農業と花暦

 

 

 八甲田への道 春浅き皐月晴れ

 

 

 

           農業と花暦

 

 

 古来より、草木の営みは農業と密接な関わりを持っていた。「倭人は正歳四時を知らず、ただ春耕秋収を記して年記となす」とあったのは三世紀前半頃の我が国の自然暦のことを記した「魏志倭人伝」での一節であった。天文暦は中国伝来のもので、日本人が独力で天文暦を作ったのは江戸時代に入ってからであった。天文学者・渋川春海などによるもので、そのことを、今年の本屋大賞になった「天地明察」 (冲方丁 著)で大変感動的に描かれてあったが、それまでの日本古来の暦は「ただひろく大らかな、天地のおのずからの暦」と本居宣長が言ったような自然暦であった。曇雨天の多い日本では、乾湿地帯にあるような長安やナイル河畔に比べると、天測がしにくかったのも一因かもしれないが、自然の材料が豊富だったため、自然を目印にして季節の移り変わりを知ることが出来た。山に残る雪量や雪型を観て、親しまれる身近な表現を用いて尊んだり、或いは櫻の咲き具合を観て農耕作の時期を適切に判断出来たのである。

 九州・熊本では、「柿の葉が出て、大豆の粒が三つ包まれるようになると、大豆を蒔く」という。所によってはこれらの自然観は異なり、鹿児島では「若葉に大豆粒にいっぱいになる頃」だとされ、福岡では「大豆一つを包み込むくらい」となる。更に福岡では「合歓の木が咲くと大豆を蒔く」とも言われた。合歓の木は一番花を一番草と言い、二番花を二番草と言い、三番花を三番草といって、田の草取りの目安とされた。

 佐渡では「辛夷(こぶし)の花が咲くと畑に豆を蒔く」と言われる。辛夷は東北ではタウチザクラ、タネマキザクラとも言われ、花が咲くと田打ちを始め、稲作の準備に入ったとされている。島根県になると、辛夷が咲くと籾蒔き(もみまき)を始め、散ると田植えが始まるとされている。でも最もポピュラーで優れたものは櫻暦で、全国通津浦々にあり、その場所特有にいっぺんに咲いて、揃って散ることから、はっきりとした目安となったのである。更にその短い花の命を一部咲きから満開、花吹雪まで細かく刻んでいる。今では花見の目安となってしまったが、確かな、そして美しい暦の一つだったのである。漸く平場での櫻前線は根室の千島櫻満開で終わりのようである。後は峯櫻とか、高嶺櫻と言って、櫻は山間部など高地へと向かうことになるだろう。

 

 

 八甲田への道 春遅く新芽芽吹いて

 

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