道に迷わば北斗の星を見よ  秋山好古の最晩年

 

 

櫻と北斗七星 (クリックされますと カシオペアが大きく見えまする)

 

 

 

                   道に迷わば北斗の星を見よ  秋山好古の最晩年

                   NHKスペシャルドラマ・「坂の上の雲」を、今か今かと待望しつつ

 

 

 NHKスペシャルドラマ・「坂の上の雲」は愈々今週の日曜日11月29日から放映されます。今からドキドキワクワクです。司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」は、今回で二度読了致しましたが、早く放映されないかなぁと私たちも待ち通しいのです。主人公はご存知の通り、秋山兄弟と正岡子規。幕末から明治にかけて突っ走った若者三人が主な主人公となる大河ドラマです。但しNHKの所謂一般の大河ドラマではありません。年間を通じて放映される大河ドラマは、「天地人」が漸く終わり、どことなく淋しい思いがありますが、来春3日から、今度は坂本竜馬が主人公となって大活躍することでしょう。その大河ドラマの制作費は一本あたり約七千万円とか。ところが今度公開されるスペシャルドラマは何と一本につきその五倍は掛かっているとか、圧倒的な制作費で、NHKの気合が感じられるというものでしょう。そんなわけで今日は特に秋山兄弟の兄である秋山好古(あきやまよしふる 6人兄弟の3番目)の最晩年に焦点を合わせて書きたいと存じます。

 

 

 秋山好古陸軍大将像

 

 秋山好古は安政6(1859)年生まれで、昭和5(1930)年に享年72歳亡くなられた武人です。ただ一階の武人だけではありませんのです。秋山好古と言えば日本騎兵の父と称されるほど、明治~大正期にあっては偉人の一人に数えられていますが、佐幕派であった松山藩の出身者は行くあてなど殆どなく、先ず進路は決められていたようなものです。役人・官職の殆どが薩長出身者で占められていましたから。年齢をごまかして大阪師範学校に入り、名古屋で早くから小学校の教諭になって教育者として大成するしかありませんでした。然しその途中、郷里の先輩に強く進められ、半ば強制的なご縁があって、陸軍学校に入ることに。若干19歳の時でした。選んで進んだ道は軍馬を育成する騎兵科でした。日本陸軍は富国強兵策の名のもとに、当時ドイツ軍を見本としていた時代に、始めはドイツに軍学留学する予定だったのですが、途中からフランス陸軍へ強制留学。騎兵の何たるかを詳細に学んで帰って来て、明治の終わりを迎えようとしていた頃、日露戦争が勃発、秋山好古は騎兵隊長として中国に渡り従軍致します。相手は中国北東部から南下する10万を越す大部隊・ロシアの精鋭コサック騎馬軍でした。かたや秋山好古が隊長で率きいる軍馬はたったの七千。惨敗は覚悟の上でしたが、秋山好古は自軍に咄嗟の機転をきかせ、騎馬兵戦術を捨て、当時最新式だった重機砲や機関銃中心の待機作戦に転じたのです。さすがのコサック軍も大いに悩まされてしまいました。そしてこの戦況が日露戦争の大きな転機となったのです。弟・真之が作戦参謀となっていた日本海軍では、あの大戦艦隊バルチック船団を、綿密で周到な唐突な突撃作戦の結果、大勝利を掴むのでした。かくして日露戦争は終結するのですが、秋山好古はその後陸軍大将(大正5年のこと)までのぼりつめます。そして周囲の軍人は侯爵とか伯爵となったり、その風潮は次第に零落して行きます。明治時代の後半から大正時代は天皇の統帥権の名のもとに次第に、司馬遼太郎がよく言う昭和初期からの20年間の「魔法の時代」に徐々に突入して行くのです。そもそもご維新には特別な思想はありませんでした。ただ勤皇だけの偏った思想だったと思われます。従って幕末から生き残り組はその限界を衆知したと思います。明治の終わり頃に、明治の元勲たちは次々にいなくなります。ペーパー試験で合格した連中が幅を利かせていたのです。危うい時代の幕開けでした。秋山好古とて全くの例外ではなく、軍人最高の名誉職である元帥に推挙される噂が流れていました。だが殉死した戦友を重んじ質素を好んだ秋山好古、彼の凄いところはそこから始まる最晩年の、教育者としての数年のことであります。

 秋山好古は66歳の時、突如愛する郷里・四国松山の中学校の校長に転身致します。最初は中学の校長が不在となったので、名前だけ貸してもらえないかと言う嘆願でした。その事情を知った秋山好古は即答をします。名前だけではなく実際に行くと。元帥になることはありませんでした。「俺は中学のことは何も知らんが、他に人がなければ校長の名を出しても良い。日本人は地位を得て退職すると遊んで恩給で食うことだけを考える。それはいかん。俺でも役に立てば何でも奉公するよ」(「北予中学楽屋ばなし」より)。好古は当時重い糖尿病を患っていて、歩行が不自由になりかけていましたが、名前だけ貸すのを善しとせず、四国・松山に移り住むことに決めます。この好古の転身にはその実、背景がありました。無論軍部の連中が贅沢に驕っていたことへの反撥もありますが、それらに対するはっきりとしたアンチテーゼの姿勢でした。あんたがたは、いい顔をしていい気になって、そんなもんじゃないんじゃないかという気概があったことです。これからは明日の日本のために教育が大切だと痛切な思いが中心点にあったのです。陸軍大将までなった人が田舎の中学の校長にだなんて、今日の日本ではありえないことでしょう。大正13年、好古は故郷松山の私立北予中学(現・愛媛県立松山北高等学校)の校長に就任します。私立ですから有志の寄付や募金で運営されています。ろくに教育施設もありませんでした。先ず資金集めに奔走し、就任直後には立派な講堂を建てました。精神主義だけでは駄目だ、物理的に教育ができるようにしなければという信念があったことでしょう。最近発掘された当時の学校記録「同窓会雑誌」(現存するのは好古在任中の五巻)には毎年好古の訓示が書かれていますが、最初に、「休暇中に、校地の購入、教室の大修繕をしました。かくして今後ますます愉快に勉強して欲しいためであり、みなさんもこの意を体し、気持ちよく落ち着いて勉強せんことを希望します」。先ず自分が行動し手本を見せ、それから生徒を諭すのが好古のやり方でした。朝は必ず自らが生徒一人一人を出迎え挨拶をしました。更に教師が休んだ時は休講になることを嫌い、好古自ら教壇に立ちました。

 好古が校長を勤めた大正末期は第一次世界大戦に日本も参戦し、勝利した日本は軍事大国として自信を深めている時代でした。そして大正14(1925)年、政府は「陸軍現役将校学校配属令」を出します。これにより全国の中学に将校が派遣され、軍事教練が必修になっていったのです。でも好古は「生徒は軍人ではない」と公言し、出来るだけ最小の訓練にしていたようです。学校職員が好古が軍人時代の軍服姿におさまった写真を生徒に売ろうとしました。その時好古は「俺は中学校の校長である。位階勲章など話す必要はない」と。そして「コンナモノヲ売ツテ生徒ニイラヌ金ヲツカワセテハナラヌ 直ニ除ケテ置ケ」と言って叱り飛ばしたようです。そんな好古の権威を振りかざさない人柄は生徒や教師の心を惹きつけ、校長に見習おうという動きが出始めました。窓ガラスの破損や遅刻や欠席が目に見えるように減って行きました。頻発していた授業料の滞納も徐々に少なくなっていたのです。好古は軍人らしからぬ温厚な対応でした。叱り飛ばすのではなく、褒めてあげることが多かったようです。

 そんな好古が新しく導入したものがあります。それは朝鮮への修学旅行でした。当時朝鮮は日本の統治下にありましたが、好古には或る暗黙の教育目標があったのです。好古が赴任する直前、関東大震災がありました。大正12(1923)年のことです。パニックに陥った日本人から朝鮮人に対して流言蜚語がありました。朝鮮人が暴動をおこし東京に火をつけるというものです。まるっきりのデマでした。でもその結果多くの朝鮮人が虐殺され、痛ましい事件が起こりました。好古は生徒たちに語り掛けています。「流言蜚語が多かったのは精神鍛錬の不在のあらわれです。朝鮮の人が東京を焼くなどありえません。物事を静かに判断できなかったのは遺憾です」と。そして好古は生徒たちに広い視野を持って欲しいと念願しての修学旅行だったのでした。具体的にどんな修学旅行だったのか明らかではありませんが、最近生徒の感想文が見つかりました。「朝鮮というところは旅行前まであまり善いところとは思っていなかった。しかし行ってみると、私の考えは全然裏切られました。松山など足下にも及ばない、李王朝時代の建物を見学した。その色彩の美、彫刻の立派なことは朝鮮文化を表している」と。更に驚くべきことに、朝鮮統治の現状を憂うる日本の立場まで言及していました。「日本のための朝鮮ではなく、朝鮮のための朝鮮でなければならない。日本は遠からずして自治領・植民地の問題を考えなければならない」と。これこそ好古が求めていたものでした。世界を広く見て、世界から謙虚に学ぶ姿勢が最も大切であることを。植民地の方策は古い時代の産物であると好古は考えていたのでした。日本が世界の一員であるという好古の無言の授業は生徒たちに、国際的に物事を見る目を養わせて行きました。ところが残念なことに、好古が校長五年目に入った昭和4(1929)年に未曾有の事態が起きました。ニューヨークを震源として株価の大暴落を起こした世界恐慌です。日本ではそれ以前から第一次世界大戦の反動で経済が停滞し物価が高騰し、北予中学の多くの生徒たちが将来に限りない不安を抱えていました。その年の好古の講話です。遠く離れたデンマークの事例を具体的に話しました。「デンマークは北海道の半分に満たない小さな小国です。国内は荒れ地が多く、国民は餓死するより他にありませんでした。しかし愛国の士をだして盛んに農業を改良しこの五十年に、世界における最も幸福な国民となりました。国民みんなで勤勉努力すれば、前途は少しも憂える必要はないのです」。世界に謙虚に学んで生きればこそ必ず活路はあるというものでした。具体的な事例を挙げて生徒たちを強く励ましました。又好古は学問ばかりではなく、スポーツにも熱心でした。体調が優れない中、炎天下のもとでもよく応援に出かけたそうです。しかし勝ち負けに拘る生徒たちに、こんなクギも刺しています。「競技において過度に勝敗を争って審判に不平を唱える者がいます。しかし英国人が競技するときには、態度を最も大切にし、負けた場合でも泰然自若としています。負けに学んだからこそ英国は大きくなったのです」、好古はスポーツの根本は勝つことより負けから学ぶことがあると諭しました。そんな好古です。脚をひきづりながら歩いている好古を見かけると、人々は近寄って来て、皆、校長先生に挨拶をしたようです。特に小さな女の子には優しく、頭を撫で撫でしてあげるのでした。

 校長になって松山で住んでいたのは元の小さな実家でした。家族を東京に置いたまま単身赴任だったのです。そんな好古の元に休暇中でも生徒たちが訊ねて来たようです。陸軍大将であったことを微塵もひけらかすことはありませんでした。何故単身だったか、注目すべき記録が残っています。日露戦争の戦死者に対して述べた言葉です。「余が育成した優秀な士官の半数以上が旅順にて死んでしまった。今生きていれば、沢山の良い将校が生まれていたとつくづく思う。未曾有の大勝利は国難に殉じた戦死者のたまものである。戦死者の遺族に対しお気の毒と存じ、日露戦争後はつとめて独身生活をしている」(「秋山好古大将伝記刊行会」の本より)。好古は日露戦争での戦死者の御霊を決して忘れてはいませんでした。指揮官として詫びる気持ちを持ち続け、出来るだけ質素な生き方を通したのです。校長を勤めている間、70歳を超えた好古は、持病の糖尿病が日増しに悪化し、脚をひきづらなければなりませんでした。でも人々に優しくする好古の姿は、今でも松山の人々に生き続けています。更に驚くことに、松山市内の厳島神社境内などにある「表忠碑」と揮毫された石碑が立っています。自らの手書きで揮毫し、戦死者の名前もすべて揮毫しているのです。更に更に驚くことに、それが全国各地に点在している石碑だそうなのです。そんな好古にも遂に辞職の時期が来ました。昭和5(1930)年、秋山好古は辞職します。糖尿病の結果、脚に壊疽(えそ)が始まり、勤務は限界に達していました。好古は生徒に別れを告げます。「俺はすでに仕事のおわった老人である。俺が死んでも悲しむな。諸君は俺のしかばねを超えて進め。これが余に対する唯一の義務なり」と。好古は東京に戻り直ぐ陸軍病院へ、そして壊疽が進んでいた左脚を切断することに。この時も「切ってエエよ!脚一本なくても仕事は出来る」とまだ働く意欲を見せていたと言われています。病床の好古が最期まで気にしていたのは、北予中学のことでした。松山市子規記念館に今でも保存されている文書があります。後の校長である烏谷章校長に宛てた達者で流麗な文字で書かれた手紙です。「小生の病状は爽快にはなってきましたが、急治の見込みは当分ないようです。学校職員の整理、並びに補充も別に動揺もなく終了し大安心いたしました」。好古は見舞いに来る人に、「俺もこの年まで立派に校長を務めたよ」と、嬉しそうに語っていたようです。でもこの手紙の一ヵ月後容態は急変し、同昭和5(1930)年、秋山好古は死去。享年72歳でした。末期にご家族が、「お父さん、何か申しおくことはありますか」との問い掛けに、ただひと言、「ない」。最晩年、教育に捧げきった、一点の悔いもない死でした。校長辞職からたった半年で、最期の古武士と言われ、国民に慕われた好古の死でありました。新聞は見出しに「崇高な人格」と書き立てましたが、その新聞すら怪しいものだったのです。好古の死の翌年、昭和6(1931)9月、満州事変が勃発しました。日本軍は中国に戦争を仕掛け進出、海外に学べと教えた好古の思いとはうらはらに、世界から孤立する道を突き進んで行きます。日本の国家というものが、国際協調路線か、対決路線か、まさしく時代の分岐点でした。それで世界の国々と対決するスタートとなった年なのです。好古の死は、幕末・明治・大正・昭和と歩んだ古き良きサムライが消滅した象徴でもあったのでしょうか。特に日露戦争後から日本人の価値観が大きく変化して行きました。「うのぼれ」、「おごり」、「のぼせ」、更には「金権主義の横行」が人間性を磨く機会を失わせたのです。好古は最期まで教育によって、そういう日本人を鍛え直すことの大事さを考えていたに相違ありません。昭和20年8月、あまりにも多大な犠牲を払って太平洋戦争は終結します。好古が愛した松山も焼け野原になっていました。でも奇跡的に、好古が建てた講堂だけは生き残り、戦後焼け野原になった松山の復興に大きな支えとなり力となったのです。ここでもう一つ申し上げたいことがあります。実は好古は、我が子をたった一人の軍人を出さなかったことですが、それは好古の真情が溢れていることに気づきませんでしょうか。

 

 

 アラスカ州旗 実はこの旗は松山・北予中学の校旗とほぼ同じです!

 

 

 北予中学の後身、愛媛県立松山北高等学校には、好古がいた当時使われていた校旗が残されています。そこに描かれているのは、北予中学のシンボル、北の守り神である北斗七星と北極星の校旗(アラスカ州旗とそっくりです)。好古は、北にあって動かない北極星に、特別な思いを入れを持ち、こんな言葉を残しています。「日が暮れたら、天を見なさい。絶えず動かない北極星は旅の道しるべになります。世を渡る場合には誠の心が道に迷わぬための磁石となります。曲がった道に入ったと不安になった時は、自分の誠に問うてみなさい。天が与えた良心はいつもあなたたちを導き守ってくれることでしょう。現在、松山北高等学校には秋山好古の銅像が立っています。激動の時代を、己の良心を信じて生き抜いた秋山好古は今も大好きだった子どもたちをしっかりと見守っていてくれるでしょう。

 

 

 満35歳で日露戦争で殉死した曽祖父(秋山隊とは別動隊)の愛した五葉松 万感の思いを籠めてアップす

 

 

 (本文の参考は、平成20年10月3日「四国スペシャル~ふるさとから、あなたへ」のNHK放送からの参考でした。そのNHKの放送題名は「拝啓秋山校長殿~日本騎兵の父 秋山好古の晩年」。「坂の上の雲」にない逸話ばかりで何が何でも、放映前に、このブログに書かなければと思い至ったことである)

 

 

 

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