景初三年の銅鏡

 

 

 窓辺に置いた芍薬・紫露草・アイリス・二人静など 露草には二種類の色あり

 

 

 

                   景初三年の銅鏡

 

 出雲の国・神原神社の古墳から、景初三年の銘が刻まれた銅鏡が発掘されたのは驚愕に値した。景初三年とは西暦239年のことで、女王・卑弥呼の没する少し前になる。魏王に献呈した御礼に対する銅鏡と言われるが、魏王・明帝(曹操の孫)から下賜された銅鏡(三角縁神獣鏡)の数は100枚と、「魏志倭人伝」に明記されている。ところが国内で発見されたその銅鏡の数は何と500枚にものぼる。但し景初三年と書かれた銅鏡は大阪の和泉黄金塚古墳から発掘された一枚の銅鏡と神原古墳から出土されたこの銅鏡とたった二枚しかない。それでは卑弥呼朝廷の大和存在の論拠ともされるのだろうか。だが京産大教授の森博達教授の研究によると、碑文の文章の中身が怪しく、これは日本で鋳造されたものでがないかと推論されている。私もこの論拠には納得出来ているが、ここで注目すべきことは卑弥呼の時代に既に大陸との往来が盛んであり、人と物の交流も活発で、互いに吸収しあったり、結果ヤマト朝廷は多くを学んでいたであろう。ここからが問題で、約400年後の記紀万葉の世界まで大いなる想像の興味を感じざるを得ない。そこで今夜は古儀の祭りについて若干の推論と考察をしてみたい。

 渡来帰化人の代表格である秦氏によって持ち込まれた新羅神の日本神化は、八幡社や稲荷社の具現化によって大成した。時期は記紀万葉の時代と符号するが、それでもまだまだ遡れる古儀の日本的宗教がなかったわけではない。日本の古代文字の判読は難しいが、アニミズムやシャーマニズムといった如何にも日本的な古儀の信仰にこそ、漢文字が流入した以前からあったと見るべきである。日本という概念は近年益々曖昧さを増しているが、この曖昧さこそ実は日本的なのである。然し古来あった曖昧な日本の宗教は、実は現代にまで深層思想として現前と存在している。アニミズムとは万物万霊観であり、天然自然が存在することへの神秘主義であったろう。そしてシャーマニズムとは、『古事記』、『日本書紀』における神攻皇后や、『魏志倭人伝』における卑弥呼などを想定して戴ければよい。憑依などによって霊魂と繋がりを持ち、ご神託などを得るものである。道教・陰陽道は、そのような霊界を理論づけし実践することによって、科学化しようとしたものである。「仙人」とは、その達人であり、日本的山岳宗教の行者の先達でもあった。

 されば日本の古儀宗教の中心概念を押さえておきたい。あらゆる宗教には「聖と俗」、「生と死」、「邪悪と正義」、「この世とあの世」などなど、多くは二極の対立軸に関わっているが、我が日本における古儀宗教の本義とは「生は常に死に向かっている」と考えられて来た。これが「穢れ=ケガレ)の根源である。「穢れ=ケとも言う」は「気枯れ」に通じ、私たちが持つ生のエネルギーの低下のことである。霜月神楽や花祭りや遠山祭りなどに、暮れの押し迫った頃にある湯立て神事はこの「穢れ」を祓うものであるが、湯立て神事の古儀こそ、そうした日本人が持つ根本的な宗教概念の代表であるだろう。「生と死」をリセットする考え方はこうして割と古くからあったものだろう。暮れに死に、正月には再生されるのだ。何ゆえ穢れるのか、それは日々の暮らしの中で微細な不良の霊魂が付く(憑く)からに相違ない。まるで塵や埃のようなものであり、文字通り汚れのアナロジーである。ではどうすればそれが落ちるのか、身体を洗うとか、瀧に打たれるとか、部屋を掃除するとか、祓い清めればいいのである。それでも尚、究極の穢れ=死がやって来る。更に定期的に自らの霊魂が再生させることが必要である。霊威の強いカミ(神)は邪霊から守護してくれ、かつあの世から新鮮な霊力(ケ)をもたらせてくれる。こうした神々をもてなし、新たな霊力(=ケ)を食べ物(=ケ)として授けて貰う場が「祭り」なのである。まさしくこれは「死からの再生」の儀式なのであろう。日本には古来数多くのそういう機会が埋め込まれていた。大晦日は死の日であり、パワフルなお正月さまをお迎えして、元旦は力強く再生するのである。

 西暦538年の佛教伝来は公伝であり、言うまでもなく「私伝」ではこれを遥か以前に遡る。新羅の神はこうした私伝での伝播をもたらせていたが、後に「修験=しゅげん」と呼ばれることになる日本的宗教者はいち早く佛教と言う当時最新式のテクノロジーとして佛教を受容していた。宇佐八幡には「六郷満山=ろくごうまんざん」と呼ばれる古くからの寺院が夥しくあるが、神仏混交の極みであり、峯入り(みねいり)などの過酷な修行をしていた。「六郷満山」の各御寺を回遊する修行のことだが、峻厳な岩山や危険な山道を巡り、そして最も疲れた部分で、早く走る「早駆け=はやがけ」が修される。比叡山・無動寺を拠点とした「千日回峯行」や、熊野三山詣や、中でもその頂点である大峯山での最もきつい修行・「奥駆け」にも相通じることである。比叡山の死をも覚悟した回峯は別途として、彼らは総体的に佛教者として見られがちだが、古儀日本宗教の「神官」、もしくは「行者」と捉えた方がよさそうである。彼らにとっては飽くまでも日本的な霊的課題があったからだ。「佛教」はその解決のための手っ取り早く有効なテクノロジーとして受容されたのであった。

 佛教とは、一元的なあの世を、地獄と極楽に引き裂いた。そしてケガレは「罪」となった。これが奈良時代までの日本的な喫緊の課題であったのである。ケガレ、即ち「罪」を背負ったままでは「地獄」に落ちることになり、それを免れるためには「罪滅ぼし=減罪」がどうしても必要となった。然しこれでは古儀の祓い清める行為の古代的形態に過ぎず、実際はそうなのであるが、実はこれは修二会(しゅにえ)のことで、東大寺にだけ行われているものではなく、当然六郷満山寺院にも修二会にもある。「悔過=ケカ」と言われる佛への懺悔のカタチがその本来であった。お水取りもそう言えば佛教行事と言う形態より、極めて行者感覚の祭りに他ならない。

 人間の存在は不思議なものである。自己救済は利他主義でなければならない。つまりは究極は他者救済でなければならなかった。そこに行き着いた時、「聖=ひじり」となり、「菩薩=ぼさつ」となるのである。日本的には「優婆塞=うばそく」となるのであった。聖も優婆塞も、公的な戒律を受けておらず、所謂民間僧のままでいいというものであった。彼らは自らのためにこそ、他者の救済、つまりその者たちのために、「佛」として姿を現せた神に「罪=穢れ」を懺悔する。現在まで続く山伏修験で発せられる「懺悔懺悔 六根清浄=ざんげざんげろっこんしょうじょう」の音声にはそういう祈りが込められている。 「役の行者=えんのぎょうじゃ ~役小角」に始まるとされる修験道は、大成者はそうだとしても、実際は古くからあったと考えているが、山中で「死と再生」の修行を行うものであった。同時に罪滅ぼしの難行・苦行を自らに課するのである。海岸線沿いの街道・辺地(へじ)を巡り、熊野詣をした巡礼も又減罪のためにあった難行・苦行の道であったろう。熊野巡りの究極である大峯山の、決死の奥駆けの先には吉野山があり、水分(みくまり)神社付近にある花矢倉から見える蔵王堂が終着点であり、里人は無論のこと、奥駆けをしたことにもなると言われた貴族たちも挙って山櫻の根こじを植えていった山櫻の本家である。修験者には、死の門を潜った後に来る、まさに櫻の神と極楽を見た思いがしたことであったろう。

 

 

 六郷満山(大本締めは宇佐八幡宮) 峯入り修行

 

 

 

 六郷満山 天念寺の修正鬼会 (修二会の一種)

 

 

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