な貴公子であった源融は光源氏のモデルと言われておりますが、果たしてどうだったでしょうか。彼の供養のために作られた阿弥陀三尊像(国宝)は、源融が死亡する前に自分の顔に似せて造られたご尊像らしいのですが、光源氏のモデルの顔とされることから「光源氏の写し顔」の伝説があります。清涼寺には源融の墓と伝えられる宝篋印塔や嵯峨天皇・檀林皇后の石塔もある。清涼寺は嵯峨釈迦堂の名で呼ばれ今でも大変に親しまれていることでしょう。ご本尊の釈迦如来像(国宝)はインド、中国、日本の三国伝来の生身のお釈迦さまとして崇敬されており、日本三如来のひとつです。お釈迦さまが37歳の時の生き姿を刻んだとされるこの御像が中国に伝来、その御像を模刻した釈迦如来像さまが日本に伝わり、清涼寺の本尊となったとの寺伝があるようです。釈迦如来像を模刻した時、中国の尼僧が像の体内に絹で作られた五臓六腑(ごぞうろっぷ)を入れたらしく、これが昭和28年(1953)に発見されました。既にこの時代の中国では人間の体内の構造が知られていたこと示している。無論国宝に指定されています。今は浄土宗知恩寺派の属しておりますが、今日から28日まで東本願寺で報恩講がありますし、28日は親鸞上人忌ですから、お堂内では何かと法要があるのでしょうか。いずれにせよ、ここのひろびろとした境内全域はモミジの名所でありまして、多宝塔横の楓や本堂裏庭の弁天堂周辺の楓の紅葉は見事です。また回廊越しに見る紅葉風景も何とも情緒があります。清涼寺西隣にある宝筐院も紅葉の名所として最も名高い寺院でありましょう。

 

        大原野神社

 京都市の西郊、大原野の小塩山の麓にある大原野神社は、紫式部が若い頃から何度も訪れ場所です。父・藤原為時と一緒に越前の国府(福井県武生市)にいた時も、都の生活を懐かしんで小塩山の松を詠んだ歌があるくらいです。この辺りは古くから開けた処で、都を奈良から長岡京へ移した桓武天皇も、この大原野で鷹狩りを楽しんだと伝えれています。大原野神社は、延暦3年(784)長岡遷都の際、奈良の春日大社(藤原氏の氏神さま)を勧請されました。更に平安遷都後に現在地に移された古社で、藤原氏として藤原氏出身の后妃の行啓が度々あったようです。中でも寛弘2年(1005)紫式部が仕えた一条天皇の中宮・彰子(しょうし)の行啓は、父・藤原道長も加り、豪華絢爛(けんらん)たる行列であったと言われています。この行啓に紫式部が加わっていたかは定かではありませんが、同じ藤原一門出身であったことから同行も考えられますね。社殿は奈良の春日大社を模して造営されおり、境内には奈良・猿沢池をまね鯉沢池や鹿園があります。大原野神社の神域は約8万3000平方mと広大でありまして、このうち6万6000平方mは緑豊かな林になっている。春は櫻、秋は紅葉によって彩られた境内や神社周辺の景色を、平安時代にも殿上人たちが大いに楽しんだようで、今も同じように参詣者や行楽客を楽しませてくれています。

 

        紫式部をそぼろ訪ねて

 紫式部はその生没年、生誕地、本名も定かではありませんが、紫式部が産湯に使ったとされる「産湯の井」なるものが紫野・大徳寺塔頭の真珠庵に御座います。でも、この真珠庵の開創は15世紀で、すでに紫式部はこの世にいないのですが……?。引接寺(いんじょうじ)境内の十重の石塔婆は、室町時代の元中3年(1386)の刻銘がありまして、紫式部の子孫である円阿上人が建立された紫式部供養塔と伝えられています。夢に閻魔大王が現れ、上人に塔婆の形を教えたとの伝えがあります。引接寺は本堂に閻魔(えんま)大王をまつっていることから、「千本えんま堂」の呼び名で親しまれておりますが、あの世とこの世を自由に往来した御仁と伝えられております、平安初期の学者で政治家の小野篁(たかむら)が、地獄で苦しむ人たちを救ってやろうと閻魔大王から「塔婆供養」の秘法を授かり、船岡山の麓に小堂を建て自ら刻んだ閻魔大王を祀り、塔婆供養をしたのが「千本えんま堂」の始まりで、「源氏物語」の本は、紫式部の初稿本や改稿本などのほか数多くの写本がありました。それ故に平安時代の由緒ある写本は消失し、現存するのは鎌倉時代以降の写本となったようです。その写本のひとつが京都文化博物館に展示されている「源氏物語・大島本」で、室町時代に書写されたものだったとし、藤原定家の写本「青表紙本」に最も近い写本と言われております。

 

        渉成園

 渉成園は東本願寺の別院です。昔は周囲に枳殻(からたち)が植えられていたので枳殻邸(きこくてい)とも言われておりました。光源氏のモデル・源融の別荘・河原院の一部であったと言われておりますが、融が難波から潮水を運び奥州・塩竃の景色に見立てて作られたのだそうです。1641年に徳川家光が東本願寺に寄進し、石川丈山(詩仙堂の主で創始者)に庭園を作らせたと言われています。幕末に2度の火災に遭い、建物は焼失致しましたが、池水、石組みは当時のままらしいです。春は櫻、夏は新緑、秋は紅葉が美しい素晴らしい別邸です。石組み、建物は個性的でセンスが感じられ、近年棟方志功が大画面で墨書、素晴らしい直筆の絵があることでも有名です。

 

       夕顔の墓 その他

 堺町松原上ルにひっそりと夕顔の墓があります。大の仲良しで、最後匂宮との競争をした「頭の中将」との間に女の子がおりました。当時、五条の小家に住まわれていた夕顔は、若き日の源氏に見いだされ、愛されたのですが、六条御息所の生き霊に呪い殺されてしまいます。物語上の人物の墓が実在するとは、興味深い事実なのですがが、それだけ、『源氏物語』が愛されているということでしょう。ちなみにこの一帯は「夕顔町」と言うそうで、夕顔のお墓は民家の中にあり、拝観することは出来ませんが、家の柵の中にひっそりと石碑が立っていることが興味をそそられることですね。石碑を眺めながら儚く逝ってしまった夕顔の冥福を祈りたいものですね。

 源氏物語は紫式部が書きあげた全54帖、最後の10帖は宇治10帖となっている世界最古の長編小説です。古典文学の最高峰として外国語にも翻訳され、世界各国で読まれております。 「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり…」で始まる源氏物語は、壮大な構想に基づいて流麗な文章で描かれています。光源氏の誕生から栄華を極めるまでを描いた第1部、光源氏の晩年を描いた第2部、光源氏の死後、舞台を京の都から宇治へ移した第3部に分けられた構成になっており、女性が読めば女性なりに、男性が読めば男性なりに必然として感銘を受ける壮大な小説です。

 平安宮廷の雅を舞台にした恋のドラマが展開するのが源氏物語です。こうした平安時代の祭事や宮中の行事などは現代にもやふやふと受け継がれ、京都を訪れる観光客ら現代人にも京都の雅とその気高さを披露し、人びとの心をとらえ感動して憚らないのでしょう。京都三大祭りのひとつ「葵祭」は、平安建都以前の6世紀中ごろの欽明天皇の時代に始まったと言われています。この「葵祭」が源氏物語第九帖「葵」に登場致します。「葵祭」の斎王の行列の見物に出かけた光源氏の正妻・葵の上と、源氏の愛がさめていた六条の御息所の車が混雑していた道路で場所争いをして、御息所の車が押しのけられてしまいました。光源氏を巡る女性の争いはこれで終わらなかったのでした。車をはじき飛ばされてしまったことを恨んだ御息所は生霊となって葵の上にとりつき、これが元で葵の上は亡くなるのです。伝統にある雅な葵祭も源氏物語では女性の争いの舞台となっていたのでした。第二十一帖「少女(おとめ)」には宮中の行事「五節の舞」が描かれています。五節の舞は11月の新嘗祭(にいなめさい)の際に、公家たちの娘たち4人が舞姫となって、帝の前で4日間にわたって舞を披露される宮中の年中行事の一つだったのです。この五節の舞の舞姫に、光源氏と源氏の息子・夕霧(ゆうぎり)が歌を贈っています。第34帖「若菜上」では、若い公達たちの蹴鞠が登場致します。蹴鞠は飛鳥時代に中国から伝えられた球戯で、平安時代から盛んになったようですが、六条院で蹴鞠が催された際、柏木は御簾(みす)の裏に光源氏に嫁いだ女三宮の美しい姿を目にして恋心を募らせるようになる。このほか絵合とか歌会などの遊びや行事の時、その場に居合わせた女性と光源氏との恋愛が生まれるきっかけを作り出す小道具となっているのです。二条城の南の神泉苑は、桓武天皇が平安京を造営した時、大内裏の南に接して造られた庭園であります。古くからあった池や林を利用した大庭園だったのですが、江戸時代初めの行われた二条城築城の際に大部分が削り取られ、現存しているのはその一部分に過ぎません。

 京都市、西本願寺北東の油小路通、井筒ビル5階にある私立風俗博物館は、井筒法衣店の8代目当主・井筒雅風氏が集めた古代から近代にいたる日本の風俗、衣装の展示でスタート致しました。その後、これらの装束が実生活の中でどのように使われていたかを、源氏物語の光源氏の邸宅・六条院の一部を4分の1サイズで立体的に再現したり、邸宅に登場する人物に忠実に再現した衣装を着せており、華やかな御殿の雰囲気が間近で楽しめます。六条院は紫式部が「源氏物語」の中で創作した邸宅ですから、物語からその間取りなどを忠実に再現すると、何と敷地は252平方m、池や庭などを含めた総面積は6万3500平方mと言う広大な邸宅になるというものです。光源氏はこの広大な邸宅を四町に区切り、それぞれを春夏秋冬の景色が楽しめる庭や建物を工夫し配置しました。それぞれの町に縁のある女性を住まわせており、風俗博物館では春秋のご寝殿を中心とした一部を再現しているようです。ここには紫上や女三宮が住み、源氏もこの町に住んでおり、六条院の中では特段に華やかな町であったのでしょう。風俗博物館では6月と12月の年2回、展示替えを行って登場人物を代えたり、衣装を着替えたりしています。ほかに遊び道具や年中行事の際の衣装なども展示、当時の皇族や貴族、女官たちの生活ぶりをうかがうことができるようになっています。また書物や絵巻物なども見ることができ、源氏物語の世界を五感を通じて知ることができることでしょう。京都市伏見区の国道1号の東、名神高速道路京都南インターチェンジ南に鎮座する城南宮は、平安遷都の際に都の南の守護神として創建されました。白河上皇が源氏物語の六条院の庭を実現すべく壮大な離宮を造営したとされ、城南宮がその区域内に入って栄えたとされています。境内には「平安の庭」「桃山の庭」「室町の庭」「城南離宮の庭」や「春の山」と呼ばれる庭がありまして、これらの庭には源氏物語に登場する100余種の花が植えられていることから、「源氏物物語花の庭」とも呼ばれています。春と秋には平安貴族の装束を身にまとった歌人たちが、盃を載せた羽觴(うしょう)が流れ着くまでに詩歌を作る「曲水の宴」が催され、王朝貴族の雅を再現しているようです。

 

        野宮神社

 嵯峨野の竹林を代表するのが「野宮(ののみや)竹」で、この竹林の中に延びる野趣に富んだ小径に沿って静かな散策が出来ます。樹木に囲まれて鎮座しているのが黒木の鳥居で知られている野宮(ののみや)神社がありますが、天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王が、身を清める潔斎のため1年間籠もった神社なのです。源氏物語第十帖「賢木(さかき)」で、六条御息所の姫君が斎王として野宮神社で行う潔斎に、御息所が同行し、源氏との悲しい別れの舞台になるのです。小さな社殿の野宮神社は鬱蒼と生い茂る樹木の境内に、黒木の鳥居、小柴垣、石の井戸、苔の庭園などがありまして、閑寂な神域を創り出しています。特に緑の絨毯を敷き詰めたような苔の庭は、雨あがりにはしっとりとした美しさ、紅葉の季節には色づいた紅の葉と苔の緑が織りなす景観は京都随一との定評があるのです。嵐山の麓を縫うように流れる大堰川では、毎年5月の第3日曜日に平安時代の船遊びを再現した「三船祭」が行われ、優雅な王朝時代の雰囲気を醸し出しています。この「三船祭」は嵯峨野の「車折(くるまざき)神社」の例祭としての行事で、大堰川に御座船、龍頭船など20数隻の船を浮かべ、船上では舞楽や今様の奉納、茶道の三千家による献茶式、奉納者の願いが込められた扇子流しなどが華やかに演じられております。

 さて源氏物語には「香り」の描写が非常に豊富で、各帖にさまざまな香りが登場致します。「香」は6世紀半ばに中国から朝鮮半島を経て伝来致しました仏教と共に、日本に伝わり、仏前を清め邪鬼を払う宗教的な慣習として定着したのです。奈良時代には中国の僧・鑑真和上が来日した際に、多くの香の原料を持参してまして「香」の作り方を伝授しています。平安時代に入ると貴族たちが衣服に香を焚き染め、その移り香を楽しむようになりました。鎌倉時代の武家社会でも香を楽しむようになったのですが、香によって精神の統一や落ち着きを求め、出陣に際しては甲冑に香を焚き込めるなど、貴族たちとは異なる香の用い方をしたようです。室町時代には香道が体系化されて香道の流派が誕生致しました。京都市中京区烏丸通の「松栄堂」は、京都御所に仕えていた畑六左衛門が退官後の宝永2年(1705)に創業した300年の歴史を持つ香の老舗です。松栄堂で「源氏物語」に登場する香を含めましてて香に触れてみたことがあります。衣服に香を焚き染めた香りを楽しむ「移り香(うつりが)」や、香炉で香を焚き部屋を香らせる「空薫物(そらだきもの)」、掌に乗せた香炉から立ちのぼる香りを聞く「聞香(もんこう)」など、さまざまな方法で香りが楽しめるのでした。お香は日常生活に多彩で優雅な雰囲気を作り出し、仄かな香りが漂う雰囲気は、一層心に安らぎと落ち着きを与えることでしょう。源氏物語第三十二帖、「梅枝(うめがえ)」には、光源氏を含めて六条院に住まう女性たちが、香料をあれこれ選んで練り合わせる薫物(たきもの)作りを楽しむ様子がこまやかに描写されています。現代でも最もポピュラーで手軽なお香は、直接火をつける線香タイプのもので、本格的なものとしては香炉で間接的に熱を加えるタイプのものがあるのです。他に香料を袋などに入れて常温で香るタイプの匂い袋などもありますが、お住まいの中でも和室や寝室、リビング、玄関などそれぞれの場所に合わせたお香があるでしょう。それぞれの好みやライフスタイルに合わせ、源氏物語の登場人物に劣らぬ香の楽しみ方を考案してみてはどうでしょうか。

    

       宇治のことなぞ

 「源氏物語」ゆかりの地として「源氏物語」「宇治十帖」の主なゆかりの地域は宇治市などがあります。以下に記します。

 

  <あじろぎの道> あの頼道が創設せる宇治の平等院前から、宇治川の左岸(西側)に沿って、府道 大津南郷宇治線に合流するまでの石畳の散歩道・宇治十帖ゆかりの古跡などがある源氏物語散策の道ですが、素晴らしい紅葉の景観は滅多にお目に掛かれません。

 <市比賣神社> 「食べ初め」の発祥といわれ、「源氏物語」などに記されている平安時代後期における皇族や公家で行われていた「五十日百日之祝」(いかももかのいわい)が行われています。
 <宇治川> 紫式部は、宇治川の上流の石山寺に参籠中「源氏物語」を考案したといわれる源氏物語の第四十五帖から最後の宇治十帖には、宇治川周辺の橋姫・椎本・総角・早蕨・宿木・東屋・浮舟・蜻蛉・手習・夢浮橋の十ヵ所が描かれています。瀬戸内寂聴はこの地で紫式部は草庵を建て、そこで「宇治十条」を書かれたと設定しています。

 宇治市 源氏物語ミュージアム 宇治市のふるさと創生事業として、源氏物語をテーマにしたまちづくり事業の中核施設です。

 <宇治・平等院> 平安王朝そのものが壮大な計算のもと造営されていますが、朝6時半の開門と同時にお入りになられ、池の反対側から阿弥陀仏を御覧になられますことを切に期待します。朱塗りの朝霧橋を渡った先にある石治上神宮の真上から出る朝日を受け、壮大な阿弥陀仏の御顔に御光が当ります。白洲正子もそうして御覧になられたようで、阿弥陀の浄土をきっとご体現できることでしよう。
 <宇治神社> 祭神の菟道稚郎子が、「源氏物語」 宇治十帖の八宮(はちのみや)のモデルともいわれています。
 <宇治橋> 古今和歌集や源氏物語などによく登場致します。
 <さわらびの道> 宇治川の東岸から末多武利神社、宇治上神社を経て宇治市 源氏物語ミュージアムに至る石畳の散歩道で、道沿いに、源氏物語 宇治十帖ゆかりの早蕨(さわらび)の古跡があります。今が最も美しく観られる大チャンスです。
 <桂離宮> 智忠親王によって源氏物語の風情が取り入れられるようです。
 <源氏物語の館(げんじものがたりのやかた)> 「源氏物語絵巻」を京友禅にて忠実に復元されている「京友禅国宝源氏物語絵巻・京友禅国宝源氏物語屏風・源氏物語五十四帖和歌集」などが展示されています。
 <清水寺> 「源氏物語」、「枕草子」、「更級日記」、「梁塵秘抄」などの古典文学には数多く登場しています。
 <興聖寺> 天竺堂に安置されている聖観音像「手習観音」が、「源氏物語」宇治十帖の古跡であるようです。「手習の杜」に祀られていたといわれる
 <下鴨神社> 末社 相生社に、2本の木が、途中から一本に結ばれている神木「連理の賢木があり、「源氏物語」にちなんで調製された「縁結びおみくじ」が授与されます。私たちの結婚にもご縁がありました。
 <城南宮> 楽水苑のあちこちに「源氏物語」に登場する殆どの植物(約100種類)が栽培されております。
 <野宮神社> 先ほども申し上げた通り、源氏物語「賢木の巻」の舞台となる、境内の黒木の鳥居と小紫垣があります。

 <橋姫神社> 源氏物語 宇治十帖「橋姫」ゆかりの古跡の一つです。
 <法成寺> 「栄花物語」や「源氏物語」では、当時の華やかさが伝えられています。
 <宝塔寺> 創建時の「極楽寺」として、源氏物語三十三帖「藤ノ裏葉」に登場致します。
 <三室戸寺> 源氏物語 宇治十帖の主人公 浮船の念持仏といわれる浮船観音があるんですよ。浮船の古蹟もありまする。

 

 源氏物語のゆかりの地はまだまだたくさん御座います。でも取り敢えず押える必要があるのは以上のような場所でしょうか。同じ紅葉を眺めるにつけ、紫式部が描いた素晴らしい世界に、少しでもお感じになって戴ければ望外の幸せです。片泊まりの御宿は皆もはや難しいかもしれませんが、逆に大きなホテルほどキャンセルなどで空き部屋があるかもしれません。本日から師走の10日まで最後の紅葉狩とも言えるのでしょう。永観堂や東福寺や三尾などの紅葉どころは、京都人が大好きですから、全く別にご案内仕りました。そんな事情で今日は「源氏物語」のみを中心にご案内申し上げたのでした。是非古都の錦秋を、ご堪能戴きたいと念じています。今、この時が絶好のチャンスであります。

 

 

 保元・平治の乱で亡くなりし方々を祀ってある黒谷の真如堂 源氏には無縁だが大好きな紅葉の御寺である

 

 

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