奈良 春日・若宮の御祭

 

 

  若宮参堂での 巫女舞

 

 

 

        奈良  春日・若宮の御祭(おんまつり)

 

 

       <若宮神の性格>

 

 春日大社の摂社である若宮さんの「御祭」(おんまつり)について、「お旅所祭」すなわちそこで行なわれる珠玉の芸能は筆舌に尽くし難い貴重な芸能の数々で、日本芸能史を俯瞰して見られるような最大の規模を誇っている。世阿弥による能楽大成以前の芸能尽くしを観る想いがするだろう。御祭は、春日大社の摂社・若宮社の例大祭。平安末期1136年、時の関白・藤原忠通が五穀豊穣、国家安寧を願って始められたとされ、以来、間断なく挙行され続けて、今年で875回目だという。現在の御祭は毎年7月1日の「流鏑馬(やぶさめ)定」から始まり、12月18日の「後宴(ごえん)能」まで延々と半年間行われるが、中心祭事は12月15日から18日までの4日間にあり、特に17日の24時間に集中している。

 2003年には「若宮御出現一千年祭」が挙行された。つまり、1003(長保五)年に春日若宮の神は出現したことになっている。「若宮」とは何者か。それは若宮の字が指し示す通り、御子神のことであり、春日大社四祭神のうち、藤原氏の祖神とされるアマノコヤネノミコトの御子神としての、アマノオシクモネノミコトをさして言われる。秘伝によれば、本社第四殿(祭神はアマノコヤネミコトのヒメカミ)に小さき蛇の姿で降臨、顕現されたものらしい。しかし本社の一隅に間借りする不遇の時代が長らく続き、1042年にはとうとう幼童にご託宣され、御自らその不満を洩らされた。このままでは御饌(みけ)も食さずと。ようやく1135年に若宮社の創建が適い、そこに鎮座されたのだった。そして翌年9月17日、最初の御祭が始まる。時代はこうした古代的秩序から中世的秩序へ移行する時期である。ここでいう日本の「古代」とは、政治的には藤原氏専権体制をいい、宗教的には神仏が習合していった時代のことをいう。社会的には平安受領制度から脱却しつつ、荘園制化が進行し、武家が台頭して来た時代で、物事の考え方や価値観が大きく変質した時代でもあった。天皇制が疲弊し、政治構造が武士政権化する途上が平安後期の時代で、紀記神道を通じてされた中央王権支配からの脱出思想としての「神仏習合」があった。奈良時代の東大寺大仏造立に際して、遠く九州より飛来した八幡菩薩こそ、習合神の典型で、平城京に手向山八幡宮として鎮まった後も、平安京を目指して北上し、石清水にも分霊した。神仏習合には多面性があるが、その一つは租税逃れであり、小領主が大荘園へ自らの支配地を組み込むことを正当性するための論理であった。古代的秩序=律令制とは、もう一つの「国家神道」であり、神道の宗教論理による収奪制度だったのである。

 春日大社は藤原摂関家の氏神で、興福寺もその氏寺である。しかし時代の進展はそれぞれを独立荘園領主化し、平安中期には比叡山延暦寺や日吉社と同様に、都に神人(じにん)や僧兵が強訴(ごうそ)に乱入するようになっていた。これを「南都北嶺の煩い」という。とりわけ興福寺は、全国に、そして大和に広大な荘園を持つ土豪領主でもあった。全国各地にある春日社はその荘園時代の名残を留めている。にもかかわらず、勅祭の春日祭にはそれらの僧たちの参与は許されることはなかったようだ。春日社(春日大明神)には、第一殿に常陸・鹿島社から飛来したタケミカヅチノミコト、第二殿に下総・香取社からのフツヌシノミコト、そして第三・四殿には河内の枚岡社から勧請したアマノオクシモノミコトとそのヒメカミが祀られている。つまりいずれも他の土地から南都に進駐して来た外来神であった。そして、それは藤原氏の政治的=宗教的専権支配を象徴するものでもあったろう。独立を志向する土豪たる興福寺は、神仏習合の中から生まれた御子神信仰の神を探索するに至る。しかして若宮は、興福寺大衆(衆徒、僧侶集団のこと)が生み出した神である。御子神のご出現から若宮社鎮座までの132年間とは、あくまで神道を主軸に据えて政治を行なう藤原専権体制との闘争史に他ならないのではないか。興福寺はついにこれに勝利し、御祭は興福寺大衆の主催の下、創始されることになった。そして若宮と御祭は、何より地元生え抜きの神である御祭で、地侍(大和士)もこれを歓迎、やがて彼らは中世に御祭の「願主役」などと自称し、その主催者となっていったのだ。

 次に、春日山は「日の山」であり、御祭は「日の祭」である点である。春日社は710年の平城遷都に際して、藤原不比等が整えたものである。白鹿に乗りやって来たともいうタケミカヅチノミコトとフツヌシノミコトは武神、軍神であり、またアマノコヤネノミコトは神祇奉祀の神であり、いずれも太陽信仰との関わりは薄い。とすれば、タケミカヅチミコトの出発地・鹿島社が常陸(日立)の地にあるということくらいだろう。春日山とは標高283メートルの御蓋(みかさ)山のことである。春日社に接する真東の山がそうだ。実はこの山頂には、磐座(いわくら)とともに、大和日向社(別名、浮雲社)というものがある。こここそが特定時に特定の神官しか立ち入れない禁足地であり本当の神域である。これは山宮と里宮という関係とも取れ、南方の三輪山頂にある磐座と神座日向社(高宮社)とがある大神社と同じ構図なのである。「日向」とは「日立」と同じく、日が昇る方角すなわち東(ひむがし)を指し示す。春日山が「日の山」であったことは、その真西に遥拝所があったことが明白で、これが「ささゆり祭」で有名な率川(いそかわ)社である。この神社は春日大社の摂社でもある。春日社は神社としての創建時とは別に、古くからの太陽信仰の聖地だったのである。もちろん、今のご祭神たちを祀った地ではなかった。「アマテラスオオミノカミ」とは名乗らない日神。そういう信仰が三輪山にも、春日山にも存在していた。日神は山に棲む神となり、またそこから流れ出す川の神、水の神ともなっていった。若宮や大物主などに通じる「蛇」はそういう賜物で、神に名があり姿が現れて来るのは、時代が下っていることの何よりの証明であろう。古い神ほど、名もなく形もなく、見えない霊(ヒ・タマ)としてただ感得されるものであったからだ。若宮出現は、仕方なく時代的な夾雑(きようざつ)物をまといながら、春日社の本来の神の復活があったと言えなくもない。若宮はいくつかの貌を持つが、その一側面は間違いなく日神である。それは、民俗の記憶の中からつむぎ出され再生されたはずの御祭儀式の諸処に見出されることである。まず、いかにも奇妙な伝承があり、関白忠通公が御祭当日急病のため、楽人をその日の自らの代理に立て、以来それが「お渡り式」の大行列の先頭を進む「日使」(ひのつかい)だという話である。これこそ典型的な、若宮起源の隠蔽である。それはそのまま「日の使い」で正しいのである。

 

      <ダ太鼓>

 また、芸能祭礼が行なわれる御旅所に据えられる一対のダ太鼓の飾りが興味深い。ダ太鼓とは高さ四メートルにも達する大太鼓で、太鼓の縁回りに火焔の装飾が宝珠形に大きく広がり、その中に左方(東方)のダ太鼓には双龍が、右方(西方)には鳳凰が配されている。問題は火焔の上端の飾り物である。左方のダ太鼓には日輪が、右方には月輪があり、それらには放射状の光が交差するもの「ひげこ」まで付いている。イザナノミコトが禊(みそ)ぎして、左目から生まれたのがアマテラスオオミノカミで、右目から生まれたのがツキヨミノミコトであった。日月のシンボルを用いるのは「日の祭」の常套手段なのである。各地に伝承されている民俗行事・「オビシャ」(御日射、御奉射)のご神事は、日のシンボルを射落とすものなど様々であるが、中には日月の的を用いるものもある。又、日月の幟(のぼり)や鉾(ほこ)を立てて行なう「日の祭」も数多く存在する。

 若宮の神の名は奇しくもアマノオシクモネノミコトである。雲を押し分け出て来る神、つまり日の神に他ならないだろう。神が御祭に12月17日午前零時過ぎ、漆黒の暗闇の中をお出ましになる(遷幸の儀)とき、その神列を先導するのが二本の大松明である。神官たちが参道を平行に曳き摺っていき、その跡には残り火で赤い線のような神の道が出来る。これは道を清めるためと言うが、太陽再生神事で行なわれる「旧い日」を焼き尽くす秘儀とも解せないだろうか。そうして、神列はその残り火だけで示された道を二の鳥居から一の鳥居の方へと向かい、あの一対のダ太鼓が待ち受ける御旅所に逢着するのだ。そこで神は御假宮(行宮・あんぐう)に遷られ、ようやく明かりが灯される。それが最初の祭事「暁祭」(あかつきさい)の始まる。「暁」とは「明時」(あかとき)であり、まだ夜に属する未明の時間帯を言い、いかにも「日の祭」の始まりに相応しい名前ではなかろうか。古来より、春日社には「春日鹿曼陀羅」という神道絵画群がある。その名の通り、常に鹿が登場する。前述の鹿に乗る鹿島神もここに描かれている。その最も古い画には、背に簡素な神籬(ひもろぎ=神の依り代=神の宿る所)を載せた鹿が描かれ、後方に春日山があり、そこから今にも日が昇ろうとしている。これは前述の率川社から遥拝された春日山なのであろう。それはともあれ、一本の榊(さかき)にただ幣(ぬさ)を垂らしただけの神籬に、目に見える神などはない。しかしそこには確かに坐(ましま)すものこそが神なのである。

 御祭は実におもしろい。祭礼の創始は確かに12世紀のことなのだろうが、その祭式に遥か以前の民俗神事が確実になだれ込んでいる。そもそも祭とは時間が勝負なのである。神は一晩で来たり帰る。この御祭もその証明をしてくれる。ただし、その間に日中の芸能祭礼が差し挟まれて二夜に引き延ばされてはいる。御祭創始以前の原形に戻し再構成すると、日暮れ(宵)とともに神は、不特定のある場所(それがその都度の「御旅所」)に降臨する。そこを竹と縄などで峻別され、中心に依り代として榊などを立て、そこに俄か仕立ての祭場を作る。これを社(やしろ)と言う。その縮小版が神籬である。祭の本義は神に御饌を進め、神人が饗応し合い、その後直会(なおらい)することになる。現状のような「神饌」ではなく、人が食べるものと同じものを捧げていたに違いない。そして神は夜明け前(暁)に、天に戻ってしまう。実際、21世紀となったいまでも祭事で死守されていることの一つは、12月17日一日のうちに神を迎え、お送り返すことである。但し、「現代文法」に見事に呑み込まれ、午前零時から次の午前零時までと置き換えられてはいる。しかし日中の祭礼を挟むことは御祭創始の約束事だったのだろう。普段鎮座しているお社からお旅所へのお出ましという発想は、御祭創始の時は仕方がないものがあろう。お社に定住する神を行宮(あんぐう)にどうお遷しするか、これは初め相当な難問だったかも痴れない。結局、榊にお移り頂き、これを護持し、祭場である御旅所まで進むこととなる。目には見えないご神霊をただ只管信じての神事である。次に、闇の中を進む、目には見えない神の在り処をどう表現するか。それは音であった。神を護持して進む白装束の神人集団が発する警蹕(みさき)は、「ヲー」という表記がなされるが、これは喉を震動させて低く呻る普遍的な聖音「オーム」と同じことだろう。

 

     <御假宮(行宮=あんぐう) お旅所に設置された仮のお宮>

 御假宮(行宮)はあくまで祭日のためだけの仮のお宮であるので、当然ながら毎年新しく造られ、祭の後には壊される。ここには本来の祭の姿が伺える。神が降りた所がヤシロ(屋代)であり、祭場なのである。現在の行宮は、松の黒木(樹皮のついた木材 「白木」は樹皮を剥いだ一般用材)で組まれ、しかも屋根は松葉葺きという一見いかにも古風な建物だが、三角模様の白土を交えた立派な土壁を持つ堂々たる造りの建て物である。この建築形式も「春日造り」と言って差し支えない。10月1日、「縄棟祭」(なわむねさい)で、この行宮の起工式が行なわれる。松52本と縄52尋(ひろ)でヤカタ(屋形)を組み上げるのである。おそらく、この化粧前のような粗いヤカタこそ、本来のヤシロの姿なのでないか。そして祭はこの神の宿ったヤタイ(屋台)を持ち上げ、この神を信奉する地域を経巡ったものだ。それを一定の場所に固定させたのがミヤ(宮)である。春日造りとはそういう構造の建て物なのである。だから、本来は式年造替(遷宮)などは不要であった。

 行宮は、「盛り土」の上に建っている。この「モリ」とは何だろうか。神籬(ひもろぎ)としての「森」であろう。神は森にこそ降臨する。森はやがて樹木に換喩(かんゆ)され、根こじ(根のついたまま掘り取ること)の自然木が依り代として祭場に持ち込まれる。樹木は縮小され、小松や榊などで代替されるようになる。その代わり、神の家(ヤシロやミヤ)が造られるようになり、初めは黒木で、そして白木造りの社へと変わっていたのだ。御祭は始まりから「風流」(ふりゅう)の祭礼であることが定められていた。中世以降、ますます風流祭(見せ物としての行列や芸能を多く含んだ祭)が盛んとなり、いまも続く各地の大祭はすべてこの風流の大波を被っている。神事の構造や一つ一つの意義が不明となっていき、不要な神が闖入していたりもする。「お渡り式」の「馬長児」(ばちょうのちご)は、「一つ物」(ひとつもの=神の依り代)だと言われるのに対し、既に行宮で待つ神とは一体何者なのだろう。興味が尽きない御祭の出自である。

 

 

お旅所 芝舞台での芸能尽くし

 

奈良 春日大社 若宮のおん祭 オフィシャルサイト 

 

      <御祭行事次第>

 

      縄棟祭 春日野のお旅所にて

     十月一日午前十一時 神職並工匠お旅所前に着く
      次 修祓(しゅばつ)
      次 神饌を供す
      次 工匠奉幣
      次 祝詞を奏す
      次 工匠拝礼
      次 神饌を撤す
      次 退下

     大宿所祭 市内餅飯殿町大宿所にて

     十二月十五日
     午後四時半 み湯立の式
     午後五時 権宮司(ごんぐうじ)以下所定の座に着く
      次 修祓
      次 禰宜(ねぎ)以下神饌を供す
      次 権宮司奉幣
      次 権宮司祝詞を奏す
      次 神楽を奏す
      次 大和士参勤春日講役員他玉串を奉りて拝礼
      次 禰宜以下神饌を撤す
      次 退下

    宵宮詣 春日若宮続いて本社にて

    十二月十六日
    午後二時頃 願主役一行奉幣
    午後三時頃 田楽座拝礼の後、田楽を奏す

    宵宮祭 春日本社続いて若宮にて

    十二月十六日午後四時 宮司以下本社中門御廊(おろう)の座に着く
    権宮司神木を棒げて獅子の間案上に安置す
    権禰宜神前灯籠に点火す
     次 修祓
     次 権宮司以下神饌を供す
     次 宮司祝詞を奏す
     次 権宮司以下神饌を撤す
     次 宮司以下退下
     次 宮司以下若宮に参進
    権宮司神木を捧ぐ
     次 拝舎(はいのや)の座に着く
     次 権宮司神木を本殿大床左側(さそく)に安置す
    権禰宜神前灯籠に点火す
     次 権宮司以下御戸開(みとびらき)の神腰を供す
     次 宮司祝詞を奏す
     次 権宮司以下神饌及案を撤す
     次 権宮司神木を本殿大床中央に安置す
     次 禰宜御幌を奉仕す
     次 宮司以下拝舎を退く
     次 神楽殿(かぐらでん)細殿(ほそどの)の座に着く
     次 神楽を奏す
     次 退下

    遷幸の儀 若宮よりお旅所まで

    十二月十六日早旦 お旅所行宮を装飾し神宝を奠す
    午後二時 お旅所行宮修祓
    午後十時半 初度(しょど)の案内を告く 諸員参集
       若宮石段下に於て伶人初度の乱声(らんじょう)を発す
    午後十一時 第二度の案内を告く 諸員用意
       伶人第二度の乱声を告く
    午後十一時半 第三度の案内を告く
     次 参進  是より先手水の儀あり
    宮司以下神職 神人 供奉員
    斎館より二の鳥居を入り布生橋(ふしょうばし)を渡り
    御間道(おあいみち)を経て若宮に到る
     次 宮司以下拝舎に列立す
     次 第三度の乱声を催す
     次 伶人第三度の乱声を発す
     次 拝殿の御格子(みこうし)を催す
     次 卸格子を掲く  灯火を滅す
     次 宮司以下本殿階下に進む
     次 宮司昇殿御扉を開く
     次 宮司深秘の作法を修む
     次 出御(しゅつぎょ)
    神職神人各榊を執り人垣を作る 伶人乳声を止め本楽に移る
     次 権宮司御扉を閉つ
    遷幸の間神職神人警蹕(みさき)を唱へ 伶人道楽(みちがく=慶雲楽・けいうんらく)を奏す
     次 お旅所行宮に着御
    伶人迎乱声を発す
    是より失点火を滅す
     次 入御(じゆぎよ)
     次 宮司深秘の作法を修む
     次 宮司以下斎庭に列候す
     次 植松(うえまつ) 点火を点ず
     次 宮司以下幄舎に着く

    暁祭 お旅所にて

   十二月十七日午前一時 宮司以下斎庭に列侯す
     次 権宮司以下神饌を供す  此間奏楽
     次 宮司奉幣
     次 宮司祝詞を奏す
     次 神楽を奏す
    是より先宮司以下幄舎に復す
     次 権宮司以下神饌を撤す  此間奏楽
    是より先宮司以下斎庭に列候
     次 宮司以下幄舎に復す
     次 退下

    本殿祭 春日本社続いて 若宮にて

    十二月十七日午前九時 宮司以下本社中門御廊の座に着く
     次 修祓
     次 権宮司以下神饌を供す
     次 宮司祝詞を奏す
     次 権宮司以下神饌を撤す
     次 宮司以下退下
     次 若宮に参進
     次 拝舎の座に着く
     次 権宮司以下神饌を供す
     次 宮司祝詞を奏す
     次 権宮司以下神饌を撤す
     次 退下

    お渡り式 県庁前広場よりお旅所まで

    十二月十七日
    正午 お渡り行列県庁前広場出発
    大宮通りを西下、近鉄奈良駅前を経て油阪を南折し、JR奈良駅前を経て三条通りを東上
    午後十ニ時五十分頃より南大門文名の儀
      競馬  大童子名乗り
      馬長児 大童子名乗り
      大和士 願主役名乗り
     午後一時頃より松の下式
      陪従小渡を奏す
      細勇拝礼
      猿楽を奏す
      田楽を奏す
     午後二時頃より競馬
      馬出橋より勝敗榊迄三双

    お旅所祭

   十二月十七日 宮司以下幄舎に着く
    先 午後二時 お渡り行列お旅所に参入
      白秋御幣所役所定の座に着く
      日使以下諸役所定の座に着く
      所役各神前に着到の礼あり
      十列児下馬にて芝舞台三巡す
      馬長児馬上にて芝舞台三巡す
        (退出時大童子紙垂を神前へ投ず)
      猿楽座埒開けの所作等あり (これにより埒が明かないの故事発生)
   午後二時半時過より流鏑馬 於参道馬場
      場見の儀
      馬場上りの儀
      揚児以下祝投扇の後、一より三の的を射る
     次 午後二時半 宮司以下斎庭に列候す
     次 権宮司以下神饌を供す  此間奏楽
     次 宮司奉幣
     次 宮司祝詞を奏す
     次 宮司行宮階下に候す
   この時権宮司以下幄舎に復す
     次 日使奉幣
     次 日使祝詞を奏す
  了りて日使幄舎に復す
     次 玉串を奉りて拝礼
     次 次奉行代拝礼
  了りて宮司幄舎に復す
     次 馬長児拝礼
     次 揚児、射手児拝礼
     次 随兵拝礼
     次 願主役奉幣
     次 御師役、馬場役、大和士代等拝礼
     次 神楽を奏す
     次 東遊を奏す
     次 田楽を奏す
     次 細男を奏す
     次 猿楽を奏す
     次 舞楽を奏す
        振鉾三節
        萬歳楽  延喜楽
        賀殿   長保楽
     次 和舞を奏す
     次 舞楽を奏す
        蘭陵王  納曽利
        敵手   貴徳
        抜頭   落蹲
        以上、二舞は勝負舞に付、競馬の勝敗により前後を決す
     次 権宮司以下神饌神宝を撤す  此間奏楽
        是より先宮司以下斎庭に列侯す
     次 宮司以下幄舎に復す

   還幸の儀 お旅所より若宮まで

   十二月十七日午後十一時 宮司以下斎庭に列侯す
     次 宮司昇殿  灯火を滅す
     次 宮司秘文の祝詞を奏す
     次 出御
       還幸の列次凡て遷幸の儀に準ず
       但ご幣を欠く
       伶人道楽(還城楽:げんじょうらく)を奏す
     次 若宮に着御 所役得太鼓を打つ
     次 権宮司御扉を開く
     次 入御
     次 宮司秘文の祝詞を奏す
     次 宮司御扉を閉つ  灯火を点す
     次 宮司以下拝舎に列立す
     次 宮司以下拝舎を退く
     次 神楽殿、細殿の座に着く
     次 神楽を奏す
     次 退下

   後宴

    十二月十八日午後一時 奉納相撲 お旅所南側
         午後二時 後宴の能(主に金春流)  お旅所にて

 

 

 

                細男(せいのう)                巫女舞                    東遊び

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