ラストサムライ・松平容保公

 

 

 京都守護職時代の会津藩九代目藩主の松平容保公の映像

 

 

 

 

 

           ラストサムライ・松平容保公

 

 

  坂本龍馬が誰にどうして暗殺されたのか。私にも大いに興味があるが、時は激しく厳しく日本を取り巻く諸事情下にあったから複雑な背景があったのだろう。尊皇攘夷派を徹底してけし掛けた英国の思惑は特別見過ごすわけにはいかない。横浜で当時発刊されていた英字新聞を注意深く見ると、余りにも正確な分析があり、まるで何もかも見通ししている風である。最も注意深く読むべき記事は、アーネスト・サトウなる英国人が書いた記事で、佐幕派と勤皇派で揺れ動いていた日本各地に暗躍し、長崎の武器商人であるグラバーにはっきりと通じていた。英国公使ハリー・パークスは幕藩にいい顔をして、影では武器商人の本性を明らかに持っていた。時としていい具合に佐幕派と尊皇攘夷派と拮抗切迫していた。英国は、アメリカの原住民へ使った同住民への抗争という排他主義と同じ方法を用い、兵器を売らんがための国内戦争を至上命題としていた。勝海舟などの幕藩に通じていた坂本龍馬は英国にとってはよほど邪魔な存在であったろう。坂本龍馬は尊皇攘夷派佐幕派もきっと非武力という意味では同等であったはず。国内の武力による攘夷や開国を坂本は決して望んでいなかった。そこが龍馬の短命につながったのだろう。はっきり申し上げて、坂本龍馬の暗殺は多分英国が仕組んだことであり、あれもこれも無知蒙昧な輩の徒党、取り分けあの盟友・中岡慎太でさえ、武力優先のサトウのエージェントとなり手先になっていたのは間違いない。たった4秒で坂本を暗殺出来る人は、中岡慎太郎以外は先ずいるまい。そして本当の主犯格は明治政府の中枢にあり、決して龍馬の死の真相を明らかにすることはなかったのである。英国のたった一つの思惑違いは江戸城の無血開城であったに相違ない。

  そんな中にいて、江戸初期の家訓(カキン)を九代目になっても守ろうとした愚直で、遅れて来た人がいた。上杉藩が米沢に去った後、会津を統治した名君・保科正之がそのもとである。江戸初期の三名君として未だに聞こえがめでたい。彼は臨終に際し、家訓を申し付け置いた。所謂会津藩の十五か条の家訓である。これは朱子学に入れ込んだ保科正之の独特の家訓であるが、幕末に家老・西郷頼母などは火中の栗を拾いに行くようなもので、新職代の京都守護職への上京を大反対であったのを、自らの判断でこれを押し切り、それでも苦衷の末、貧乏籤である京都守護職についた松平容保の胸中に、その苦衷の一端が垣間見ることが出来る。家訓第一条に、幕府をよく補佐し、万一それを守らなかった藩主であったなら、その藩主の言うことを聞くべきではないとした厳しい第一点があった。なかなか京都に行かない容保を、福井藩主・松平春嶽などは初代藩主・保科正之を、土津神(会津・はにつ神社のご祭神で保科正之その人)と持ち上げせめたて、その挙句に容保は京都を死地と覚悟し、西郷頼母など反対派を罷免までして行かざるを得なくなっていた。だがよくこの家訓を考察してみると、如何にも古い体質を維持しなければならず、閥を作りやすくし、後に大きな代償を払うことになるのだが、この最期の主君が全くブレることがなく、生涯、この家訓を全うしたものだったと感心する。

  かの公武合体派の孝明天皇は如何に松平容保を心強く思ったことだろう。孝明天皇から直々の御宸翰や御製を複数賜り、容保は生涯誰にもそれを見せることはなかった。竹筒に入れ、風呂に入る時でさえ用心した。戊辰戦争で、城内の井戸は死体で埋められ、トイレが満杯だったために、約一ヵ月の篭城の後降伏を余儀なくされたものだった。そして鶴ヶ城明け渡しの際も、日光東照宮の宮司となった時も、それを決して一度も他人に公開することがなかったのである。板垣退助など総指揮官の官軍に対し、それさえ見せれば賊軍でないばかりか、会津藩は違った方向に行っていたかも。一体全体その愚直さは何であっただろうか、私は本当に容保に同情して余りある。一藩総流刑(下北半島の斗南藩)のようになったばかりか、戦乱の犠牲者は死体の土葬も認められず、お墓の建立も一切赦されなかった。廃藩置県まで学校すら赦されなかったのが悔しい。新政府の「苛め」と言うより他は無く、そして兎に角血祭りに上げるのは幕藩の誰でもよかったのだ。徳川慶喜も、あの松平春嶽でさえサッサと国許に帰り、容保を江戸追放とし、逆に官軍の味方をして、隠居を決め込んだ。血祭りにあげる犠牲者は、武器商人を背景とした武力革命を本分とする官軍に、上野の彰義隊討伐を皮切りに、特に英国からの最新鋭の武器によって、徹底して討伐するしかなかっただ。国外威信の介在という哀れさは不憫というより他は無い。

  但し他国と違い、植民地支配を逃れたのは、一説に孝明天皇を毒殺(諸説あり)し、龍馬暗殺の黒幕とされる岩倉具視ら明治新政府の姑息さが、或る意味で功を奏したのかも知れない。いずれにせよ「富国強兵策」「殖産興業策」に専念せざるを得なくなるのだが、それだけに日本は本当に貧しかったのだろう。明治初期の岩倉使節団がドイツ帝國の宰相・ビスマルクと出逢ったのは、その後の日本の運命を決定づけたのかもと存ずる。その後の日本については後日に委ねるが、いずれにせよ公家でありながら、急進派となった岩倉具視の行動は全く解せないことが多い。いずれか西洋列強のエージェントになったかのようなものである。そんな激動の中にあって、松平容保の為したことは些細な抵抗の記録であったのかも知れないが、あのブレない姿勢だけは、今日の日本にあって余りにも意味深い。愚直さこそ余りにも今日的であるだろう。

  人間にとって最も大切なことは姿でしょう。姿カタチの立派さは、私たち後裔のものは大変に学ぶことが多いはずです。ラストサムライとして容保公を見直したい一存あるのみです。それにしても今尚会津の方々は何とその誇りと潔癖さを持っていることだろう。現在の会津の小中学校には、家訓にも似た「あいづっこ宣言」が未だに生きているのだから凄い。薙刀や弓道や剣道にも、児童たちは今日も励んでいることだろう。心から敬意を表したい。民主党の輿石東議員は山教組から多額の資金を平気で受け取り、教壇に立つ者に中立なんてあるのもかと仰るグウタラ政治屋、どんな教育者にも政治色があって当然と考える当代一の不埒者であり、政治なんか低次元であり、教育の場と次元が違い過ぎるし、絶対に同一にして欲しくは無いのである。

  久し振りに、京都の実家から通い詰めだった伊勢の斎宮跡の調査であったが、我が愛する妻が帰って来た。嬉しいことに、平山由香さんから教えてもらった京都製の裏漉し器をお土産に帰って来てくれた。辻賢一製のステンレス製のものと籐製ものと馬毛製裏漉し器の三種類があったのだが、その三種をすべて一通り買って来てくれた。チビ達への和菓子造りや様々な裏漉しなどにきっと大活躍をすることだろう。次は中川木工房のお櫃(ひつ)が欲しいと言っておいた。檜か椹(さわら)で曲げわっぱの要領で作り、繋ぎ目は竹クギや特製糊で繋ぐお櫃。二代目中川清次さんの作るお櫃は我が憧れの的である。ご飯の大好きな我が家では、お櫃は必須のものである。今宵、妻と久し振りに、須藤酒造製の「花薫光」を飲んでいる。その際、妙に幕末の話になると、我が妻は怪訝そうになる。余りにも時代が新しく、研究者として詰まらないからだという。私は卑弥呼から聖武天皇までの瑞々しい草創期の時代と、日本の精神的ルネッサンス時代にあたる室町時代に最も興味があるんだよと話しが及べば、妻の目はキラキラとしてくる。私が興味を持つ最大のことと、妻の嗜好がどこかでスルリと一致したらしい。私は、結果はどうでも容保のような愚直さを持って生きて行くだろう。若き研究者である妻もひたすら愚鈍なのだろう。そして櫻塾の若き塾生達は今の私を最もワクワクさせてくれる。ヘナチョコではないかと思われた「ゆとり教育世代」の子供たちは抜群の吸収力を発揮してくれて、私の希望を膨らませる一方だ。外人教師たちは話し合いのうちに、英語教育にまだ一切教材や教本などを使用していない。文法の勉強などはどうでもいいことだ。我が愛する杏も大風も皆元気いっぱいで、杏のほうは妻の遅い帰宅にやや不満気味か、どことなく反抗心が芽生え始めつつあるかのよう。イクメンの本領・本分とは子供の面倒だけではなく、妻のフィールドを確保し、妻が自由闊達に生きて欲しいのが最大の目標であり、これも忙しい中存分に楽しんでいるところである。

 

 

 

 一日2700発もの砲撃を受けた 会津・花の鶴ヶ城 再建され 今は櫻の名所

 

  今日のBGMは 多夢さん作曲 『満天の星の下で』

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