「不生不滅明けて鴉の三羽かな」 子規と真之と則遠と

 

 

  能面のある部屋 母が愛した理知的で都会的な「深井」という中年女性の面

 

 

 

 

        「不生不滅明けて鴉の三羽かな」 子規と真之と則遠と

          NHKスペシャルドラマ・「坂の上の雲」 待ち遠しくて

 

 

 凄い製作気迫を感じられるNHKスペシャルドラマ・「坂の上の雲」が待ち遠しいですね。でも後丸二日後、待てばいいのですもの、楽しみは待たなくっちゃね。配役陣も、皆ぴったりに想像されて期待が膨らむばかりです。冒頭の俳句は、秋山真之が亡くなる寸前、友人だった正岡子規のような俳句を早暁に書き、辞世の句としたものでした。たった51歳で、盲腸炎の悪化にて小田原で亡くなりました。その16年前、真之の盟友・正岡子規が脊椎カリエスの病因で、僅か36歳で亡くなってしまいましたが、子規の葬儀の日、アメリカ留学から既に帰っていた真之は、紋付羽織袴に威儀を正し出向いたのです。でも既にお棺は子規庵から出たばかりで間に合いませんでした。真之は葬列に深々と頭を垂れ、一礼すると直ちに引き返したそうです。武人として一刻も早く名をあげ、仕事に戻ることが盟友の死にとって強かに供養になるのだと確信したのでしょう。子規の死から二年後、日露戦争が勃発。真之は東郷平八郎の軍事参謀として抜擢されます。そしてあの怒涛のような作戦の立案に貢献し、その上、例の名文句「天気晴朗ナレドモ波タカシ」、真之が打ったこの電文は緊張感の中に、どこか風雅を感じさせる名文として永く世に語り継がれています。若き頃、子規と詩歌に熱中したその心は、軍人となった真之の心にも生き続けていたのでした。

 鴉(からす)三羽の三人とは誰でしょう。真之と子規は間違いないのですが、真之の実兄・好古ではなく、実はもう一人彼らの間に親しい友人がいました。青雲の志を立て、四国・松山からともに上京し、一緒に東京大学予備門に通っていた清水則遠のことです。だが当時、立身出世を望んで数多くの若者が東京に集って来ていましたが、仕送りなどの経済的な理由で、病気になって死んで逝く若者が多かったようです。旧松山藩主が若者あてに建てた寄宿舎・常磐会に入寮していましたが、ここは三人にとっては天国でした。座り相撲をやったり、歌留多取りに熱中したり、野球(子規の本名である升=のぼるに当ててノボールと訳した)は子規が始めたものでしたが、番付からすると、どうやら真之のほうが上手かったようです。すべてに番付があり、他愛無い遊びの中に将来何を為すべきか考えに考えた一つの作戦だったのでしょう。そうしてそれぞれ熱い青春を謳歌しておりました。子規が纏めた人物録に「郷党人物月見評論」がありますが、真之は才智の多い人物と。本人は将来名声を得る人物と記載されています。その後の二人をどことなく暗示するかのような内容でありましょう。だがご多聞に漏れず、清水の実家から仕送りが滞り、薬ひとつ買えなかった実情でした。子規たちが上京したのは明治16(1883)年でしたが、その三年後(1886)の4月、突如清水則遠は栄養不足から来る脚気が悪化し心臓麻痺で亡くなって逝ったのです。その時の子規の落胆、というより錯乱ぶりは尋常ではなかったようです。真之だって相当ショックでしたが、「のぼるさんしっかりおしよ」と懸命に子規を励ますのでした。清水の葬儀を営む二人でしたが、子規は遺族に対し、長々とした弔文を送ります。何と長さ7メートルもの長文で、子規の記録にはこれほど長い手紙は一切存在しません。お塔婆や墓標の形や葬儀の時のお棺のことなど克明に描かれた絵にも文と一緒に書き、流麗にしたためた弔文でした。子規は 遺族に対して誓っています。「ご令息の名をあげることを今後の自分の目的にするつもりです。そのためにはまず第一に僕の名をあげることにつとめ、命をかけようと思います」。断固たる立身出世への決意でした。ですから三羽鴉とは、これら三人の友人たちのことを指して言っているのです。

 ところで近年、松山市立子規記念館で、子規と真之の交遊録の一端を示す素晴らしい発見がありました。真之から子規宛に差し出された手紙です。全部で七通。幼少時から一貫して友人だった子規と真之。明教館も一緒です。小学校・中学校も大学予備門も一緒でした。詩歌のほうは真之のほうが早かったようです。歌の師匠は歌人・井出真棹、井出家と秋山家は凄く親しかったからですが、、真之は早くから和歌を詠み、それより遅く入門した子規は漢詩で登場します。このようなことを切っ掛けに二人はお互いをリスペクトしたのでしょう。でももっと詳細に、二人はどのような交友をしていたのでしょうか。僅かな数少ないそれらの手紙の中から垣間見れます。最初の一通は清水の死から二ヵ月後、子規宛に送られた真之の手紙です。当時真之は好古に学費を依存していましたが、好古だって当時大尉で薄給(佐官クスラ以上になると高級となる)の身分でした。亡き清水と同様に真之も経済的に極めて困窮し逼迫していました。それ以上兄に迷惑を掛けたくないと言う思いの真之は、自ら金のかからない軍人になる決意を示した手紙の文面だったのです。明治19年6月22日付、「送りにし君がこころを身につけて波しずかなる守りとやせん」。これ以降は我軍人とならんという決意と子規に別れを告げた手紙です。これに対し子規が送った真之宛の子規の手紙は見つかっておりませんが、明治19年の正岡子規自筆句稿には次のように記されています。「秋山大人に送る~海神も恐るる君が航路には灘の波風しずかなるらん~」。つまりこうです。海の神も恐れる君なのだから、きっと波もおだやかだろうと心優しく返歌らしき歌が詠まれています。経済的問題から軍人への道を選んだ真之と、学業に専念したい子規の二人、清水の死を境にし、それ以降別々な道を歩むことになるのです。

 新たなる出発点に立った真之の選んだ海軍のひとつに江田島がありますが、列強各国に一刻も早く肩を並べようと必死になっていた日本海軍では、日々厳しい訓練に明け暮れていました。でも何と徳川方についた松山藩出身者は否応なく虐めを受けます。薩長出身者か佐賀藩以外、断固とした懲罰が降りかかりました。「当時兵学校には薩長閥とか佐賀閥があって、貴様生意気だから殴ると予言しておいてからポカポカやった。将軍(後の真之)は平然として抵抗もせず殴られていたと、後輩の桜井真澄が自著「秋山真之」の中で告白しています。維新で負けた藩の出身者は屈辱を受けなければなりませんでした。七通のうち三通は、この兵学校の時期に立て続けて出された手紙です。三通ともすべて英文で書かれていますが、全体で二通目の手紙(明治19年7月27日付)には、「ミスターマサオカ 君と別れてから百年以上経ったような気がする。一日千秋の思いで上京したものの、東京に着いてみれば、君は日光に旅に出たとのことでいたく失望させられた。僕には楽しみはなく『しっとしっと』と繰り言ばかり言っているよ」。続いて書いて来た全体で三通目の手紙(明治20年4月13日 子規宛)は、子規宛てに来た金の普請でした。「マイディア マサオカ 清水君の追善会には参列するつもりだったが、金がなく出ることが出来なくなってしまった。清水君の墓石建立分担金の費用を立て替えてもらいえないだろうか。友人の中で僕ほど君に頼る人間はいないだろうな」とやや自嘲気味に、切実な悩みを訴えています。英文であったほうが遥かに本当の心情を吐露し打ち明けられやすかったのでしょう。更に全体で四通目の手紙(明治20年10月23日付 子規宛)は、今度は聊か違います。子規が一つ後輩の真之の進路のために、兵学校に問い合わせてくれたことへの回答でした。「マイディア わが学校の入学試験に合格するために、どの予備校が一番良いか迷っても仕方がない。ただ学習あるのみだろう」と少し自信を深めていた時期であったようです。

 一方子規は旅行をしながら大学での青春を謳歌していました。和歌や俳句に取り組む子規。でも 子規は将来、歌詠みは一生の仕事にはしないつもりでした。子規にはもっと大きな夢がありました。それはまだ見ぬ西洋を訪れることでした。波打ち際で詠んだ、「アメリカの波打ちよする霞かな」。子規が取り分け興味を持っていたのは日本を開国させた国家・アメリカでした。ところが子規の夢を一瞬に砕く転機が訪れたのです。明治22年5月9日、子規は突然喀血します。寄宿舎内でのことでした。医師から結核と診断されるのですが、当時不治の病と恐れられた病気の一つだったのです。一命は取り留めたものの、子規は自らの前途に暗い不安を抱くことに。

 秋山真之は、明治23年7月、兵学校を卒業、海軍の少尉候補生となりました。10月真之は軍艦「比叡」の乗り込み、初の海外での練習航海に出発しました。目的地はトルコ・イスタンブール、真之が初めて訪れる世界有数の大都市でした。子規記念館に残る六通目の手紙は、トルコに到着した直後でした。しかしその文面には異国の風物については何一つ書かれてありませんでした。明治24年1月1日付、「謹賀新嬉(き) コンスタンチノーブル(イスタンブールのこと)まで来たが、別に驚く程のものはない。世界は広くしてよほど狭くござ候」と。体調不良で海外へ出ることもままならない子規に対して深く思い遣る中身です。子規はそんな真之の真情に励まされ、自分が為すべき道を模索し始め、決断致します。子規が選んだ道は結局幼い頃から慣れ親しんだ俳句や和歌を文学の一つとして研究することでした。明治25年9月、正岡子規は大学を中退し、「日本」という新聞社に入り、文芸記者として新しい時代に相応しい俳句や和歌の革新へ取り組むことに。「文苑」を担当す。二人が自らの進路を漸く見つけ出したその時、明治27年8月、日本に未曾有の事態が起きました。対外戦争の最初である日清戦争の勃発です。国内は戦争一色に変わって行きます。真之も出撃命令を受けました。子規も志願。従軍記者として真之を追いかけるように中国の戦地へ向かいます。しかし無理を重ねた結果、従軍することにより再び喀血。これ以降子規は大きく体調を崩すことに。一方真之も日清戦争は納得の行くものではありませんでした。若いがゆえに後方支援に廻され、船の故障もあって散々な結果だったのです。帰って来て、真之は一大決心をします。アメリカへ軍事専門家として、私費留学をするというものです。アメリカで最新式の兵学を学ぶ渡航でした。そこに何とかして立身出世の道を探ろうというものでした。三年という長い留学生活を前に、子規に別れを告げます。正岡子規自筆句稿に、真之が旅立った後の8月5日、「秋山真之を米国に送る~君を送りて思ふことあり蚊帳(かや)に泣く~」です。何故泣いたか一切明らかにされていませんが、真之と別れる一年10ヶ月前、既に子規は自らの身体の異変に気づいていました。リュウマチと思っていた病気は何と脊椎カリエスだったのです。高浜虚子に、病名を知った時の様子を書き綴っています。明治29年3月17日、虚子宛の子規の手紙に、「リュウマチと思っていたが、今日医師に言われた。その病はリュウマチにあらず、脊椎カリエスである」と。結核菌が身体に広がり、脊椎を蝕む恐ろしい病気でした。子規にとっては医師から間近に死が近づいているという宣告のような非情なものだったのです。子規はその後、子規庵(東京・根岸)から一歩も外へ出ることが出来なくなりました。子規庵には小さな地球儀がありますが、青い記しをつけた部分は、自分が憧れ、あの真之が行ったアメリカでした。どんなに辛かったことでしょう。子規記念館に残る真之からの最後の手紙はアメリカからでした。病床の子規を労って、出された手紙です。明治33年1月1日、両面を張り合わせて作った真之自身の写真と、ただ一句。「遠くとて五十歩百歩小世界」と。あなたの想像する世界の中に、大宇宙の世界はあるのだと悟らせています。病床の子規はその後、文壇で大活躍することに。真之はアメリカから少しでも楽になるようにと、盟友・子規に軽い羽毛の布団を送っていました。「病床にあるも、はでなる毛布団一枚、これは軍艦にいる友達から贈られたものである」(「病床六尺」より)。そして臨終の時もその布団を手離さなかったそうです。でもそうして二人は漸くして再び逢えました。激痛に耐えながら子規は病床で孤軍奮闘し、俳句と格闘します。明治33年8月、留学を終えて帰って来た真之が見舞いに表れます。文壇で名をあげたことを知った真之は「俳句で偉くなったのか」と大変喜んだそうです。しかし真之が帰国した明治33年頃から急速に子規の病状が悪化します。一進一退の病状は回復することなく、明治35年9月19日、正岡子規ついに永眠す。その16年後、大正7年2月4日に、秋山真之逝去。最も永く生きたのは秋山好古でしたが、あの「魔法の森の20年」を見ずに逝ってしまいました。夢半ばで逝った方々ばかりだったのでしょうか。

 それならば私たちに残されたものがあるとしたら、何でしょう?あの忌まわしい「魔法の森の20年」も経験し、未曾有の世界唯一の被爆国になった日本。30%の兵士が死んだら、それは敗戦であるという国際感覚すらありませんでした。70%の兵士が無体な突撃命令により憤死したのです。日本史に嘗てなかったことばかりでした。原爆を落とされなければ、気づくことはなかったのでしょうか。余りにも悲惨の極みで、明治憲法の天皇の統帥権を拡大解釈した軍部、中でも関東軍の悪辣さは日本史上に永遠に刻み困れるでしょう。戦争はならぬものです。そして作者・司馬遼太郎は「坂の上の雲」で何を語り継ごうとしたのでしょう。それは彼らの友情が支えた明治の激動の、時代を駆け抜けた青春をもう一度我々一人一人が実際の生活で具現化し、そして再び新しい日本を、ともに創って行こうということではないのでしょうか。映像には出ない部分だけを急遽書かせて戴きました。長い文章にお付き合い願い大変恐縮です。有難う御座いました。皆さまとともに、今週日曜日29日から始まるNHKスペシャルドラマ・「坂の上の雲」を、存分に楽しみたいと存じ上げます。

 

 

 「病床六尺」の正岡子規像 彼もどんなに悔しかったことでしょう

 

 

 

 子規・真之・則遠、そして好古たちの御霊に 心からささげむと ユキツバキ

 

 

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