節分と鬼やらい、『立春大吉』

 

  石清水八満宮の鬼やらい 桃弓で四方へ矢を射る 辟邪の大切な儀式である

 

 

 

節分と鬼やらい、 『立春大吉』

 

 

 雪が降った。僅かでも降れば真っ白い世界になり、改まった気分になれるものである。娘・杏は初雪を理解し難い様子、目を白黒させて見ていた。

今朝も残雪ありて、そして迎える今日の節分も日本人の信仰の、大事な一つなのである。古来の日本人はマタギの口伝にも表現されているように、

大自然の一部分を頂いて山神への感謝を忘れずに生きてきたのである。海にも同様の信仰があった。山海の神々とともにあったのである。

無論、農耕の神である稲魂(いなだま)さまの祭儀は最も重く尊く、神嘗祭や新嘗祭に表現されているだろう。 

縄文の時代、青森の三内丸山遺跡でも如実な通り、古来から豊かな自然と人とが、共に饗応する文化があったのである。

かくして節分は年に四度あり、春分、夏至、秋分、冬至の、各季節を区切る節気の前日が節分なのである。

このうちで、一年の区切りとなる春分の前日が特に重要視され、ただ節分と言えば、これを指すようになった。

処で節分とはいつの時季なのだろうか。今では二月の初めということなっているが、旧暦で言うと十二月もしくは一月の時季に当たる。

ちなみに今年(2010年)で言うと、節分は新暦で二月三日、旧暦では十二月二十日になる。

春の始まりを告げる春分(立春大吉)はその翌日であるから、旧正月はまさに春になっての初の月であった。

日本人は年や季節など節目のたびごとに、他界(=彼岸)と交流する「お祭り」をする。

それは同時に魂の再生と、それを更新する儀式でもある。そしてその節目の前には祓いを行う。祓いとはケガレを流すことである。

これをしなければ魂が失われてしまうからだ。つまりは死んでしまう意味だ。祓いをして、さらに生命の更新・補給などの作業をする。

これは祭りの一側面である。他界から来る神や祖霊が新たなる新鮮な生命の息吹きを運んできてくれる。

「祭りと祓い」は、官民で違いもあり多種多様であったが、また、官民で相互に伝播し合ったものもあるし、

次第に統合され失われたものもある。 その中で「正月と大晦日」が代表的なセットであることは言うまでもない。

節分は春分とセットであるのだが、春分の具体的な祭りの方は、「正月」の祭りに吸収されてしまったようだ。

しかし節分の方は、大晦日の祓いとダブりながらも、今でも盛んに行われているのである。

こういう信仰をもつ日本に、中国から「追儺」(ついな 「鬼儺」=鬼やらい)がもたらされた。

これは陰陽五行(道教=日本では陰陽道という)に基づく厄払いの儀式である。中国の鬼は異界の妖怪であるけれど、

日本の鬼はもとはカミ(湯立て神楽にある通り)である。疲弊しケガレた神である。

そこに日本のケガレを流す祓いが結びついたと考えられる。

ケガレた神である鬼に、ケガレを持って帰ってもらうのである。

追儺はもとは宮中の行事で、大祓いの一環として大晦日に行われていた。

方相氏(ほうそうし)という祓い役が、矛と盾をもって「鬼やらい」と唱えながら、鬼役を内裏の四門に追い回し退散させる。

また殿上人は、桃の弓に茨(または葦)の矢を手につがえて鬼を射たものだった。

そして、宮門に大寒から置いてあった土牛と童子人形を、正月(立春)の夜の到来とともに取り去ってしまう。

追儺は陰陽五行、つまりは道教(日本に入ってから陰陽道)に深く色取られている。

土牛とは十二支の「丑」(十二月、冬)の象徴で、

これを取り去るとは、次の「寅」(正月、春)に季節の座を譲ることを意味する。

また、童子とは「丑寅」(艮・うしとら 十二月の後半。方角では北東)で、かつ「土」気の象徴なのである。

「丑寅」は「寅」の直前であり、これを取り去ることは冬の終わりから春の到来を告げるものである。

つまり「土」気から、「寅」の「木」=気への移行を意味する。同時に、「丑寅」は「鬼門」であり、まさにここから鬼がやって来るのだが、

鬼を追いやる所でもあるわけである。それから桃については、中国では古くから、

桃には辟邪(へきじゃ=邪悪を追いやること)の力があると考えられていた。

この思想の到来は早く、イザナキが黄泉の比良坂でイザナミから逃れた時に桃が使われている。

これが不思議なことに、いつの間にか「豆」に取って代わってしまったのだ。

「豆」も又辟邪のものと、私たちの先祖が感得したに違いない。

 

 こうして「寅」(正月)の水際で、ケガレを祓ったが、鬼門とは、鬼とともにケガレが棲む所と合いなってしまった。

追儺の移入はあくまで外人助っ人的である。あたかも仏が外来の強力な神であったように、

祓いのために世界最新の強力な呪法として呼び込まれたものだった。

また、それを必要とする新たなケガレの脅威があった。疫病である。病むは「止む」であり、ケが止むことでもある。

魂(生命)を奪うケガレの一つであった。今の節分のスタイルは、節分の日に、家人が「鬼は外、福は内」と唱えながら豆をまくが、

これは京では平安時代から始まったとされている。しかし全国化するのは他の民俗と同様、室町時代ごろからだろう。

室町時代というのは日本精神史の中の一大転換期でもあるからだ。

それは、平安・鎌倉時代までの京文化が最終的に倒壊した時期でもあり、

それまでの宮中行事の作法や伝承されてきた京文化が流出した時期でもあった。節分の日の豆まきとしての追儺も、

こうして陰陽道の知識とともに、世に広まった思われる。陰陽五行が日本全国に流布するにつれ、これに基づく迎春行事が盛んになってゆく。

迎春行事というのは、春である「寅」の「木」気を扶ける呪術でもある。そのために「木」気を食う「金」気を、

「火」気によって追いやるという戦略が採られた。凧上げや羽根突きもこうした行事のひとつであった。

 

 豆まきでの豆は、陰陽五行で言う「金」気なのである。これを炒ることにこそ意味がある。

「火剋金」と言うのだが、「金」を「火」で撃ったのだ。更に、その豆を外にまいて追い出す行為をする。

すると「木」が活き、春という季節が充満するのである。このような迎春呪術として、近世以降の豆まきが成り立っている。

豆まきの豆を食べるようになるのも、この「金」を砕くという考えの延長にあるのではないだろうかと思われているが、

しかしその深層には、陰陽五行以前のケガレ祓えが実はひそんでいるのである。

豆にはケガレを付けて、鬼に投げるというのがまさに本義なのである。

同時に、豆まきは年占(としうら)でもあった。年占というのは一年の天候や吉凶の占いである。

この上を陰陽五行思想が被っているのである。そのような歴史と伝承と信仰を背負って、私たちは豆まきをしていたのである。

 

 日本人は、欧米流儀の「宗教」しか宗教ではないと信じ込んでいる。

そうではない。意味もわからずに民俗行事を続けていること、そのようにしていまも保持されている聖俗秩序観こそ日本人の信仰なのであり、

そういう意味で豆まきを続けているような日本人は、みな立派な宗教人なのである。

古今、洋の東西を問わず、人間には「俗」とともに、「聖」が必要であった。自意識、すなわち「精神」の誕生は、

必然的に、「この世」ならぬ世界を見出さざるを得ない。目に見える世界と目に見えぬ世界を含めての一つの「世界」なのである。

「聖」なる領域、それは人間の精神生活の底辺にある。合理主義だけの生活は人間の生活では成り立たない。

ケガレを祓って新たになる、そうした精神文化こそ日本人の本質ではなかろうか。

 

 新たなる今年の暦もまた立春大吉の日(四日)から始まる。

今年の運勢はどうかと言う正月占いの「気」は、この日一日だけ方角が誰にとっても悪い方角が一切なく、自由に移動可能な春の一日である。

運気の悪い人は今年は基本に立ち返れと言う意味である。また良い運気の人でも調子に乗ってはならないと言う意味であろう。

良いも悪いも、節分が終わって『立春大吉』の日から新しく運気が始まるのである。

四文字熟語の中で、『立春大吉』は私が最も好きな言葉である。魂の底からあらたまれるからである。

現代の節分にこそ、古代日本人が自然とともに再生を祈ったように、季節の重要な民間行事として残り、大好きな祭りである。

 

 

 本日行われる「東大寺 二月堂の豆まき」 公開される「星曼荼羅」

 

 

広告
カテゴリー: 歳時記 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中