八幡さまの物語

 

 

 全国4万6千社の総本宮・宇佐八幡宮 上宮楼門

 

 

 

 

                    八幡さまの物語 (1)

 

  全国に最も多い神社は伏見稲荷社であるが、二番目に多いのが八幡社である。特に稲荷社の場合、日本人の各邸内にあることもあり、正確な数は把握出来ていない。それだけ崇敬の念を持たれているこの二社は、伊勢神宮関係社や出雲神社関係社より数多くあるというのは一体何故なのだろう。ひょっとしたら、記紀万葉以前に、その素型が出来上がっていたのではなかろうかと疑って掛かってもいいのではないか。因みに全国末社数で一・二位を誇る稲荷社と八幡宮と、その発生と起源は帰化人たちの神々であったことから見ても、日本人との関わりの中で、「記紀」が整備される以前には古儀信仰の証があったのではなかろうか。無論、神宮を始め、一宮さん、天神さん、荒神さん、恵比寿さん、お諏訪さま、八坂さん、春日さんなどを無碍にする意図は全くないものとして、兎に角二社の存在は際立って数多いのである。一位のお稲荷さんはお屋敷の中に祀ってあるお社をカウントしていないのに、その存在は絶大な信仰を集めていると言ってもいい。

   お稲荷さんは絶対的な庶民の味方なら、八幡さまだって別の意味で強大な神であった。「八幡大菩薩」と神仏習合された名で呼ばれ、古代国家の大事には遥か九州の地から飛来した。伊勢の神宮に次ぐ尊崇をもった最高の国家鎮護神であり、その一方武士政権の最大の守護軍神にもなっているのである。ところが、この八幡神はもとはれっきとした新羅からの外来神であったのだ。鎌倉源氏は自らを「新羅」の末裔と信じた節がある。従って守護神を八幡神とするのも当然のことであろう。もっと言えば、源氏の「白旗(しろはた)」は、実は八幡社の「素幡(しろはた)だったことになる。そう言えば「八幡太郎義家」と名乗ったものもいた。

 「随書」倭人伝(608)、小野妹子は隋使・裴世清を伴い帰国したが、裴世清が筑紫から瀬戸内海に入った時、中国人が住む「秦大国」の存在を知らされる。「秦大刻」とは、渡来帰化人の秦氏が多く住んでいた豊前の地(現在は福岡県と大分県にまたがる広大な地)のことであった。秦氏は、秦の始皇帝の流れを汲む氏族で朝鮮経由で渡来したと自称していた。この秦氏がまた物凄い。中国から本より、半島の文化文明をすべて運んで来たと言っても過言ではない。畑作とは実は秦作であり、秦氏が畑作を広めたとする主張があるくらいである。又、鍛冶や鋳造技術にも優れ、優れた武器も作ったであろう。養蚕も伝え、機(ハタ)織りに長けていたとも言われている。後で述べるが、同時に佛教や道教の普及者でもあったことだろう。日本最多の社数を誇るお稲荷さまも秦氏の信仰であった。多くのものを伝えた秦氏は相当な人数で渡来し、豊前に留まらず、山背国南部(京の太秦=広隆寺)など当初広がり、そして琵琶湖西岸街道から越(エツ)の国へ入り、敦賀(気比大社)にもしっかり根付き、日本各地に広がったものであったろう。秦氏の氏神が果たして日本教に何故なり得たのか。そこが本稿のポイントであること明言しておこう。

 神明「八幡」は、もともとは「はちまん」ではなく、「やはた」が古名である。「八」は多さを表現し、「幡」は後の「旗」である。旗とは単なる目印ではなく、神が降臨して来る目標物となる神の依り代(ヨリシロ)のことである。今でも鎮守の森に神迎えするために、村の入り口に旗を立て、そこをお旅所としているように。はためく旗とは神が示現する姿そのものであり、鳥に化身した神が飛ぶ様子でもある(鳥に化身した神が飛ぶ様子を表現した神使として、古来から崇められてきた。熊野三山の神々にもその古形が見えるが、日本サッカーチームのエンブレムにつけられている八咫烏(やたがらす)などは最も顕著な例であろう。八幡とは、多数の幡を立てて祀る神のことなのである。

 「宇佐八幡」とは、八幡神の分神後の呼称であり、当初は単に「八幡(やはた)」と言った。現宇佐八幡のご祭神は、応神天皇・神攻皇后、それに宗像の三姫神であるが、これは本来から言うと、虚偽であり剽窃である。延喜式(905~927年撰述)によれば、八幡大菩薩宇佐大神と大帯(たらし)姫神と、姫神の三神であったとある。最後の姫神とは宇佐地方の御許山のご祭神である。そして大帯姫神が息長(オキナガ)帯姫、つまり神功皇后に擬せられ、その結果八幡大神は神功皇后の御子・応神天皇とされるようになったのである。秦氏もこうした剽窃を容易に受け入れる柔軟さがあったのではないか。但し何時の時期か特定は困難なことである。

 秦氏の神山は、南豊前(現在の大分県北部)に属する宇佐地方ではなく、その北西、筑紫に近い北豊前(現在の福岡県南東部)にある香春岳(福岡県田川郡)にあるのが本来である。香春は「カハル」と読むが、もとは「カル」である。「カル」とは金属、中でも銅のことであった。飛鳥の天香具山の「カグ」も「カル」の意で、同様にここでも銅製の鏡や矛などが作られたものである。香春には古いさい採銅所があり、ここの銅から八幡宮の神鏡が作られており、そこには元宮八幡宮がある。ところが元宮八幡宮の「新宮」は宇佐八幡宮ではない。秦氏の新宮は香春社である(709年造営)。その神々は、延喜式によれば、忍骨命、辛国息長大姫大目命、豊姫命である。しかしここには、藤原不比等主導の新羅神祇政策に従う潤色が既に施されていた。新宮への遷座も、中央の指示による大宰府の命によるものであった。こうして新羅の神が日本化する第一歩が形成されたのであった。

 忍骨命(オシホネーノーミコト)とは、偉大なる母神・天照大神の御子神(ミコガミ)である天忍穂根命(アメーノーオシホネーノーミコト)から、「天」の一字を取り去った神名に見える。但しこれには屈折がある。「オシホネ」は、「大ーシホー根」である(接尾の「根」は天皇和名にしばしば登場する美称である)。つまり中核は「シホ」で、これは朝鮮語の原語「ソホ」より転訛されたもので、そしてこの神名は日本の神・天オシホネ命へのこじ付けであったと思われる。ソホとは「ソフル」(聖地の意 大韓民国の首都名もこれ)の「ソフ」と同じで、神の降臨する聖地を意味していた。オシホネ命は、本当は新羅の「御子神」であったのだ。

 次ぐに辛国息長大姫大目命(カラクニーオキナガーオオヒメーオオメーノーミコト)であるが、「辛国」とは新羅統治下に入った「加羅国」に相違ない。「息長大姫」は、息長帯姫(=神功皇后)を痛烈に示唆してあまりある。神功皇后は「古事記」によれば、新羅の「王子」・アメノヒボコの後裔であり、記紀伝承ではアメノヒボコが立ち寄った地には必ずと言ってよいほど息長氏の足跡が残されている。「大目」とは、「秦王国」の六世紀末に実在した巫女のオトメやオフメから採られたもので、結局朝鮮と日本の和合名であったのだろう。

 豊姫尊は記紀神話の豊玉姫に比較されたりするが、この女神こそ秦氏の主神の一つであった。その名は地名「豊」を付けた程度の意味で、要するに母神である。実は秦氏の八幡信仰は母子神信仰そのものであった。そしてその御子神は「太子」と呼ばれ、日本人なら「太子」と聞けば、聖徳太子を思い起こすことだろう。秦氏の渡来は五世紀後半から数度あったとされている。秦氏は新羅系加羅人のことで、六世紀半ばには加羅は新羅に吸収されてしまうのだが、それ以前から加羅には数多くの新羅人たちが多く住んでいた。秦氏もそういう一族であったわけである。従って「辛国」のカラとは、秦氏の故郷である加羅を指していることになる。

 香春社の神官は、赤染氏と鶴賀氏である。どちらも秦氏一族で、後者の「鶴賀」は「敦賀」と同音であり、その「ツルガ」とは書紀にもある「オオカラの王子ツヌガアラシト」の上陸地(福井県敦賀市 ケヒの浦」に因んだものである。その名は「大加羅の王子ツヌガ」であり、「アラシト」とは加羅の一邑・安羅の人の意である(アル=卵)。秦氏の多くの住まいした敦賀には列記とした気比大社があるではないか。そして面白いことに、八幡神とされる応神天皇(ホムタワケ)には、この気比大社のご祭神である(イザサワケ)と名を交換しあったともあり丁寧で、或る意味記紀に載る意味深長な記述が存在している。香春社の主祭神・オシホネ命の「シホ」については既に述べたが、1313年成立の『八幡宮宇佐御託宣集』(以下宇佐託宣集)によれば、「八幡神は天童の御姿で、日本の辛国の城(キ;峰 山)に降臨し、そこには神武天皇再臨の蘇於峯(そぼたけ)である」とある。「辛国の城」とは、秦氏の神山であった豊前・香春岳に他ならない。「ソホ」については前述の通りだが、新羅の始祖カクセは「ソフル」の聖地(ソフル)に、加羅の初代王シュロは「ソフル」にある亀旨(クジ)に降臨したのだ。このことは香春の神が新羅・加羅より渡来したことを述べるために申し上げた。でも折角神武天皇まで登場したので、記紀の降臨神話にも触れよう。こうしてみると、明らかに朝鮮神話の影響を受けた結果のものであろう。書紀は、天オシホネ命の子・ニニギ命が降臨した山を、「日向の襲(ソ)の高千穂の添(ソホリ)山峯」と本文で記し、他の一書として「日向の高千穂の樓触(クシフル)峯」と記している。又、古事記には「日向の高千穂のクジフルタケ」としている。更にもうひと言だけ。朝鮮の降臨神話は王から卵が生まれる(加羅神話の亀旨とは卵生の亀を示唆している)。実はこれは聖山より重要であり、その卵は箱舟に乗って海から漂着したというのが、南朝鮮も含めた「倭族」神話の古形なのである。日本の場合は少なくともニニギ命の場面では聖山への降臨に重点があるのだ。但し、命が包まれていたとされる「真床追衾(マコトオウフスマ)」には、卵たちを暖めた微かな温もりが残っている。

 さて秦氏は香春地域から、南方の宇佐地方へも広がっていた。八幡宮で創始されたという放生会(佛教法会)は、その神仏混交ぶりをよく表しているが、この祭事の巡幸路が、「秦王国」の領域であった。それは香春岳の銅で鋳造された神鏡を、元宮八幡宮から宇佐八幡宮を少々通り越した和間浜まで十五日間掛けて、豊前各地を経巡る神幸であった。まさしく「八幡」が立てられた賑やかな朝鮮風の巡幸であったのだろう。「秦王国」の両端に、二つの八幡宮が置かれた瞬間だった。そして宇佐八幡宮での香春八幡神祭祀は、秦氏の一族である辛島氏に委ねられた。『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』(844年)によると、宇佐八幡神は「宇佐郡辛島宇豆高島」に天下ったとされている。これは香春(カル)との繋がりこそ失われているが、まさしく辛島氏の香春八幡神祭祀を証明していることになる。「辛国」とは、「日本の加羅国=秦王国」であり、「宇豆高島」の宇豆(ウズ)とは、「貴・珍・太」などの美称であり、高島は「辛国の城(キ)」と同じことで、峯や山のことを指しているのだろう。つまり辛島氏によって神山に天下ったことと書かれているのである。辛島氏の神山とは、本来香春岳以外にはあり得ない。でも敢えて辛島氏の神山を探すとなれば「稲積山」であろう。実は「辛島」とは「辛国(宇豆)高島」を縮めた称である。因みに山背の「太秦(ウズマサ)」の「ウズ」とは「宇豆」であり、「まさ」は「勝」であり、「スグリ(朝鮮語で村長をいう)」の意味であるからである。従って太秦とは秦氏一族の勝(スグリ)の統領が住んだという意味を成している。又辛島氏の祭祀した場所は鷹居社や鷹栖山の山号を持つ寺があった。この鷹とは、実のことは香春山の八幡神そのものである。香春社のある香春岳は別名「鷹栖山」であり、田川郡とは「鷹羽郡」を読み替えたものである。平安初期(814年)の「太政官符」に」、六世紀末、八幡神が鷹になり化して人を殺したので、辛島氏の神女(これが先のオトメ)がこれを鎮め、鷹居社として祀ったとある。恐らく、これが香春八幡神の最初の「分社」(宇佐八幡神祭祀の開始)であるだろう。

 五世紀末のことと思われるが、雄略天皇が病に倒れた時、和泉国大鳥(鳳)郡(=現在の大阪府堺市)から、物部氏に従う「豊国の奇巫」が呼ばれている。豊前(秦王国)出身の日本流ではない「巫医」のことである。その凡そ一世紀後の587年、書紀には用命天皇の患いに蘇我馬子が、「豊国法師」を呼んだとある。この間には「佛教公伝」が挟まれているが、医術を含む文化先進の「秦王国」は朝鮮風道教のシャーマニズムの地であり、佛教も公伝以前から信仰されていた独特の習合信仰のメッカであった。そのことは、わざわざ「豊国」の奇巫や法師が内裏に呼ばれているように、小野妹子らが「秦王国」の存在を髄使にもたらせたように、中央政権でも衆知の事実であった。佛教を国家鎮護の要に据えようとする(恐らく神祗神道の革新も目論んでいたかも)馬子は、六世紀末に大神(おおが)比羅という人物を「秦王国」に送る。大物主の大和刻・大神社を「オオミワ」と読むが、大三輪氏(恐らく渡来人)と同根である。大三輪氏の根である大田田根子の出身地・河内国スエ(加羅のスエ式土器に因む名)は、分国後和泉国大鳥郷に属した。663年白村江の戦いがあったが、これには日本軍として宇佐の辛島氏も従軍し参戦した。白村江での敗戦は、日本の「日本化」を一層加速させることになった。多分712年、辛島郡鷹居社の八幡神は、中央に意向を汲んだ大神氏領導のもとに、土豪宇佐氏神域の小山田に移った。同年の古事記、続く720年の日本書紀の撰上は、古代日本の神祗体制の完成を告げるものであったろう。これを受けるように、725年の日本書紀の撰上には、遂に八幡神は小山田から現在の小倉山に遷座したのである。今に続く宇佐八幡宮の誕生である。

 更にまた、国家神への転換は、720年の大隈隼人反乱に際し、大伴旅人率いる征伐軍に、多分大神氏に教駿されて八幡宮禰宜(ネギ)「辛島」ハトメの神軍が参加したことで、はずみがついたことであったろう。737年には、朝廷は伊勢の神宮などと共に八幡宮にも奉幣し新羅の無礼を報告、740年には藤原広嗣乱の平定を祈願し、翌年は乱平定の報賽(ホウサイ)として金字の「最勝王経」などが奉納されている。745年、聖武天皇の病気平癒のご祈願があり、翌年には三位の叙任されている。749年、大仏造立のための黄金出土を託宣し、見事に東大寺鎮守の手向山八幡宮として、堂々と都に入京の運びとなったのである。(続きあり)

広告
カテゴリー: 文化 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中