「私たちはどこから来たのか~日本列島人の起源に迫る~」 NHK/BSハイビジョン放送より

 

 

 赤爪草 露草 澤潟草 庭や池に咲いた野の花を活けた 直ぐ枯れそうになるから 氷水の中に入れると好い

 

 

 

            「私たちはどこから来たのか~日本列島人の起源に迫る」

            NHK/BSハイビジョン放送より

 

 先日、私にしてみたら、結構衝撃的な放送があった。「私たちはどこから来たのか~日本列島人の起源に迫る」という表題のついた番組である。実はこの放送は来週15日、博多祇園山笠の、早朝からある実況中継放送の後、午前10時から90分間に渡って再放送されるので、機会があったら是非ご覧戴きたい。尚BSが観られない方々のために、敢えて今回放送された内容の詳細をここに書こうと思う。場面は東京科学博物館、日本人の起源に関する展示コーナーから中継。このコーナーは形態人類学者の馬場悠男さんが企画され監修もなされていらっしゃる。古代の人骨や石器などを出来るだけ多く蒐集展示したが、それだけでは分かりづらいので、昔の人はどんな生活をしていたか、どんな姿カタチをしていたかを復元再現されているようだ。

 日本は南北に長く、全長3000キロ、1億2千万人を超える人々が住んでいるが、どこからこの日本に辿り着き、定着したかを探るのに、最も古い人骨は4万年前、旧石器時代に遡る。その後多くの遺跡から発掘された所謂「縄文人」と言われる人たち。その後2900年前から、大陸から圧倒的多数でやって来た渡来帰化人の人たち。今まで、それら縄文人と混血を繰り返して、日本人の原型が成立したと言うのが一般的な定説であった。この通説の大前提は、縄文人たちは特定の地域からやって来た均一な集団であることだった。しかしここ10年間にその前提が大きく変化しようとしている。考古学の一分野でもある形態人類学の他に、医学的分野のDNA研究を中心とした分子人類学という新しい分野が、均一な縄文人の説を全く覆してしまったようである。それによると、縄文人の起源には様々な人種がいることが分かって来たようだ。ミトコンドリアDNAと言うのは細胞を作る際に重大な役割を果たすが、人種によって永久に変わらず子孫に受け継がれて行くものだと言う。因みに、東京科学博物館には7000体の発掘された各時代の人骨があるが、縄文人のDNAを詳細に調べて見ると、多様な人種であることが証明されている。A、B、D4b、D10、F、G1b、M7a、M7b、M7c、M8、M10、N9b、と多様で決して一応ではなかった。その上、縄文人の祖先ではないかと言われて来たのが、沖縄県八重瀬町港川で発見された旧石器時代の「港川人」。然し最新の研究では、この「港川人」は九州以北の縄文人との関係性が薄いのではないかと言われています。又シベリアからマンモスを追ってやって来た集団(マンモスハンター)は、北海道や東北の縄文人になったと考えられています。更に弥生時代より遥か前に朝鮮半島の人々が、独特な石器を携えて、九州に移り住んだことも分かって来ました。こうして少なくとも三つのルートからやって来た縄文人。そして現代日本人に決定的遺伝情報を伝えた渡来系弥生人。私たちはどこから来たのか、最新の研究を探った。

 

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サハラ砂漠にある洞窟で発見されたスイマーと呼ばれる絵 映画「イングリッシュペイシェント」の重要な舞台ともなった

日比野克彦氏も訪れた 人類が誕生しアフリカからエジプト方面に移動する最中 この砂漠は緑と水が溢れる大地であったのだろうか 

どう考えても 摩訶不思議な光景であり 圧倒される 映画ではこの洞窟で愛する人が衰弱して亡くなってしまった

 

 私たちホモサピエンスは凡そ20万年前アフリカ中部で生まれた。その後6万年前ぐらいにアフリカを出て、東南アジアにやって来た。そして北上し日本列島にやって来たのは4万年前。その証拠は小金井市にある「中山谷遺跡」から出土した石器。それほど加工されていない(3万5千年前)。4万年~3万5千年ぐらい前の石器が全国から多く出土しているので、4万年前の旧石器時代から始まることが理解される。その後約1万5千年前までを縄文時代と呼び、それから徐々に交差するようにして弥生時代が始まり、約2千9百年前から約1千7百5十年前までを古墳時代・奈良時代と呼び、それから現代へと続いて来る。この10年、縄文人に対する通説が大きく変わった背景には国立科学博物館新宿分室の存在が大きいようです。ここで7000体もの古代人骨を丹念に調べるのは分子人類医学という新しい分野での研究。代表研究者は篠田謙一主幹。ミトコンドリアDNAとは人の細胞の中にあり、細胞を作り出す必須にもの。このミトコンドリアDNAは一般の細胞が持つDNAとは全く違い、独自のDNAを持っているとされている。何とこのミトコンドリアDNAは人間の起源を探る上で、最も重要な点であることだ。何故なら一人が一つのミトコンドリアDNAを持ち、そのタイプは一部例外を除いて、母と子で一致するらしい。私たちはホモサピエンスのミトコンドリアDNAの系統に入っているからだ。人間は20年万年前、世界へと拡散していった。ヨーロッパ集団、アフリカ集団、アジア集団と形成していったと言う。更に篠田主幹は、私たち日本人1000人から髪の毛や唾液などから、ミトコンドリアDNAを採取。何と現代日本人のミトコンドリアDNAのタイプは凡そ20種類が検出されたという。A4、A5、B4、B5、C、D4a、D4b、その他のD4、D5、F、G、M7a、M7b、M7c、M8a、M9、N9a、N9b、Y、Z、というように。そしてその分布は地方によって偏りがあるらしく、例えばN9bを持つ人は北海道に多く、M7bを持つ人は沖縄に多いらしいのです。地域・地域を見るとどうやら独特な文化がありそうだということが分かってきたと言う。日本人とは何か、大きな一つの集団に括り付ける必要がないのではないだろうかとも。それぞれのDNAは何時日本にやって来たのか、数度に分けて波状のようにやって来たのか、それぞれのDNAを縦の歴史的に整備して見ると、日本人の起源が分かって来るようである。今後更なる研究が展開して行くのだろう。

 篠田主幹は、これまで均一とされて来た縄文人のミトコンドリアDNAを分析し調べています。凡そ120体の縄文人の検体から採取することに成功。その結果縄文人のミトコンドリアDNAは、A、B、D4b、D10、F、G16、M7a、M7b、M7c、M8、M10、N9bと12種類に分類することが出来て、ミトコンドリアDNAで見る限り、均一な集団ではなかったことが立証された。その12種のうち、北海道のN9bと沖縄のM7a以外はアジア各地に散らばって存在していると言う。而してこれらの人々は、縄文時代に何処でどのような生活をしていたかは分かっていないようだが、たくさんの変異もあり多様な場所からやって来たのだろうと。篠田先生はどうやら日本各地にだけではなく、海外へも積極的に探査する旅をしておられるようだ。縄文人と同時代の人骨を探すが、なかなか同時代の人骨はないようです。従ってミトコンドリアDNAの科学的分布は特定しづらいようである。

 今から40年前、日本で最古の顔が分かる人骨が沖縄県八重瀬町港川で大発見された。これが「港川人」と呼ばれるもので、全部で4体みつかった。中でも港川一号は殆ど原型を留めており、日本人の起源を探る上で大変重要な発見であったろう。港川フィッシャー遺跡と言われる場所に、琉球大学文化財保護委員会や東京大學による大規模な発掘調査が行われた。今は緑濃く茂っているが、嘗ては石灰岩の採掘場であったらしい。その幅僅か80センチの割れ目に、古代からの堆積物があり、それを調査したところ、港川人の発見に及んだと言う。同じ頃の動物の遺骸などから、約1万8千年前の旧石器時代の人骨と分かり、貴重な発見となった。これが現在見つかっている日本最古の人骨である。この港川人は長らく縄文人の祖先と考えられて来たのだが、ミトコンドリアDNA研究の発達も相俟って、遂最近、東京国立科学博物館の海部陽介氏の許で改めて「港川人」を形態人類学の観点から、2009年に研究し直された。更に東京大學最新研究センターの諏訪元教授(東京大學総合研究所博物館 形態人類学)ではマイクロCTスキャンを使って骨や内部構造の研究を行い、港川人の顎の部分が接着剤で膨らんでいたために、コンピューターを駆使し、接着部分をはがし、その後三次元プリンターを使用、改めて港川人の原型の模型を作った。河野礼子さん(東京国立科学博物館 形態人類学)なども、本物に近いモノをこうして見ると、可視化と可触化が学問には必要と、その模型を絶賛した。下顎の再生によって分かったことは、「おとがい」が明らかに違い、下顎枝と呼ばれる部分に相当な開きがあることが分かり、港川人は縄文人の祖先にはなり得ないと断定された。

 

 

 

 約1万8千年前の、旧石器時代の頭骸骨 右端が港川人で 全体的に弥生人より面長ではない

 

 それでは港川人は何処からやって来たのだろうか。これはベトナムのハノイから南西に50キロ行ったホアビン省カオザム村で最近(2004年)発見されたばかりのハンチュウ洞窟から発掘された、約1万年前の人骨と酷似していた。日本から発掘チームに合流したのは札幌医科大學の松村博文(形態人類学)准教授など。ハンチュウ洞窟は幅11m、高さ5m、奥行18mの広さで、予め四箇所に定め発掘されたようである。深さたった80センチの所に人骨があって、ハンチュウ人と名付けられた。1万年前の人骨は女性のもので、港川人と同様に、眼窩が四角く角ばっている。梨状孔と呼ばれる鼻の空間が広いことで共通していて、頭が前後に長く、眉間は盛り上がり、ホリの深いこと、上下に短い下顎枝もそっくりで、これらすべての点で港川人とそっくりであった。両者は何故似ているのか。それは5万年前、西からアジアに辿り着いた人間と関係があった。当時地球は氷河期の後半であったために、海上水面が凡そ70m低く、東南アジア一帯はスンダランドと称する大陸であり、広大な陸地になっていた。アジア最初の人類はこの地に展開し、その後メラネシアやオーストラリアに渡ったようである。又は北を目指し、東アジアに広がったと考えられている。然しスンダランドの人たちの顔ははっきりしていない。但しハンチュウ人と港川人は同じ故郷を持っていたのではないかという仮説が成立している。東京国立科学博物館の海部氏は港川人と世界各国にある人骨の下顎だけ比較検討したところ、現在東南アジアに暮らしている人々とは殆ど似ていないそうである。但し現在オーストラリアの原住民であるアボリジニーやニューギニア原住民と酷似し、何らかの関係性を考える必要がありそうである。スンダランド人であった可能性を否定出来ない。

 

 

 

 ホモサピエンス移動の想像図 日本列島には三箇所の移動ルートが画かれてある

 

 さて沖縄に渡ったスンダランド人はその後どのような運命を辿ったのだろうか。沖縄県南城市にテーマパークがある。港川人が見付かった場所から、たった2キロの距離で、この敷地内にある武芸洞と呼ばれている洞窟がある。そこからほぼ完全なカタチで縄文時代の人骨が発見された。港川人のその後を考える上で、大きな手掛かりとなるものであった。武芸洞に住んでいた人たちは入り口付近に穴を掘り、石を組み、お墓として長い間使われていたようだった。発掘はこの穴を中心に進められ、2008年に、この穴から人骨(2500年前)が発見され、同時に武芸洞人と名付けられた。沖縄で、これほど完全なカタチで、当時の人骨が発見されたのは驚嘆に値し、沖縄県立博物館・美術館では現在懸命にこの骨の分析が行われているそうである。その途中経過として報告されたのは、沖縄以北に住んでいる縄文人とは異なることが判明しているようだ。武芸洞人の身長は150センチだが、縄文人の平均身長は160センチほどで、上半身は港川人と同じく華奢であり、縄文人の骨はがっちりとして太い。又鼻の上端から顎までが短く、「低顔(ていがん)」と呼ばれているようだ。九州以北の縄文人も短いのだが、武芸洞人や港川人のは更に短いようである。小柄で華奢で低顔の武芸洞人は、港川人にほぼ見受けられ、発掘チームは港川人が沖縄で独自の発展をした可能性を見てとっている。沖縄県立博物館勤務で形態人類学者の藤田祐樹さんは、「沖縄の縄文人というのは、本土とは違って、文化的にも身体的にも特徴的にも独特であると最近分かって来た」と証言している。日本人の祖先としての港川人ではないが、沖縄の祖先としての港川人であっただろうと。武芸洞では更に古い人骨が見付かる可能性があり、今後更なる発掘が期待されている。スンダランドから港川人がやって来た。スンダランドでは南端からワジャク人の発見もあったが、スンダランド人はアフリカから初期に渡って来て、オーストラリア先住民アボリジニーと同じで、一つの人種の文化圏があったものと想像される。具体的にどんな繋がりがあったのか、今後の研究に期待しよう。

 

 

 港川人ではない沖縄以北の縄文人の復元

 

 

  港川人は本州の縄文人と極めて薄くなったが、港川人はその後南西諸島の島々の人たちに受け継がれて行ったようである。それでは九州以北の縄文人は何処から来たのだろうか。北からやって来た可能性がある。北海道遠軽町白滝では今も古代遺跡が発掘されているが、中でも最も特徴的なことは、ここ白滝は黒曜石(火山の溶岩がそのまま固まって黒い石となった)が圧倒的に採れ、簡単に鋭利な刃先を作ることが出来た。押圧剥離(おうあつはくり)と言う方法で作り、木の槍先に、何箇所かねじ込むと、より一層強い刃先になる。この白滝は旧石器時代の産物だが、そもそも細石刃(さいせきじん)の文化は遠いシベリアにあったらしい。2万4千年前にその文化は出来ていたらしいが、北海道の細石刃の最古のものは千歳市発掘の細石刃で、約2万年前のものと断定されている。細石刃とは、動物の骨などに細石刃を詰め込んで、大きな動物の狩に使われたものであり、最も寒い氷河期には現在の海水より120m低く、北海道は樺太やシベリアなどと地続きになっていた。マンモスがいた時代で、餌を求めて南下したマンモスを追って、人々(マンモスハンター)は北海道にやって来た。その証拠に北海道各地ではマンモスの化石が多く見付かっており、北海道夕張郡で発見されたマンモスの臼歯の化石は最もよくマンモスがハンターとともにやって来た何よりの証拠となるでしょう。更に凄い手掛かりは、細石刃の基となる細石刃核の発見だった。約2万2千年前、シベリアで見付かった細石刃核は、2万年前とされる千歳市の細石刃核と殆ど同じだったことだ。そして新たな発見を進めて行くために、北海道教育大学旭川校では電子プローブ分析装置を使って、細石刃の産地まで特定出来るようだ。この装置はミクロンまで極端に細かい単位まで調べられると言うから驚きである。サハリン出土の細石刃や細石刃核など8個とも、北海道遠軽町白滝産であることが立証されている。ソコル遺跡には3個、オコンギ遺跡には5個と、つまりこのことは北海道と大陸、強いて言えば樺太と密な行き来があったということになる。その後5000年の月日を掛けて、白滝産の細石刃は日本全国に広まっていった。北からやって来た人たちもいた。DNA鑑定をし、北海道の遺跡から主に4種類のDNAがあると篠田先生は言う。N9b,D10、G1b、M7aと。この4つの中で、ミトコンドリアDNAとしてD10,N9b,G1bは現在でも大陸で暮らしている人たちのものであると突き止めたもので、沿海州の人々や、カムチャッカ半島の先住民と酷似していることまで分かった。だが北海道の縄文人はそのまま日本列島に拡大していったのか。否、それは細石刃の文化だけで、N9bが多く北海道と東北一帯に留まっているようである。何故なら関東以西の縄文人のDNAはD、G、或いはBが多いからだと言う。北海道・東北のミトコンドリアDNAにはN9bを見る限り60%もいて、関東以西ではたった10%にも満たないからだ。

 それでは関東以西の縄文人は何処から来たのだろうか。残念かなそこには古い人骨の発見が著しく少ないようである。僅かに細石刃文化期の人骨化石は静岡県の浜名湖遺跡に残っているようである。それは約1万7千年前のもので、従って詳細は未だに分かっていない。但し細石刃以外に分かるものは、剥片尖頭器(はくへんせんとうき)であるのだが、その分布は九州だけで見付かった槍先であった。熊本阿蘇山の地層から主に発掘された剥片尖頭器のみであった。剥片尖頭器は九州に限られ、四国・関西からは国府型、名古屋から関東まではナイフ型・茂呂型・切妻型が殆どで、佐渡や東北では杉久保型が多く、北海道は槍先尖頭器が多い。本州一帯はまだまだ今後の発掘調査と研究の余地がありそうである。阿蘇の剥片尖頭器の時代は約2万5千年前のもので、2万9千年前に大規模な噴火があって、夥しい火山灰が体積したようである。従って剥片尖頭器はこの大噴火の後からやって来た人たちが使ったものであろうと推測される。噴火の後、朝鮮半島から多く渡来したようだ。朝鮮半島で見付かった石器は殆どこの剥片尖頭器であったからである。特に最近韓国の龍湖洞で出土した剥片尖頭器は4万年前のものと断定されている。九州一帯にはこれら韓国から移住して来た人たちがいたのだろう。2万7千年前、海水は110mも低く、朝鮮半島は大陸と一続きになっていた。その時朝鮮半島と日本は海域がずっと狭かったから渡りやすかったのではあるまいか。その後6000年前ぐらいになると、現在の海水面と同様になって来るのだが、北九州と韓国の深い繋がりを示唆する発見があった。韓国の南の島・慶尚南道(キョンサンナムド)の煙台島(ヨンテド)で、1988年この島の貝塚から約6000年前の人骨が15体も見付かっている。それらは国立晋州博物館に保存研究されているが、発掘調査に立ち会った鹿児島女子短大の竹中正巳教授(形態人類学)は、その当時韓国に招かれ調査に参加したのだが、そのうちから2体だけを復元し、煙台島人(ヨンドジン)と命名され、九州北部にある縄文人の特徴をそっくり持っていたようである。どちらにも耳の下に瘤のような突起物があり、外耳道骨腫(がいじどうくつしゅ)は冷たい海で潜水すると、そのような突起物が出て来るようである。遺伝的ではないが、海の民びとは、海峡を挟んで同じ文化を持っていた可能性がある。更に韓国・全羅南道(チョルラナムド)の安島(アンド)から、6000年前の人骨5体が発掘された。所謂安島人(アンドジン)であるが、腕を組んだままの男女の人骨には韓国中が沸き上がったようである。安島人にも骨の瘤が見付かっている。そして重要なのは黒曜石も見付かって、この産地は佐賀県の腰岳であることが断定された。海を通した交流があり、北九州地方の縄文人の人骨と酷似していた。

 

 

 

 渡来系弥生人 想像図

 

 

  朝鮮半島ルートの約2万7千年前、2万年前以降北方ルートの北の縄文人、スンダランドから1万8千年前にやって来たルート。ところが弥生時代の人骨は縄文人とは全く異なっていた。顔が短めの縄文人に対し、弥生人は面長で大きな眼窩をしていて歯型も大きいものであった。弥生人は何処から来たのだろう。それは明らかに稲作文化を携えて来た渡来系帰化人であったに違いない。弥生時代の遺跡、福岡市にある金隈遺跡から、1967年に発掘された巨大な共同墓地から 何と135体もの人骨があり、甕に入っていたために保存状況もよく、2300年前のものと言われている。これまで居た九州北部の縄文人とは明らかに違い、歯が大きいのが明らかに目立つ。恐らくは稲作文化であるからか、中国でも南の雲南省辺りから渡来したのだろうか。驚くことに、この渡来系帰化人は弥生人の8割にもなると言う。人口増加率から算定すれば、縄文人の増加率を0,1%以下にするとしよう。そして弥生人、つまり渡来系帰化人たちの人口増加率を0,5%~2,9%に設定してみると、何と300年を経れば、人口の8割を占めることになると言う。中橋孝博教授(九州大学大学院 形態人類学)は、「高い人口増加率が決定的に多くなり、渡来系帰化人の弥生人たちは今日の日本人の素型となったのではなかろうか」と結論づけている。現代日本人のDNAと古代の人骨のDNAを研究する分子人類学者の篠田謙一主幹の分析を進める過程ながら、現代日本人の約4割強がD4(35%=渡来系帰化人)で、N9a,Z,Cも渡来系に入るので、そうした結果になると証言する。因みに縄文人のタイプであるM7a,N9bの二つのタイプは僅かに10%に満たないらしい。

 これがこの放送の全貌である。縄文人は多様にいたこと、渡来系帰化人が如何に多く、その後の日本に大きな貢献をしたかなど、非常に興味深いものであった。ただDAN研究による日本人の原点に迫る研究は100%終了しているわけではなく、何処から来たのか、そもそも日本にいたであろう日本型先住民の存在や如何になどと興味津々なのであった。この番組の再放送は7月15日、午前10時~11時半までの90分であり、読者諸氏には是非ご覧戴きたいのである。長くなって申し訳ありませんでした。長時間お読み戴き大変感謝しています。だんだん!

 

 

 花方波見 捻り花 姫紫苑 などを寄せ活けにしてみました

 

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