初夜(そや)の鐘

 

 

 ヘラオオバコの花の 清々しさ

 

 

        初夜(そや)の鐘

 

  父がエヴェレスト近郊の山々に、仲間たちとトレッキングに出掛けてから、早半月になる。今宵は満月のはずだが、肌寒い曇天につき観ることが出来ないだろう。こんなちょっとしたこの時期の寒さを「リラ冷え」と言うそうで、真っ赤な花びらをした北海道の櫻は後は根室地方の千島櫻だけになってしまうのだが、今頃はライラックの花が札幌大通り公園に見事に咲いていることだろう。ライラックが、その「リラ」と呼ばれているのは渡辺淳一の小説のせいだ。寒い場所で今時分咲く花ではハニーサックルの純白の花など、私は大好きだ。第二作「アンの青春」ではミス・ラベンダーがハニーサックルの花のもとで結婚式あげたが、アンの心模様がきっぱりと書かれてある。ギルバート・ブライスとアンの結婚は第三作になるが、第一作の後半でマシューが死に、二作目ではマリラが双子の兄弟を養育するはめとなり、思いのほかこの第二作もわくわくするものである。マシューに逝かれ孤独なアンにとって、ミス・ラベンダーの結婚という事件(?)はどんなに嬉しかったのだろう。想像するとアンの思いが溢れそうである。そしてアンがいたアボンリーの村も、ターシャのいたあの花園も溢れるばかりの花盛りになるに違いない。どことなく人恋しいのは父の不在のせいだろうか。アンの心情のせいだろうか。今は必死になって、最澄と空海のことを書いているが、何処となく人恋しさが募ったのは、急遽子規と漱石の友情物語を書いてみたくなったせいに相違ない。

   正岡子規は本名を常規(つねのり)と言い、幼名は処之助(ところのすけ)、通称で升(のぼる)、号を獺祭書(だっさいしょ)屋主人、或いはは竹の里人とも呼び、色々な呼び名を考案して実際に使っていたが、子規という俳号は、もともと漱石、つまり当時の夏目金之助が命名者となったものと断言出来る。子規の別称はほととぎす。彼の俳句の特徴である写生俳句は、後に、雑誌「ホトトギス」に代表されるようにホトトギス派の原型となったのだが、何故ホトトギスか、ホトトギスを俳人の名前とした理由は、この鳥がくちばしを開けると口の中が真っ赤にみえるとされる。すなわち、当時、不治の病とされた結核が進行すると血を吐いて口の周りが鮮血に染まる模様が酷く似ているところから、そう命名されたものであった。大の仲良しで幼馴染である秋山兄弟の後を追うように、大陸に渡って戦線リポートを書こうとした子規は、実際の戦場を見ることが全くなく、喀血などをし散々な思いをして帰国していた。向かった先は故郷の松山。子規には結核に罹ったことが判明し、精神的にも肉体的に極端に追い詰められ、結果酷く落ち込み、郷里松山に頼るしかなかったのだが、子規が金之助あてに書いた手紙が残されている、その時の心境の俳句が次のものだ。

 「卯の花の 散るまで鳴くか 子規(ほととぎす)」 正岡子規より

 正岡はやや自嘲気味にホトトギスと自分を揶揄し表現しているが、夏目金之助はその返信に、たぶん彼の初俳句を次のように載せた。

 「帰ろふと 泣かずに笑へ 時(ほと)鳥(とぎす)」 夏目金之助より

 故郷に泣いて帰るのではなく、その病気を笑い飛ばして帰らずに頑張れと歌ったものであったが、間違いなく子規への激励の返信に違いであった。それでも当時松山中学の英語教師をしていた夏目金之助を頼り帰省し、金之助の愚陀佛庵に居候することになる。金之助は病状がよくなるようにと、ウナギの蒲焼やスッポンを丸のまま購入し食べさせ、何くれとなくサポートしていた。子規のほうはいい気なもので、愚陀佛庵の一階でしばしば旧友を集め、高歌放吟をし句会を重ねていたのだが、金之助の懸命の介護の甲斐があって、見る見るうちに病状がよくなって来て、その後俳号を「子規」とし、但し音読みの「ほととぎす」でなく、文字通り「しき」と名乗り、遂に正岡子規は東京に帰って、再び頑張ることとなる。子規の命名者は漱石に間違いない。金之助は無口なタイプで、鬱々としたものを常に湛えていた都会人だったが、明るく放埓で、仲間をだれかれなく引き入れていた子規に、多大なる信頼を寄せていただろう。東京に行く費用も、途中奈良へ旅する費用もすべて金之助が持った。

 正岡子規は生涯に約2万句の俳句を発表しているが、そのうち、最も有名な句が次の一句ではないか。

 「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」 子規

 実はこの俳句の創作の裏には、夏目金之助の友情が強くからんでいる。正岡は東大を22歳で中退し新聞社の文芸記者として活躍していた。しかし、27歳のころ、体調がすぐれず休職を余儀なくされた。その頃、正岡の郷里である松山そのものにいた夏目金之助の存在がどれほど特効薬となったことであろう。正岡は体調がよくなると、夏目が出した旅費で東京に戻るのだが、その途中、奈良に立ち寄るよう進言したのも金之助、夏目漱石その人であった。そうして奈良での経験が、あの句に代表されるように二人の関係のように赤い糸で決定的に繋がってしまうのである。愚陀佛庵に同居していた時、正岡は夏目に俳句を渾身から教えたと思われ、夏目の俳句は、地元の「海洋新聞」に時々掲載され、そして有名なあの次の句を投稿していた。

 「鐘つけば 銀杏(いちょう)散るなり 建長寺」 金之助

 奈良に旅し、奈良最後の夜のこと、子規は東大寺に隣接する宿屋に泊る。女中に御所柿を剥いてもらいおいしく食べていると、今もある定刻の午後8時に鳴る「初夜(そや)の鐘」を聞いている。翌日、雨のそぼ降る法隆寺を訪ね、そのまま東京に戻っているが、あの句はその時に作句されたもとでは絶対にない。その後松山から帰京し、1ヵ月半後に海洋新聞に投稿したのは、あの有名な句なのであった。夏目の句と正岡の句は似て非なるものではないのか。正岡の句は正確には法隆寺での印象ではなく、東大寺での作句なのではないか。様々な憶測はあるが、それは良いとしても、金之助の句の盗作にあたるのかどうか。私見では友人夏目に、元気回復の御礼を込めた返句ではなかったかと強く考えられる。そのため、正岡は東京の新聞に投稿するのでなく、わざわざ夏目金之助が投稿した松山の同じ新聞に投稿したのであったからだ。正岡はその後、新聞社の文芸(俳句批評など)仕事を続けるものの、東京・根岸に今も残る「子規庵」で病臥することになる。病床の間であっても多くの俳人たちが集い、いつものように大騒ぎをする庵であったが、正岡子規は、その後公費でロンドンに留学する夏目金之助をどんなに羨ましかったことだろう。金之助からの絵入り手紙をよほど心待ちにしていたようだ。英文で書かれた秋山真之の海外からの便りも、どんなに楽しみにしていたことだったろう。寝床にいても、自分が海外に居るように愉快な気分になれると言ったらしいもの。夏目は英国で極端に鬱状態に陥るのだが、病床六尺の正岡子規からしてみると、愉快な海外生活だろうなぁと夢想していたに違いない。おまけに脊椎カリエスも発病し益々苛烈さを増す病床の正岡子規と、英国から帰国後、殆ど直ぐに作家生活に入った夏目漱石との心の友情は、このように深く濃く厚いものであったろうと思われてならない。

 

 

 コバンソウの咲ける一隅の光

 

 早くから働いて来た私は、同級生や嘗ての友人との連絡を殆ど取らないように出来ているが、最近それではいかんと思うようになって来た。某新聞社で記事を書いて働いている者や、父の跡を追うように官僚になった者もいる。同業の設計屋もいる。そして何と居酒屋チェーン店を展開しているものもいる。イタリアに渡ったきり連絡が取れない者もいる。出版社で頑張っているのもいる。政治家になった者もいないわけではない。東京にいた幼少期を過ごした人間は地方におられる方々より遥かに希薄なものであり、私は建築屋として今日までやって来たのだが、亡きあの御方をおいて格別に親しくした人はいなかった。本当に悔いている。でもまだ四十半ばの盛りであり、あらゆる方面に対し、朗らかな胸襟を開いて行こうと思う。

 

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