大津皇子 いかにか君がひとり越ゆらむ

 

 

 二上山 雄岳(右 517m)と雌岳(左 474.2m)の夕景 浄土信仰の原点か 

 

 

 

 

        大津皇子 いかにか君がひとり越ゆらむ

 

 

 天武天皇が崩御なされ、伊勢の斎宮(いつきのみや)の任を解かれて都に帰って来た姉・大来皇女は、我が愛する弟の大津皇子が賜死を受け、既に再会を果たすことはなかった。「大津皇子の屍(みかばね)を葛城の二上山に移し葬(はふ)りし時、大来皇女哀愁(かなし)みて作りませる御歌二首」のうちの一首に、「うつそみの人なる吾(われ)や明日よりは二上山(ふたかみやま)を兄弟(いろせ)とわが見む」。この一首のみを根拠に、二上山山頂に弟が眠っていると永い間伝われて来た。江戸中期の国学者がそれを唱え、『大和名所図会』(1791年刊)には、「二上山墓 大津皇子の墓」と突如出て来て、当時流行だった物見遊山も風潮もそうさせたのだろうか、あろうことか、明治政府は雄岳山頂に立派な墳墓兼神社を新しく建てて作ってしまった。私たちは雌岳を姉・大来皇女に見立て、雄岳を大津皇子に見立てて、姉弟愛の象徴として敬って来たと思うが、果たして大津皇子の墳墓は山頂にあったのだろうか。この頃の山頂は聖域であり盤座(いわくら)と言って崇敬され信仰対象であったのだが、謀反を企んだ逆賊であったはずの大津皇子が再葬され、祟りを畏れられた神になったのであろうか。

 日本書紀(やまとぶみ)は、古事記(ふることふみ)に比べたら圧倒的にフィクション性が入って、まるで少々出来の悪い大河ドラマを見ている風だが、大津皇子が謀反を企んだ前後の記述が残されている。~冬十月二日、皇子大津の謀叛が発覚して、皇子を逮捕し、合わせて皇子大津に欺かれた直広肆八口朝臣音橿・小山下壱伎連博徳と、大舎人中臣朝臣臣麻呂・巨勢朝臣多益須・新羅の沙門行心と帳内礪杵道作ら三十余人を捕らえた。三日、皇子大津に訳語田(をさだ)の舎で死を賜わった。時に年二十四。妃の山辺皇女は髪を乱し、はだしで走り出て殉死した。見る者は皆すすり泣いた。皇子大津は天武天皇の第三子で、威儀備わり、言語明朗で天智天皇に愛されておられた。成長されるに及び有能で才学に富み、とくに文筆を愛された。この頃の詩賦の興隆は、皇子大津に始まったといえる。二十九日、詔して、「皇子大津は謀叛を企てた。これに欺かれた官吏や舎人は止むを得なかった。今、皇子大津はすでに滅んだ。従者で皇子に従った者は、みな赦す。ただし礪杵道作は伊豆に流せ」といわれた。また詔して、「新羅の沙門行心は、皇子大津の謀叛に与したが、罪するのに忍びないから、飛騨国の寺に移せ」といわれた。十一月十六日、伊勢神宮の斎宮であった皇女大伯は、同母弟大津の罪により、任を解かれ京師(みやこ)に帰った。十七日、地震があった~と。(宇治谷孟氏 訳による)

 

 

 口絵 天武天皇 持統天皇 大津皇子像

 

 672年,大海人皇子は大友皇子に対して戦を挑み,「壬申の乱」が起こった。高市皇子19歳,大津皇子10歳の時である。大津宮にいた二人の皇子は大海人皇子の使いの者によって別々に宮を脱出し,大津皇子は朝明郡(あさけのこおり)で父・大海人皇子と再会した。二度と会うことはできぬと思っていた二人であったが,無事再会を果たした喜びは大変大きなことであったろう。壬申の乱は全軍の指揮を任された高市皇子や勇敢な豪族たちの活躍によって大海人皇子軍が勝利し,都は再び飛鳥の地にもどった。そして,大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で天武天皇として即位された。天武天皇は高市皇子,大津皇子,草壁皇子と、天智天皇の子の川嶋皇子,施基(しき)皇子,皇后の鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ~後の持統天皇)らを連れて吉野へ行幸した。天皇は6人の皇子たちを,神宿る山・吉野に連れて行き、骨肉相食むような戦を断じてせぬよう力を合わせ世の中を治めることを約束させた。そして皇子等を抱きしめて,「母は違うが同じ母の子として慈しむぞ」と仰っられた。このようにして,皇位継承のための争いを二度と起こさないように誓約させたのだったが、これが後に賜死の伏線になっていたのではなかろうか(後述すべきことなりて)。大津皇子は大海人皇子の子であったが,大津宮では先の帝・天智天皇に愛されて育てられた。風格もよく,言語明朗,漢詩文を好むなど学問が大好きであった。成長するに従い,才能が開花していく。特に文筆に秀でたものがあったという。683年2月1日,大津皇子が21歳になった時,初めて「朝政(ちょうせい~みかどのまつりごと)を聴こしめす」と日本書紀にあることから,天武天皇政権の中心的な立場で政治の指示を出す役割を持っていたのだろう。 

 然し天武天皇が崩御された翌月の686年10月2日,川島皇子の密告によって謀反の疑いをかけられ,皇子の従者30余人とともに捕えられてしまうのだった。そして翌月3日には訳語田の家で自害された。24歳の若さであった。これは鵜野讃良皇女が自分の実の子の草壁皇子を次の天皇にするためにはかったことだとも言われるが、意図的な匂いが消えず全く不明である。大津皇子の妃の山辺皇女は裸足で髪をふり乱して駆けつけ同日殉死した。大津皇子に従って行動していた従者の多くは罪なしとして解放され,数人のみが伊豆や飛騨の国に流された。このことからも大津皇子一人を失脚させるための何らかの力が裏で動いていたと推測するに余りある。ついに訳語田(をさだ)の家で死期を悟った皇子が詠んだ歌が「万葉集」に、大津皇子の辞世として次の歌がある。磐余(いわれ)の池の堤にて皇子が涙を流して作った歌とされるものだ。

    百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隱去牟 (藤原宮朱鳥元年冬十月)

    ももづたふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ (巻三 416)
    (磐余の池に鳴く鴨を見ることは今日で最期となるのか。私は死んでいくであろう。)
    吉備池にたつ大津皇子の歌碑

 また漢詩集「懐風藻」にも大津皇子の辞世の歌とされる五言絶句の歌が残されている。また「懐風藻」には、大津は「浄御原帝(天智帝)の長子。状貌魁梧、器宇峻遠。幼年にして学を好み、博覧にして能く文を属る。壮ずるに及びて武を愛し、多力にして能く剣を撃つ。性、頗る放蕩にして、法度に拘らず。節を降して士を礼ぶ。是に由りて人多く附託す」とあり、跡継ぎとしての正統性が示唆されている。しかし、大津は草壁より一歳年少であった上、事実上の継母として鵜野皇女(後の持統天皇)がいた。草壁皇子の強力な後ろ盾に違いない。なのに皇位を奪おうと謀反を起こした、という設定なのであろう。

    金鳥臨西舎 (きんう=太陽が西舎に臨らひ)
    鼓聲催短命 (こせい=時報の鼓の音が短命をせきたてる)
    泉路無賓主 (せんろ=死の旅に ひんしゅ=客人なし)
    此夕離家向  (此の夕べ 家を離(さか)りて死にむかふ)

 天武天皇崩御から、23日目の処断であったので、あまりにも素早い反応であるのだが、天武天皇崩御される直前、大津皇子は、風雲急を告げ、伊勢で斎宮(いつきのみや)をされていた姉・大伯(大来の表記と同じ)皇女に密かに逢いに行っている。多分二人には何らかの相談があったのだろうか、類推すると何処までも幅が広がってしまう恐れがあるくらいだが、最期の別れを告げた風でもある。

    大津皇子、ひそかに伊勢の神宮に下りて上り来ましし時の大伯皇女の御作歌二首。
    わが背子を 大和へ遣(や)ると さ夜更けて 暁(あかとき)露に わが立ち濡れし (巻二 105)
    二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越えらむ (巻二 106)

 何やら好からぬ胸騒ぎをしながら大伯皇女は大津皇子を藤原京へ送ったのだろうか。天武天皇崩御して直ぐ大津皇子は死んでしまう。その後大伯皇女は京師(みやこ)に帰ってから詠んだ歌が、

    大津皇子の薨(かむあが)りましし後、大来皇女(おほくのひめみこ)、伊勢の斎宮(いつきのみや)より京に上る時の御作歌二首。
    神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに (巻二 163)
    見まく欲(ほ)り わがする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲るるに (巻二 164)

 こうして同じ母から生まれた姉弟の愛情が詠いこまれているのだが、最初に申し述べた「うつそみの~」の大来皇女の普遍的な御歌に繋がって行くのである。鎮魂歌のように、皇女最後の六首目として、「磯(いそ)の上(うえ)に生えるあしびを手折(たお)らめど見すべき君がありといはなくに」と絶句して終わっている。

 本当に謀反があったのか、誰にも分かっていないことだが、推測するしかないのも事実だろう。病弱だった草壁(日並と同じ)皇子を皇位継承者としてつけたかったに違いないことは何となく想像出来るが、大津皇子の母親は天智天皇の長女の大田皇女(おおたのひめみこ)で、大田皇女は持統天皇の姉にあたり、大田皇女が早世され、天武天皇の後添えになられた鵜野皇女(後の持統天皇)で草壁皇子の実母でもあった。大津の姉弟愛情物語の他に、こうした継母物語が存在したのは事実である。まして大津皇子は天智天皇(中大兄皇子)からも寵愛された幼き皇子であった。だが待てよ、持統天皇は「春過ぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香具山」など多くの心優しき御歌を残された女性天皇であり、我が子可愛さだけで、大津皇子に賜死をさせたのだろうか。敢えて原因を挙げるとすれば二つの物語を挿入しなければならない。

 それは争う異母兄弟としての姿を、「万葉集」に見て取れる。石川郎女(いしかわのいらつめ)という女性がいたからだ。彼女をめぐり、二人が争ったという?

     大津皇子、石川郎女に贈る御歌一首。
     あしひきの 山のしづくに 妹待つと われ立ち濡れぬ 山のしづくに (巻二 107)

     石川郎女、和(こた)へ奉る歌一首。
     吾(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを (巻二 108)

     そして、二人は結ばれる。ばれたらばれたでいいやとする大津皇子の奔放さも窺い知れる。

     大船の 津守が占(うら)に 告(の)らむとは まさしに知りて わが二人宿(ね)し (巻二 109)

 ところが、草壁皇子も黙ってはいなかった。

     日並皇子(草壁皇子)の尊の石川女郎に贈り賜ふ御歌一首。
     大名児(おおなこ)を 彼方(おちかた)野辺に 刈る草の束(つか)の間も われ忘れめや (巻二 110) 

 「大名児」とは石川女郎のことだが、但し石川郎女から草壁皇子に当てられた返歌は一切見当っていない。

 以上のように、歌番号からも分かるように「歌物語」として配列されているではないか。これは「大和三山」に仮託して、額田王を争う中大兄皇子(天智天皇)と、大海人皇子(天武天皇)の恋物語であり、『伊勢物語』のような歌物語であって、大津皇子・石川郎女・草壁皇子の関係の事実を述べるものでは決してないだろう。ただ、恋の勝者が自害した大津皇子と読めるようになっていることに注意を払っておきたい。大津皇子の悲劇性を一層高めるために、大津をやさしく見守り続ける姉・大来皇女、夫を追って殉死する妃・山辺皇女、陰謀をそそのかす新羅の帰化僧・行心(こうじん)の三人で、特に注目したいのは行心の存在だ。686年10月3日、大津皇子が自死した際、謀反に加担した者の中で、重刑の一つ流刑に処せられたのが新羅の僧の行心で、流刑先は飛騨の僧院であった。行心は顔相を観て占うことができたという。大津皇子を観て行心は告げる。「太子の骨法これ人臣の相にあらず、これをもって久しく下位に在るは恐らくは身を全うせざらん」と。この一言によって、大津皇子は謀反にむかったということになっている(懐風藻)。然し行心は別のことを告げたのではないだろうか。行心は新羅から渡来した帰化僧である。当時、新羅には「花郎(はらん)」という制度があって、青年貴族が中心となり、武術を鍛錬し舞楽を愛する集団にして、彼らは熱心な弥勒信徒であるとともに国家救難の使命にもえる志士であった。その中心となるリーダーは「弥勒の化身」を称号し、有名な金ゆ信(きん ゆしん))もそのひとり。彼ら花郎が軍事力の中枢となって、韓半島を武力で統一し、統一新羅が成立していた。670年、そんな半島の最新情報を伝えるとともに弥勒化身による国家救済の思想を伝播したのは、新羅から渡来した行心ではなかったのか。となれば、行心は大津の「謀反」を理論的に支えた革命家と言えるのではなかろうか。折からも亡き天武天皇も弥勒信仰の熱心な護持者であった。この辺に僧・行心の、皇子への箴言がなかったはずはないのだが、結論をそう焦ることもあるまい。但し戦後天皇制反対論者から、大津皇子を悲劇の皇子として誇大に喧伝され、歴史がどこか枉げられて来たことも一方では重大な関心事であることに変わりない。古代のことでも、出来る限り実証的であるべきであり、持統天皇の謀略説はどうあっても近代歴史学者の恥の一部でしかなく、これもまた大津皇子の伝承の一つと見るべきであろう。

 

 

 明治時代、意図的に造営された二上山山頂にある大津皇子の墳墓 それにしても相応しく見える

 

 ところで何故大津皇子が改葬されたのだろうか。それは皇位継承者であった草壁皇子が、大津皇子の自刃の後、たった3年後に亡くなられた。時に28歳の皇子であったが、何とその後、持統天皇の孫に当たる珂瑠(軽)皇子が即位され、文武天皇になられた。持統天皇は太上天皇(上皇)として若き天皇を支えた。だがそれからまたしても、文武天皇に早世されてしまったから、余程驚かれたことであろう。もしや大津皇子の祟りであるまいかと疑っていたのも不思議な話ではない。薬師寺は天武天皇が、皇后である鵜野皇女(後の持統天皇)の病気平癒の祈願のために発願された御寺で、天武天皇崩御後に飛鳥に誕生した。文武天皇の御時に完成されたが、平城京遷都に合わせ、現在地に移築された。実は薬師寺は大津皇子葬送の御寺でもある。時系列的に申し上げると、奈良・薬師寺は法相宗(ほっそうしゅう)大本山薬師寺,680年皇后(鵜野讃良皇女,後の持統天皇)の病気平癒を祈願して天武天皇により発願された御寺で,持統天皇の時代に本尊の開眼が行われた。そして,文武天皇の時代に飛鳥で完成した。710年の平城遷都に伴って,718年現在の地に移転された。大津皇子が亡くなって3年後,持統天皇の実子草壁皇子が28歳で急逝された。次期天皇となるはずだった草壁皇子の突然の不幸は母に、大津皇子の祟りと恐れさせたのかもしれない。そのため,薬師寺に埋葬されていた大津夫婦のご遺骨を、再び急ぎ再葬を行っている。693年,持統天皇は草壁皇子の子の軽皇子(かるのみこ)を文武天皇として即位させた。しかし,これまた25歳の若さで崩御なされた。これも謀反の罪で自害させられた大津皇子の祟りと恐れられのではないか。薬師寺には大津皇子を祭神とする若宮社がある。更に薬師寺には龍王社があり、古図を見ると薬師寺の西塔より西にあることから,摂社・龍王社はそこから現在地に移転したと考えられる。薬師寺・龍王社には大津皇子の霊を鎮魂するため、室町時代に造られたとされる「伝大津皇子坐像」なる衣冠束帯を着された御像が安置されていた。薬師寺の秘仏として現存しているが,特別展以外での一般公開はされていない。

 それではどこに再葬されたのであろうか。大来皇女が詠まれた御歌にあるように二上山であろうか。それは断じて違う。大津皇子の本当の墓は、二上山の「上」にあるのではなく、「麓」にそれはあった。『死者の書』の舞台でもある當麻寺にほど近い、二上山への一登山口にある鳥谷口(とりたにぐち)古墳がそうであると私も断じたい。1983年当時、土地整備の工事中に発見された小さな古墳で、一辺約7.6mの方墳、横口式の石室を持っている。内部出土品はなかったが、周囲から出土した土器から7世紀後半の古墳と断定された。しかしその石室は狭く、大人の棺が入りきらない、納骨のためだけの奇妙な墓である。しかも、石室を形作る各石は、家型石棺の蓋の未完成品を転用した寄せ集められたという異様なものであり、だが規模は小さくても品格がある凝灰岩を使われている。また、二上山「上」や「麓」に他に古墳はなく、全く孤立した寂しい古墳なのだ。大津皇子と山辺皇女がお骨で葬送されたに違いない。然れば、大津皇子伝説にいかにもふさわしい墓跡だと言ってよいであろう。私もというには論拠がある。この貧相な古墳を大津皇子の墳墓ではないかという説を打ち出したのは、『陰陽五行思想からみた日本の祭』で博士号を取られた吉野裕子さんである。彼女は、その著『持統天皇』の中で、大津皇子の墳墓について次のように述べておられる。「つまり大津は二上山に移葬されたといわれるが、二上山は大和平野における東方の神の山、三輪山に対し、日没方向の西の山、死者の山である。『易』の先天易において、東は『陽』の火を意味する『離』で、西は『陰』の水を意味する『炊』で、『炊』は暗い穴のことである。大津皇子の死後の世界は時間的にも空間的にも徹底的に『地』、それも暗い穴に閉じこめられた永遠の闇なのであると。尚大津皇子の墓は二上山山頂と伝えられ、現に大津皇子はそこに祀られているが、考古学的にみて山頂に古墳の形跡はなく、また、西は易の炊卦を象徴するが、その『炊』の象徴は凹だから山頂ではあり得ない。従って二上山といっても恐らくその東麓(大和からみて二上山の向側の西麓は落ちた陽が東から再び上ることが期待される地点だから、西麓に葬られるはずがない。こちら側の東麓と思われる)で、しかも沼などの畔りということになる。これらの條件をみたすものに最近、発見された鳥谷口(とりたにぐち)古墳があり、この古墳は二上山雄岳の東麓、その石棺は家形、しかも奇妙なことに古い石材の寄せ集めから成り、いかにも刑死者にふさわしくお粗末な出来である。未だ確定はされていないが、二上山頂の陵墓比定地よりこちらの方が呪術的にはよほど理かなに適っている」 と。以上が、鳥谷口古墳こそが大津皇子の墓ではないかという吉野裕子さんの論拠である。説得力もある上、妙に腑に落ちるところがあり、まず間違いないのないところだと思う。それにしても、反乱罪とはいえ、よくもここまで落とされたものである。そのうえ反乱罪と言うが、大津皇子は、すでに即位していたという説もある。即位していたとなると、自身が最高権力者の座にあるわけだから、誰に対しての反乱罪なのかという疑問が当然として起こってくるだろう。大津皇子はいったい何のために刑死しなければならなかったのだろうか。

 當麻寺にはもう一つの物語がある。浄土信仰と中将姫の伝説である。當麻氏の氏寺として始まった當麻寺は、中世以降は中将姫伝説と當麻曼荼羅の寺として知られるようになった御寺だが、「當麻曼荼羅」は、学術的には「阿弥陀浄土変相図」と、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土のありさまを描いたもので、唐の高僧・善導による『観無量寿経』の解釈書『観経四帖疏』に基づいて作画されたもの。當麻曼荼羅の原本については、中将姫という女性が蓮の糸を用い、一夜で織り上げたという伝説がある。中将姫については、藤原豊成の娘とされているが、モデルとなった女性の存在は複数想定されていて、各地にその伝説が伝わっているが、當麻寺本堂(曼荼羅堂)には実際の曼荼羅が現存し、曼荼羅を掛けるための厨子は奈良時代末期から平安時代初期の作で、當麻曼荼羅の原本は遅くともこの時代には當麻寺に安置されていたとみられている。しかしながら、曼荼羅の伝来や由緒にかかわる資料は平安時代の記録には見当たらず、曼荼羅の「縁起」が形づくられていくのは鎌倉時代に入ってからのことであろう。當麻曼荼羅はヨコハギ(横佩)大納言という人物の娘の願により化人(けにん、観音菩薩の化身か)が、一夜で織り上げたもので、それは天平年間の763年のいのことであったようだ。12世紀末のこの時点では「中将姫」という名はまだ登場していない。13世紀半ばの『古今著聞集』(ここんちょもんじゅう)ではヨコハギ大納言の名は藤原豊成とされており、以降、父の名は右大臣藤原豊成、娘の名は中将姫として定着していく。中将姫の伝承は中世から近世にかけてさまざまに脚色されて、面白いことに「継子いじめ」の話に変質していくことだ。大津皇子の伝説に寄り添っているかのようだ。話の筋は、今は昔、藤原鎌足の子孫である藤原豊成には美しい姫があった。後に中将姫と呼ばれるようになる、この美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。ところが、姫の殺害を命じられた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきた。その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて當麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願う。姫が五色の蓮糸を用い、一夜にして織り上げたのが、名高い「當麻曼荼羅」である。姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色に染め上がったという。當麻寺の近くの石光寺(せっこうじ)に残る「染の井」がその井戸である。姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったのであった。またこの御寺は天武天皇の勅願の御寺で、役の行者が開山したようである。境内には大津皇子と山辺皇女の二つの鳥居が相対している。近くに墳墓があることを暗示しているようなものであろう。また何故ここで中将姫の話を持ち出したか。それは當麻寺の位置する場所である。日の神信仰は当然古来あった話だが、実は浄土信仰が発達するにつれ、夕陽信仰も生まれてきた。この御寺から直ぐ傍に位置する二上山を眺めると、春分の日と秋分の日には、雄岳と雌岳の間の真ん中に、ちょうど夕陽が落ちて行くことだ。伊勢の神宮から日の出が始まり、信貴山と葛城山の間にある二上山の真上を通り過ぎ、難波の海=西方浄土へと太陽は落ちる。大津皇子について書かれた折口信夫著の『死者の書』はまさにこの浄土信仰をバックにして書かれたものであったに違いない。大津皇子の伝説にも一役買っているはずである。

 私は、大津皇子の辞世の歌は確かに悲劇性は否定出来ないが、戦後跋扈した天皇制反対論者とは確実に一線を画す。但し私は左翼でも右翼でも絶対にない。ただの実証主義者であることだけは間違いないことだ。かくして大津皇子が我が死を人ごとのように冷静に辞世の歌を詠みこまれた。そこで思い出して欲しい。天武天皇が6皇子を吉野に集合させ、兄弟で合い争うことが決してないようにと誓わせた(吉野の誓い)。大津皇子は自らの争うことがない立場を悟って、大いなる覚悟を持って逝った御歌ではなかっただろうか。謀反の嫌疑を敢えて甘受し、我が賜死を、天下国家安寧のためとささげたのではなかろうか。だからして源義経のように、後世の日本人が大好きな悲劇性を決定的づけられたものであったろう。それにしても万葉集はまるで宝箱のような古代和歌集で、膨大な歴史的事実が埋まり、挽歌あり相聞歌あり問答歌ありと多種多彩で、飛びっきりピュアな感性とがぎっしり詰まった大変な日本人の遺産であるようだ。今後ともずっと詠み続けて生きたいものである。

 

    ももづたふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ 

 

 

 

 

鳥谷口古墳(中央と左の写真) 大津皇子の辞世の歌が二上山を見ている(右図)

「奈良県指定史跡 鳥谷口(とりたにぐち)古墳
 昭和62年3月10日指定

 場所 當麻町大字染野字鳥谷口679番地(現 葛城市染野字鳥谷口)
 時代 古墳時代末期(7世紀後半頃)

 

 今日のBGMは 多夢さん作曲の、『栄華の墓所』

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