追悼 井上ひさし

 

 

 

在りし日の井上ひさし 淋しきことのみ多かりき

 

 

 

 

 

追悼 井上ひさし

 

 

この9日夜、井上ひさしが肺癌のために、75歳の生涯を終えられた。甚だ残念無念である。

水上勉さんを介して知り合えた友人の劇作家・小松幹生氏からの連絡で、その日のうち知っていたが、

少し時間をおいて、今日追悼文を書かせて頂こう。櫻塾施設の一部建設のため、厳粛な地鎮祭があったからである。

井上ひさしは「ひょっこりひょうたん島」や、「ネコジャラ市の11人」や、「11ぴきのねこ」など、華々しい活躍でお馴染みだろう。

「悲劇」は割と書けるのが普通だが、「喜劇」ってヤツは非常に難しい創作なのである。

そして井上ひさしの揮毫には、多く次の言葉が残っている。

「むずかしいことをやさしく/やさしいことをふかく/ふかいことをゆかいに/ゆかいなことをまじめに書くこと」

 

パソコンは一切使わない。携帯電話も持たない。

読書量は司馬遼太郎に匹敵するぐらい多く、読み終えた本には多数の書き込みが残されている。

戯曲も小説も、現実に迷惑を掛けてしまうほど遅筆の極みであるが、仕上がった原稿はほぼ完璧に出来ていた。

登場人物にキャラクターを与え、簡単な指人形を作り、その人形を机上であれやこれやと想像し動かし、筋立ての完璧さを追求していた。

言葉を尋常ではないぐらい大切にする。そして左翼とも取れるような一貫した平和主義を貫き通す。戦後の日本を検証するかのように。

但し家庭内暴力(前妻・内舘好子に対し)があったようだが、アナログ人間の代表格な人なのだろう。何故か向田邦子を思い起こさせる。

出身地の山形県川西町には、個人蔵書を寄贈し、 「遅筆堂文庫」(別にも山形館もオープンした)として、多分20万冊はあるだろうか。

寄贈された本には、井上ひさしのメモ書きや手垢がついているのを誰もが目撃することだろう。

 

ここまでは皆さんが既にご存知の井上ひさし像であろうが、今日は特別に彼のお母さんのお話をしたい。

井上は文学好きな父(ケンランゴウケの人らしい)に恵まれて生まれたのだが、残念かな、井上5歳の時に父はなくなっている。

代わりを果たしたのがお母さんであった。この母親がまた凄かった。出羽・朝日岳の麓の沼で取れた柔らかな藻を使って、

戦後、女性初の生理用品を作ったヴァイタリティ溢れる女性であった。製品は爆発的に売れ、大儲けをした母親は或る男性に全てを貢いでしまう。

だがアッサリと騙されてしまい、遂にひさしは横文字が並ぶ学校へ行くのだが、それは逆説的に飽くまでも本人が喜んだことであったろう。

横文字が並ぶ、何だか斬新な感覚を引き起こしたに違いない。単なる養護施設であったのに。

 

父親の栄光と挫折、母親の挫折と、ともに彼は味わっている。このことは井上の精神構造に少なくとも投影されているのだが、

戦後浅草のストリップ劇場・フランス座が井上の出発点であった。幾ら座付けの作家とは言え、所詮ストリップの合間にやる寸劇なのである。

でもドッコイ名優たちがゾロリといた。渥美清と言い、関敬六と言い、東八郎と言い、皆井上の味方であったようだ。井上は誠心誠意を込め爆笑を書く。

何故ならストリップを観に来たのに、喩え寸劇であっても、男性客の見方は厳しったのだから、彼らはそれを糧に奮闘したと言っていい。

井上も、関西の喜劇の重鎮・藤本義一が大目標であったが、所詮勝てないであろうと予測され、井上の格闘はそこから始まったようなものである。

 

その後「吉里吉里人」や、「馬喰八十八伝」や、様々な作品をして直木賞作家として地歩を築いたが、

井上ひさし自ら作家の地歩を決して信じていなかった。最期の最期まで、彼は己の地歩と、真摯に戦い続けた人であった。

私は直木賞を得た「手鎖心中」や、「四千万歩の男」が好きだが、人それぞれに彼に好悪はあるかも知れない。

でもでも、宮沢賢治が20世紀の我が日本にもたらされた最大の宝石なら、井上ひさしは笑いをとって考えさせる怒涛の演劇人であったろう。

体制批判に裏打ちされた痛烈な批判精神を、私は心地よく思う。笑いとは、一発芸など蔓延る世界とは無縁な真剣勝負であった。

今や井上ひさしは井上ひさしでしかなく、クリスチャン系学校で育った、彼の鷹揚な「帰天」を、私は決して信じて疑わないのである。

常に真剣勝負をした井上ひさし、心底からお疲れ様でしたと言いたい。安らかに!後は私たちが貴殿を後世に永く伝えて行くことだろう。

 

 

 

井上ひさしに捧げ賜いし 名もなき孤高の山櫻の枝垂れ

 

 

悲運は続くものである。大好きだったジャイアンツの木村拓也コーチがクモ膜下出血により急死なされた。大好きな選手でコーチだった。

最も印象深かったのは、去年のヤクルト戦であったか、打者で三人目の捕手である加藤健が頭部にデッドボールを受け、突然退場。

誰もいなくなった捕手。その時キャッチャーを誰にしようか迷っていた原監督は、既にミットを持って練習をしていたのがタクヤだった。

あの時は確か同点引き分けで、その試合は終わった記憶があるが、この試合で原監督はチーム力の結束と爆発力を確信したと言う。

淋しい、あんなに勤勉で明るい選手の、キムタクのいない野球界はとっても淋しい。心から哀悼の念を禁じえない。

タイガースの金本、新井。その日のチーム・カープたちが半旗を立て、喪章をつけていたのが特に印象的だった。

アニキ、有り難う!そして皆さん有り難う!安らかに眠れ!拓也(享年37歳の若過ぎる死)、南無!!

 

 

 

 我が家の石楠花 もう直ぐ満開 僕のヒーロー・木村拓也にささく

 

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