追悼 サリンジャー

 

 

 

 

 追悼 サリンジャー

 

 

僕の母は、僕がまだ年端もいかないうちに亡くなった。

そんな時、洋書で読んだ最初の本は、サリンジャーの「If a body catch a body comin’ through the rye」だった。

英語には相当自信があった僕だが、訳すのにメッチャ苦労して、でも何とかかんとか読了した。

ブロークンな表現、汚い言葉や、猥雑な場所。それらで散々苦労した。でも読み進めて行くうちにグイと引きこまれるようになっていた。

何故だったのだろう。落ちこぼれの僕の君が、さすらいながら、ライ麦畑で遊んでいる子供たちが崖から落ちる時、

どうにかして助けてやれる僕でありたかったのだ。真実、当時哀しみにくれていた僕を、間違いなく助けてくれたもの。

それから僕はキッチンに立った。僕は忙しい父に反抗するかのように、父に、母がやっていた通り弁当を持たせた。

心の中で、どんなにザマァ見ろと思ったことだろうか。独り反抗期、独り自立、独り煩悶の日々だった。

そんな時に助けてくれたのが、このサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」だったような気がする。確かに力を貰った。

何とこの本は日本が終戦を迎えた年に出版されている。後のベトナム戦争で、ヒッピーが溢れるほど生まれたが、

当時のアメリカでは同様の厭戦気分があったのか、どこか反体制的であり、モラリストには遠い存在の禁書となっているのだろう。

享年91歳、40年間ただ一冊の新著も発表しなかったサリンジャー。でもこの間もきっと書き続けていたのだと信じていたい。

この1月27日、ご逝去。ご自宅をグルリと取り囲む2m余りの高い塀の中で、40年間、サリンジャーはどう生きていたのだろうか。

 

今月17日に亡くなった小林繁も残念だった、僅か57歳。彼がジャイアンツのエースだった時、サリンジャーと出会い、僕は中学生であった。

タイガースに黙って耐え、移籍した後、対ジャイアンツ戦に8連勝していたが、僕にとっては痛快なことだった。昨年黄桜のコマーシャルで、

江川卓と初めて二人は出会い共演したが、僕は、あのコマーシャルをどんなに興味深く見たことだろう。氷解なんてあるものかと。

ご法名は「球愛院釋静繁」。さりげなく奥さまの名の静と彼の名の繁が入っているのがとても素敵。如何に野球を愛していたのだろう。

 

去年の『櫻忌』からお仲間に入って戴いた歌人・笹井宏之は、今月24日で一周忌を迎えた。早いものである。

重病を抱えていたとは言え、たった26年のイノチであった。最期は風邪をこじらせて心臓麻痺で逝ったのだが、日を増すにつれ、

彼のケータイ短歌が、キラキラと輝き出す。たった一冊の出版である歌集・『ひとさらい』が、僕の手許で輝いて見える。

彼のブログは今も父・孝司さんによって更新されている。ブログ名・『些細』、今もいつでもここで彼に逢えるような気がして嬉しい。

父君や友人の方々で、一周忌コンサートが行われたようだが、笹井宏之も作曲をしていたから、ごく自然だ。

そうしてイノチがつながって行くのだろうと思え、「この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい」

笹井の、こうしたピュアな、あふれ出るような歌の数々が途方もなく深淵に広がって行くような気がする。

安易に天才などと呼びたくないが、笹井の歌は日ごとに、僕の心の中で大きくなって行くのも事実だ。

 

正月を迎えたばかりでも、早1月が終わろうとしている。歳月の歯車は人を待ってくれやしない。

一月は喜びの月で寿ぎの日々であるが、存外哀しみに満ちる月であるのかも知れない。

元旦も昨夜も、さらさらとした満月であった。

 

 

  

 ピアノを弾く笹井宏之 (彼のブログ『些細』より貼り付け)

 

 

 今日のBGMは笹井宏之作曲から『櫻』 笹井宏之楽曲集「SASA-Note」よりお借り致しました

 

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