小石川植物園 ① 成り立ちの概要

 

 

 

 小石川植物園内に自生する数々の菫の花の一つ マルハタチツボスミレ

 

 

 

 

 

          小石川植物園 ①     成り立ちの概要

 

 

 人間に「謙虚」や「謙遜」を教えるために、植物が生まれ存在するという古来からの教えを、私は心から信じる。明治という痛々しい時代を生きた文豪・夏目漱石の俳句に、「菫ほどな 小さき人に 生まれたし」という句を詠んだのがあるが、どんなに華やいだ草花にも、人間にとっては、この自然の生命固体の謙虚さには決して勝てはしまいという意味ではないかと解釈している。ノボ(正岡子規)さんの写生という俳句の改革も、何やらこのような意味を含んでいるのではなかろうか。天然自然を乗り越えたという人間の思い上がりは不遜の極みであるに違いない。そんな中で居住まい佇まいが美しい私の大好きなブログの一つに、菫をテーマにした素敵な文学のブログがある。その方の描く多くの女性に毎度感銘を受け、紹介された本は京都・一条恵文社で買い求めて、殆ど読み、その方の受け留め方に感心し、改めて感銘を新たにする。そしてそうした幾多の好みの延長線上に我が愛してやまない小石川植物園がある。私は時々この都会の森を散策し思索に耽る。日本人とは何者か、日本とは何か、日本の進むべき道とは等々、私は多くの啓示に富むこの森を歩くのを好み、「宇佐八幡菩薩」のことや「稲荷信仰」のことや、「三輪山伝説」のことや、本来「古事記」や「日本書紀」の持つ意味など、時空を超越し、古代日本人が交流し日本人の精神の素型になったことを深く考える。メタセコイヤの木々を眺めるにつき、古代縄文人の自由闊達さや粗末なものでもコト足りる叡智に思いを致す。それらの原稿は下書きにして、思いつくまま日々数通を書き溜めているが、今日はその本質論に至るまで多くのことを教えてくれるこの場所について、序章・序曲という意味で、小石川植物園の概要についてホンの少々書き記してみたい。

 

  <小石川植物園の歴史>

 広く「小石川植物園」で親しまれているこの植物園は都会のド真ん中にありながら、不思議な時空を形作っている。日本に現存する最も古い植物園であるばかりではなく、世界でも有数の歴史を持つBOTANICAL・GARDENS(植物園)である。今から数えて326年前(貞享元年)、第5代将軍徳川綱吉が将軍職に就く前に住んでいた白山御殿の跡地に、徳川幕府が設けた「小石川薬草園」がその原点である。園内には今も長い歴史を物語る数多くの由緒ある植物や遺構が残されており、その中には第8代将軍徳川吉宗の時代に、目安箱の効果のお陰を持って設けられた「小石川養生所(施療院)~山本周五郎作<赤ひげ診療譚>のモデルになる」の井戸が薬草園の先にあり、関東大震災や東京大空襲時の避難民の待避所ともなった。東京大学が設置された明治10年(1877)に同校の付属植物園となり、敷地面積は160,787㎡(48,638坪)もあり、台地・傾斜地・低地・泉池地などの変化に富んだ地形を利用され、様々な植物が植栽されている。この植物園は近代日本の植物学発祥の地でもあり、現在でも自然誌を中心とした植物学の教育・研究の場でもある。本館内には多数の植物の標本や植物自然史関連図書が収蔵されている。東アジアの植物研究の世界的センターとして、国内外からに応え、今も活発に利用されている。年末年始と月曜日を除き一般にも明治時代から開放されている。

 植物園では東アジアに分布する維管束植物を中心に収集し栽培されている。園内に生育する樹木は約1,500種もあり、草本植物は植物分類標本園、薬草保存園、山地植物栽培園や圃場(これだけは非公開)などで構成されている他、樹林内や林緑に合計1,500種が育成されている。園内には戦時中アメリカから贈られたハナミズキが、敵国の花だとされ全国の殆どのハナミズキが伐採の憂き目にあったが、この園内のハナミズキだけはその難を逃れ、戦後ここから全国に向け再び苗木が送られたものであった。又温室では熱帯・亜熱帯の植物約2,000種が栽培されている。この植物園の本来は暖温帯に位置しているため、もともとあった植生はシイノキ・タブノキ・アカガシ・ヤブツバキ・ヒサカキ・ヤブコウジ・ベニシダなどの暖地性の植物で構成されるシイ林であったのだろう。シイ林が破壊されるとコナラ・アカメガシワ・ムラサキシキブ・ガマズミ・アズマネザサなどを主とした二次林が出来て来ることでも知られる。植物園の傾斜地にはほぼ自然のままの状態で残されている。低地に高く聳えるハンノキ(カバノキ科)が傾斜地の一番下に位置し堂々と立っている。

 

      (江戸時代 御薬園として)

 東京大学大学院理学系研究科付属植物園の歴史は、それぞれの時代の植物学の役割、或いは植物学に対する認識の歴史でもあり、以下順を追って役割の変遷を申し述べたい。

 小石川植物園のもともとのルーツは、寛永15年(1638)、江戸城の南北に開かれた徳川幕府直営の御薬園にある。これは漢方薬を輸入に頼らずに自給することと、正しい薬草の知識の普及を目的にするものであった。そのうち南の御薬園、将軍御成の御殿であった麻布御薬園が、小石川の前身である。この薬園が白金から小石川御殿地に移転した貞享元年(1684)が小石川における植物園の始まりと言えよう。麻布御薬園では貝原益軒も参観した、代表的な薬園であったようだ。この移転の際、麻布御薬園の預かりであった御番医師の木下道円が、小石川御薬園の最初の開設者になるだろう。つまり最初は薬園であり、その管轄者は医師であった。従って、そこで栽培された凡そ70種の植物の大半は薬草であり薬用であった。その後随時、朝鮮半島や中国・台湾から薬木・薬草が移入され植え付けられて、或いは国内での採薬によって、苗が供給されたようである。これらを資本をもとに、現在で言えば製薬工場にあたる役割を担っていたのではなかろうか。

 木下道円がお役御免となった後芥川小野寺元風が御薬園を預かっていたが、享保6年(1721)に小石川御殿地の全域に拡大されてからは、東西二つの御薬園として管理運営されるようになった。西側の、もとからあった御薬園の側は内御薬園と呼ばれ、芥川家が管理し、東に新たに開かれた側は、外御薬園と呼び、小普請組の岡田利左衛門安忠が管理することとなった。このように規模の拡充とともに、享保年間、歴史に残る役割が小石川に与えられるようになったのである。

 一つには施薬院の開設であった。これは享保7年(1722)、岡田が管理する御薬園内の御役屋敷の近くに建てられたもので、町医者の小川笙船(赤ひげのモデル)が目安箱に投書したのを受けて、実現した施設であった。ここでは町奉行の管轄下にある20名の医師が係りとして当てられ、困窮民の病気治療に貢献することとなった。施薬院はやがて養生所と改称され、明治御維新後は東京市養育院に引き継がれた。現在小石川植物園に残る古井戸は、この時の遺跡である。

 もう一つは享保20年(1735)の青木文蔵(昆陽)によるサツマイモ(甘藷)の試作である。青木文蔵は寺子屋の教師であったが、「和蘭語訳」などを出版したオランダ語の使い手でもあった。それを買われて、当時の町奉行・大岡越前守忠相によって、幕府の書物方となり、やがてサツマイモの栽培を啓蒙する書「蕃藷考」を上程。これが切っ掛けとなって、幕府もサツマイモ栽培を後押しするようになったのである。もともとサツマイモは17世紀初頭には既に中国から琉球に入ってきていたが、本州での栽培は行われていなかった。しかし収率・食味がよく、飢饉などの時の非常食によいという意見は、小石川での栽培試験以前より、幕府に何度か寄せられていたのである。例えば石見大森の代官、井戸正明は青木文蔵の3年ほど以前にサツマイモを奨励されていた。しかし当時晩年であった新井白石を中心として、サツマイモ有毒説があって、普及は妨げられていた。そうした中、享保17年(1732)、イナゴの大発生などで享保の大飢饉が発生、飢饉時の対策が急務となっていた。小石川でのサツマイモ栽培は、こうした時代の情勢を受けて、言わば必然的に行われた実験であったと言えよう。又これは、小石川の御薬園が薬草の供給のみならず、新規実用作物の栽培試験場ともなったことを端的に意味している。所謂、現在の農林試験場のようなものになったことであった。

 とは言え、主たる役割は相変わらず、薬草の供給源であった。薬種の原材料を供給するというだけではなく、薬園奉行の役宅には、薬種蒸所など、製薬に関わる部屋があった。例えば享保の大飢饉の年、芥川預御薬園からは75品目2,512,1斤(1斤は約600gなので約1,5トンに相当)の薬を幕府に納付している。御薬園で生産された薬種は進献御上がりの他、余剰分は民間にも払い下げられていた。又ヘチマ水は大奥の化粧水として利用されたようで、毎年5斗(1斗は約18㍑なので約120㍑)が献上されていた。

 

 

 

 薬草園内にあるミツマタの花 春の香り漂いて

   

 

        (明治時代 近代植物学の発祥)

 以上のように小石川植物園は御薬園として江戸幕府の管轄下にあったために、大政奉還とともに、その扱いはしばらく二転三転することとなった。明治元年(1868)6月11日には医学所頭取が一旦引き取り、ついで東京府の管轄となった。翌明治2年には大学東校の管轄下となって医学校薬園となった。当時においても薬草園の役割が強いと見なされていた証左であろう。ついで明治4年(1871)7月、文部省の所轄に帰した。更に二年後の明治6年(1873)3月には博覧会事務局に属した。文部省博覧会の意義は、蒐集物を、「世人ノ放観ニ供セント欲ス」(明治5年~1872)というものであったので、ここでは薬園、花園を一般に開放しようという意図があったのであろう。又その二年後、明治8年(1875)には再び管轄が変わり、教育博物館の所轄となった。小石川植物園と改称したのはこの時である。更にそれが高等教育機関である東京大学の付属となったのが明治10年(1877)のことであった。東京大学が発足したその年のことである。東京大学という組織も、短期のうちには植物園以上に二転三転して出来上がったものであった。

 先ず明治元年、徳川幕府の湯島昌平黌を復興した昌平學校が設立され、国学を中心とした教育を目指した。一方幕府の洋學所はやはり明治元年に開成學校として洋學を中心とした教育を目指した。更に幕府の醫學所は醫學校として復興され西洋醫學を中心とした教育機関となった。東京大學はこうした合併や分離を複雑に繰り返した結果、最終的には明治10年4月12日、開成學校と醫學所とが合流して出来た組織であった。小石川植物園はかくして明治10年4月14日に東京大學法理文三學部付属植物園と改称された。主管は、この前年、コーネル大学留学より帰国、東京開成學校で植物学を講じていた矢田部良吉である。この時、小石川植物園の帰属については、江戸時代における薬草園としての役割を重視して醫學部に所属すべしという意見と、近代植物学研究を目的とした理學部に所属させるべきであるという意見と、両説があったと言われている。尚植物園は同年5月8日には東京大學小石川植物園と改称されている。その理學部生物學科担当の初代教授となったのは、植物園の主管であった矢田部良吉であった。又理學部の員外教授として、先にシーボルトからリンネ式植物分類学を修得していた伊藤圭介が任じられた。伊藤圭介は既に明治8年より植物園に勤務して、植物調査に当たっていたので、それを引き継いだものである。この当時の小石川植物園の役割として期待されていたのは、近代植物分類学の普及と基盤組織ということであったのだろう。当時の植物学は、西洋の植物学の教科書を翻読しながら、それを実際に見て確かめるといったレベルであり、実験機器類も不足していたので、外部形態学や分類学に当たる実習が行われていた。そのための材料は小石川植物園から毎度、大學まで運ばれていたという。又学生は植物園研究特許證を携帯して植物園に通っていた。一般の観覧は週一回のみであった。

 

 

 伊藤圭介・賀来飛霞共著 小石川植物園草木図説 巻二 明治17年出版

 

 植物園の名称は、その後も時々変更を受けている。明治17年(1884)に東京大學付属植物園と改められ、毎日一般観覧となった。更に明治19年(1886)に帝國大學令に基づき東京大學から帝國大學と改称されると、植物園も帝國大學植物園と改められた。その後も明治30年(1897)には帝國大學が東京帝國大學と改められると、東京帝國大學理科大學付属植物園となった。この有為転変は実は幸運な転機となったのである。この改称を機に本郷にあった植物學科植物學教室も、ここに移転してきたからである。園長職も新たに設けられ、植物學教室の第一講座教授であった松村任三が初代園長となった。即ち植物園は植物園であるだけではなく、植物學科植物學教室と一体化することで、日本における理学的な意味での近代植物学のセンターとなったのであった。その象徴的な出来事として、この前年、明治29年(1896)におけるイチョウ、ソテツから精子発見があげられる。これらは、例えば矢田部による新属新種のキレンゲショウマの発見(明治23年~1890)といった分類学上の発見を別とすれば、日本の植物学が初めて世界的な大発見であったのだ。特に、助手であった平瀬作五郎によるイチョウの精子発見は、種子植物からの精子の最初の発見であり、又材料として用いられたのが、今も小石川植物園の中央近くにある大イチョウであったこともあり、植物園における最初の大発見と言ってよい。これ以降、近代植物学は急速に日本に根付いて行く。

  更に特筆すべきことは、明治35年(1902)には高山植物の研究を目的として、分園が日光に設けられたことであるが、この件は、「小石川植物園 ②」の別稿に委ねることにしよう。

 

        (明治末期から大正時代 植物学センターとして)

 日本における植物学の発展を受け、明治後期において植物園内の植物學教室研究棟は増築を重ね、実験室、さく葉図書室等、数十の部屋を備える研究棟を保有するに至った。そればかりではなく、明治40年(1907)には三井家の寄付により、イギリスの化石学者来日調査に合わせて、化石研磨工場も別棟として築造し、古植物学の研究体制も整った。大正3年(1914)にはチェコよりメンデルゆかりのブドウがもたらされた。更に大正7年(1918)、現在の野村証券のもととなった野村財閥の創始者たる野村徳七兄弟からの寄付講座として、新たに遺伝学講座も開かれ、遺伝学研究室の他、遺伝学用実験温室も備えるに至った。即ち植物園内に、日本で初めて、植物分類学、植物形態学、古植物学、植物生理学、植物遺伝学といった、近代植物学の主要なジャンルをすべてカバーする研究所がここに完成したのである。日光分園も同年8月、付近の土地を購入合併、また内務省より一部の土地の移管を受け敷地の拡大をみた。その上大正7年(1918)には更に付近の土地を買収し、また実験室も開設し、日光における動植物学科の実習のため活用されることが多くなった。現在での東京大学植物学科における研究体制がかくして本格的に整備されたものであった。ここに大正8年(1919)2月6日、帝國大學令の公布により、理科大學は理學部となり、これに伴って植物園も東京帝國大學理學部付属植物園と改称されたのである。園長は引き続き松村任三であった。これで植物學科は小石川において既に3講座4教授を抱える研究体制となった。大正11年から三好學が第二代目園長に就任している。

 然るに大正12年の関東大震災により、植物園は全く別な役割を担うことになる。植物學科の震災による被害は僅かであったが、東京市内の被害は甚大なものであった。その結果、焼け出された市民は植物園に避難し、避難生活者を抱えることになったのである。震災当日の9月1日には25,000人、翌日は35,000人に及ぶ避難民が、植物園で夜を明かしたのである。この時の避難民は、やがて行き場を見つけて退去していったが、内務省の要請により急設救護所として、10月にはバラック22棟建築の結果、その年末には642世帯2,354名を収容することとなった。しかし一時的な措置であるはずのバラックに、翌年末ですら182世帯、562名が住み、半ば定住という事態になりかけた上、多人数の生活により植物はかなり傷んだため退去を勧め、大正14年1月、全員の撤去に伴いバラックの完全取り壊しが行われたが、園内には今も「震災記念碑」として遺されている。

 

 

 早春 薬草園にある吾亦紅の新芽

 

 

        (昭和時代 再び分類学専門の研究機関として)

 大正から昭和に移る間にも、植物園における植物學教室の活動は目覚しいものがあった。園長は、大正13年に第三代園長となった早田文蔵から、昭和5年、第四代として中井猛之進教授が継いでいた。しかしその間、増改築を繰り返した建物の老朽化が著しく、植物學教室は、本郷地区の整備に伴い、耐震設計の理學部2号館(現在も生物学科が使用している)の新築を計画することとなった。その結果、昭和9年(1934)夏には殆どの部門が新しい理學部2号館に移転し、ついで翌年夏には全ての部門が理學部2号館に移転した。かくして植物園内に建造されていた研究室は取り壊され、さく葉図書室、生理化学研究室、遺伝実験室のみが残ることになった。その後、昭和14年に事務所(植物園本館)が新たに完成した。尚昭和10年に駒場から本郷に移転した農學部は、その時以来小石川植物園の北端の一部を遺伝学実験用並びに林業実験苗圃用地として利用している。第二次大戦の際には、小石川植物園も甚大な被害を受けた。大温室などは昭和20年の空襲により焼失。研究活動はここに完全に停止したが、戦後、昭和22年(1947)、東京大学理学部付属植物園と改称され、昭和27年(1952)には大温室も木造ながら復活し、続いて東京オリンピックがあった昭和39年(1964)には鉄骨で改修され、本格的な復活のメドが立つに至った。昭和31年(1956)には理学部植物学教室の系統・発生担当の助教授・前川文夫が発生部門を小石川植物園に移転し、昭和44年まで発生生物学の研究室が続けられた。昭和42年(1967)、植物園に1講座相当の設置が認められ、その5年後には植物園独自の研究組織が発足された。昭和51年4月には植物分類学研究室が本郷の植物学教室から植物園に移り、植物園のスタッフとともに、植物系統分類学の研究室が発足した。昭和59年(1984)には老朽化した植物園本館の改修が施された。一方日光分園も、昭和25年(1950)に旧田母沢御用邸敷地の一部が移管された他、隣接地の買収をするなどして現在の面積に拡充され、復興が進められた。植物学教室による分類学野外実習には毎年利用され、今日に至っている。昭和55年には研究室も発足され、教育・研究が推進されている。昭和56年には越冬温室が完成し、高山植物栽培の幅を広げた。尚昭和54年(1979)に植物園発展の必要諸事業の後援を行う目的で、「小石川植物園後援会」が発足し活動が続けられている。

 

 

園内奥にある花梨(かりん)の樹 木肌が面白い

 

 

       (平成時代 植物科学の側面から)

 昭和後期には、植物園は植物学研究の場として復活し、今日に至っている。小石川植物園の研究温室も平成5年(1993)に新たに竣工し、これまで以上に多くの研究用植物を収容されるようになった。植物園における活動の対象となる分野も、再び大きく広がりを見せている。例えば絶滅危惧種である小笠原諸島の花々を、この非公開の温室に持って来て育て、再び父島や母島に帰し、地元では漸く自生するまでに至ったことや、メンデルの修道院で既に枯れてしまったメンデルのブドウの苗木を再び地元に贈って感謝されているようである。どうやらここにはきわめて大きな使命を帯びているように思えてならない。

 又小石川植物園の敷地内の変革では、昭和44年(1969)に、旧東京医学校本館が本郷から園内に移設され、近年その改装が行われたばかりである。平成13年(2001)に東京大学総合研究博物館小石川分館としてオープンし、一般に公開されている。尚正式名称は、平成10年、理学部の大学院化に伴い、「東京大学大学院理学系研究科付属植物園」というのが現在の正式呼称である。

 

 

 (ここの植物園はほぼ自然のままの状態になっており、大都会の真ん中であっても唯一自然の啓示を受けられる場所である。

一木一草に至るまですべてに、こと細かな物語がある。今日はその歴史を主に書いたが、全く書き足りない。

であるから本稿は何度かに分けて細密に描写しリポート申し上げたく存じおり候!

尚水道橋・後楽園のほうの小石川植物園は旧水戸藩のお庭で東京都の管理下にあり、こことは全く違う。要ご注意!!

ここの東大付属小石川植物園は地下鉄茗荷谷駅と地下鉄白山駅の中間に存在する。マンサクの花が今満開である)

 

広告
カテゴリー: 教育 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中