「普賢」と「文殊」

 

 

  2000年3月31日 午後1時過ぎに目の前で起こった北海道・有珠山の大噴火 偶々投宿していたウィンザーホテルにて

 (逃げるのを忘れ、その瞬間を克明にスケッチした亡き主人の入魂の絵 それにしても地球のエネルギーは凄かった)

 

 

 

 

 

          「普賢」と「文殊」

 

 

 このブログのハンドルネームは普賢と文殊である。釈迦如来の脇侍仏として、この二菩薩がある。私が何も自分が偉くなったようなつもりでこのハンドルを使ったのではない。地球のエネルギー問題を主たる仕事としていた前職での経験を生かし、祈りにも似た思いでつけた名前であったのだ。亡き主人とした仕事で最も多く買ったのはチタンであったが、ウランはどうにも手が届かないものであった。好き嫌いに関わらず現代社会では原子力の問題を避けては通れない。従って今日は特に原子力発電に焦点を当てて書こうと思っている。それがこのブログの祈りでもあり、ハンドル名をつけた所以であるのだから。そこで関西電力・高浜にある原子炉は「ふげん」と「もんじゅ」で、そこからこの稿を書き起こしたい。

 高浜の原子炉は、「ふげん」と「もんじゅ」と名付けられている。「普賢」と「文殊」とは、釈迦如来に脇侍(きょうじ)する菩薩の名であるが、脇侍とは、相撲の土俵入りの際、横綱に太刀持ちと露払いの二力士が寄り添うように、本尊の両脇を堅めて衆生教化を助ける仏教の神たちのことである。他の脇侍には、阿弥陀如来の観音・勢至菩薩、薬師如来の日光・月光菩薩などがよく知られている。それでは最新で超現代的な施設に何故「ふげん」と「もんじゅ」であるのか、いかなる願いがこめられて名付けられたのか。そこに何か秘密めいたものがあるようだが、まずは原子炉の知識を解析すると、「ふげん」も「もんじゅ」も、福井県敦賀市に存在する。「ふげん」は新型転換炉で、「もんじゅ」は高速増殖炉という機能を持った原子炉である。旧「動力炉・核燃料開発事業団」(略称「動燃」)、1998年以降は動燃を改組した「核燃料サイクル開発機構」など、各特殊法人が管理運営している。

 

 

 象に乗る普賢菩薩さま 獅子に乗る文殊菩薩さま

 

 原子炉は通常、ウランを燃料としている。しかしウランはごく稀少である。そこで、核燃料をリサイクルしようという考えが現れた。石油・天然ガスなど、エネルギーの地下資源を海外に全面依存する我が国では、こうした考え方に飛びついたのだった。それが新機構の名にも含まれる「核燃料サイクル」という見果てぬ夢である。動燃が設立された1967年の時点では、原子力発電は無限の可能性を秘めた、クリーンで安全な「永久」エネルギー源かとも思われたものであった。もう少し紐解くと、実は、天然ウランの大部分はウラン238というもので、核燃料となるウラン235では全くない。然しウラン238は原子炉の中でプルトニウム239という核燃料に、「人工」的に転換することができる。これを行なう原子炉が「新型転換炉」(「ふげん」はその一つ)で、それを更に促進し、プルトニウム239を元の核燃料以上の量に増殖させることができる原子炉が「高速増殖炉」(「もんじゅ」はその一つ)である。これだけを聞けば夢のような話に思えるだろう。(注)「プルトニウム爆弾」という言葉の通り、プルトニウムは原子爆弾の材料でもある。長崎に投下されたものがこれで、広島にはウラン爆弾が投下されたのであった。

 でもその後の原発の現実は悲惨で惨憺たるものである。1979年、アメリカ・ペンシルベニア州のスリーマイル島原発で起こった冷却水事故は、メルトダウン(炉心溶解)によるチャイナ・シンドローム(地球の反対側の中国にまで溶け込んでいく)という恐怖を世界に巻き起こした大事件であった。1986年には、旧ソ連で悪名高きチェルノブイリ原発事故が起きると、その地域一帯は放射能で一瞬にして死の町となり、原子炉は事故時の爆発による遺体もろとも分厚いコンクリートで堅く堅く封印されてしまったままである。原発は決して安全なものではなかった。また、原発維持のための電力エネルギーを併せ考えると、案外に高コストのものであった。トータルに考えれば、「核燃料をリサイクルするプラン」は高価なわりには見返りの薄いものになっていった。日本でもたくさんの小規模事故が起こっていたが、そこに、1995年「もんじゅ」の冷却用ナトリウムの流出事故があった。これで動燃は解体され、「もんじゅ」は頓挫し停止中である。この余波を受け、こちらも元気のない「ふげん」はついに、2003年に廃炉が決まっている。

 

 

ほぼ頓挫してしまった高速増殖原子炉・「もんじゅ」

 

  核燃料サイクル開発機構が公開している「ふげん」に関する公式サイト上に次のような文言を見つけたので、そのまま文面を公開する。中の「あゆみ」に、「命名から生い立ち・歴史」の冒頭にある文章を掲載すると、(我が国が総力をあげて開発を行っている,新型原子力発電所の命名にあたって,新型転換炉の原型炉を「ふげん」,高速増殖炉の原型炉を「もんじゅ」と名付けました。「ふげん」の名称は,釈迦如来の脇士である,普賢菩薩(ふげんぼさつ)に由来します。普賢菩薩は,慈悲を象徴し象に乗っておられます。それは,強大な力を持つ巨獣を慈悲で完全に制御している姿です。原子力の巨大なエネルギーも,このように人類が制御し,科学と教学の調和の上に立つのでなければ,人類の幸福は望めません。原型炉「ふげん」は,これらの願いを込めて名付けられたものです)ということらしい。

 

 

 まだ稼動を諦めていない新型転換炉・「ふげん」

 

 なるほど、「ふげん」の有する原子力エネルギーは普賢菩薩が乗る白象にたとえられ、それは「強大な力を持つ巨獣」とされている。ちなみに文殊菩薩は獅子に乗っている。現況をながめると、さしずめ普賢・文殊菩薩の「慈悲」と「智慧」にたとえられる人間の「科学技術」はあまりに浅く薄く、ついに両「巨獣」を制御できずにいるといった具合である。ここからは、失敗に終わろうとしているこの命名の本当の意味を、またこのように命名した日本人と仏教の関係を考察してみると、まず衝撃的なことを述べよう。もしも、仮に「ふげん」と「もんじゅ」の実験が成功裡に推移していたとしたら、次なる原子炉は何と名付けられるべきであろうか。それは必然的に「しゃか」とならざるを得ない(既に亡くなられた反原子力研究の第一人者・高木仁三郎氏は、1994年発行の著書『プルトニウムの未来』で「予言」されていた)。何と言うことだろうか。そんなことが現実に許されることだろうか。「ふげん」と「もんじゅ」の命名には異議を差し挟まなかった僧侶でもこれにはどうだろう。そして、信仰はなくとも仏教と浅からぬ因縁を感じているだろう日本人であるあなたはどうだろう。

 神道と仏教を、時にはキリスト教をも使い分ける日本人は、最先端科学技術の一つである原子力発電に、あえて仏教のカテゴリーに属する菩薩の名を選んだ。これはどういうことか。神道の神々はあまりにも素朴で無力であることを、実は日本人は知っていたのではないか。「この世」と「あの世」という素朴な水平的世界観しか持たなかった日本人に、「罪」と「地獄」の存在を、かつそこからの「救い」があるという垂直的世界観を教えたのは仏教であった。古代日本人にとっては、仏教こそが「先端テクノロジー」であったはずである。また、仏たちが力を持つ外来の神々であると認識されたがために、神仏習合(第一に、仏が神を呑み込むこと=「本地垂迹」の段階)が可能となったのだ。平安密教の成功は、法力(霊力)において日本の神たちを仏教の仏たちが完全に凌駕したことを物語っている。それはそれ以降も日本人の記憶となって意識の底に潜み、現代の私たちにまで至っているのである。新原子炉の命名については、「ふげん」より「もんじゅ」の方が分かりやすいだろう。「三人寄れば文殊の知恵」の言葉の通り、文殊は智慧の菩薩である。原発には「智慧」が必要ということだ。それにしても、この三尊(釈迦・普賢・文殊)のイメージとは何か。それぞれは、慈悲・修行・智慧のシンボルであるのだ。なるほど、これらによって原発は成立するということか。しかし、仏の「慈悲」を中心に据えるとはどういうことか。最後は、人知人力を超えた「祈り」にかかっているということなるのだろうか。原子力あるいは原子炉とは、まさに「強大な力を持つ巨獣」である。つまり、人知を超えた機械である。そこで、信仰が登場せざるを得ない。「悪魔」と「神」は古来より紙一重である。穢れた水死体も再び岸に流れ着けば、エビス神に変わる。ケガレがハレに転換し、死んだヒトはカミとなる(これこそ、ホトケであろうか)。「悪魔」とも「神」ともなる得る原子炉に、何かこのような二重性が潜んでいる。広島と長崎を破壊したケガレの力を、ハレの力に転じようとする祈りがここには確かにあるに違いない。

 少しうがった見方をしてみよう。まず、仏教が始めた火葬に原子炉のイメージが重なる。次に、核燃料リサイクルは輪廻(りんね)の連想か。しかしこれは違う。仏教がめざす解脱(げだつ)とは、むしろ輪廻から脱却することだから。では、原子炉に普賢・文殊菩薩が最もふさわしかったのか。業火というイメージでは、忿怒(ふんぬ)に燃える不動明王こそがふさわしいだろう。その時には、矜羯羅(こんがら)・制多迦(せいたか)の二童子が脇侍だ。しかし、これではおそらく荒々し過ぎた。もう一つ、命名の候補があったはずで、太陽エネルギーの化身である大日如来、あるいは毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)である。毘盧遮那仏の代表は奈良の大仏様である。どうだろう、原子力の力強さをよく表すことが出来る。しかしこれは避けられた。もしもの失敗の場合、「しゃか」同様に、痛手があまりに大きいからだ。そこで、一般にはあまり知られていない「ふげん」、そしてそこから連想され、智慧(科学技術のこと)のシンボルである「もんじゅ」が適当と判断されたのだろう。ことわざ風に締め括れば、「仏作って魂入れず」ではない。原発作って、あとは仏頼み。当たり前のことだが、現実の原子炉は神でも仏でもない。人間が作ったただの機械である。徹頭徹尾人間の責任であり、神や仏に罪はないのである。「お釈迦になる」という言葉がある。どういうわけか、ダメになるという意味だ。「ふげん」はお釈迦になることが決まった。「もんじゅ」の成仏も間もないことかも知れない。本来、成仏をめざす菩薩が仏に成ることはめでたいことなのだが、これらはあまりめでたいことではないはずである。

 私のブログ名はそうした現実での戦いの記録と記憶を残して置かんがための悲痛なる叫びと切実な祈りのブログ名である。産業革命が起こり、売り先確保のために主要な先進国は我先に後進国を植民地化した。幾多の戦争があったその後遂にはマネーゲームしかなくなり、行くところまで着てしまった。今や地球温暖化問題が深刻で、エネルギー問題の反証である。金権至上主義からたおやかに脱却すべき時代に入っている。人類には地球の資源など有限であるのだと悟りだしたことから、温暖化問題が深刻になり、それが今後の時代が構築されて行く大問題となるであろう。地球は狭く、想像以上に有限なのである。人間のエゴもまた有限で儚く頼りないものである。石油だって後何年で掘りつくされるのだろう。有限な資源を、経済優先の自己中で争って早く使い切っていいものか。エコと言う前に、エネルギー問題を、人間の英知と智慧を結集し、何とかして次世代に渡せるカタチを構築し、エネルギー問題の解決の糸口を探らなければならない。我がブログ名はそうした祈りを発信する場所である。

 

 

 新婚時代に 家族で海水浴に行ったこともある若狭富士 高浜の青葉山 (敦賀は原子炉銀座)

 

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