京都の臍(へそ)

 

 

 真夏に必須の扇子 どうやら梅雨があけたらしい

 

 

 

                京都の臍(へそ)

 

  今日17日の山鉾巡幸でおおかた祇園祭が終わったが、これから7月24日 – 花傘巡行。(元々、この日に行われていた後祭の代わりに始められたもの)。7月24日 – 還幸祭(神輿渡御)。7月28日 – 神輿洗い。そして7月31日に 疫神社夏越祭(えきじんじゃなごしまつり)と更に続き、長い祇園祭りが終わるのだ。実は神泉苑への信仰がその源になったことはそれほど知られていない。古代京都は湖底であったのだが、その古形を為す最古の名所は間違いなく神泉苑であり、古代期に湖底であった証左も今日では殆ど忘れられがちである。平安京遷都以降の歴史しかないと言われる向きはあろうが、北白川・追分町あたりの北白川縄文遺跡郡で、実に4000年前もの多くの石器・土器や鏃などが発見されている。興味深いことに、上賀茂神社奥でも縄文土器が発見されている。但し京都の、最も古い旧跡は神泉苑である。山鉾の古形もこの神泉苑にあり、然もここに、古代の人々は豊かな恵みを見ていたに相違ない。御池通りの名前の由来にもなった苑池で、神泉苑は御池通りの西大宮に位置し、昔を懐かしむ人々によって、「ひぜんさん」と訛って呼ばれ親しまれていることに注目したい。そして卑弥呼登場後、秦の始皇帝一族の一派である秦氏が居住を赦されたのは山背國・太秦。氏神として広隆寺が建立されたが、その子孫によっても稲荷大社が開設され、大陸との交易の結果、商売繁盛の原になったのである。平安京造営前後のことであった。彼ら一族は優れた灌漑用水事業と技術であり、人々を驚かせ、今日の土台を作ったものであったろう。冒頭に申し上げたかったことは、京都は全体が鄙びの里であったということである。

 今年の祇園さんには家内の勉強の都合で蟷螂鉾のある実家に帰れなかった。古代からいきなり中世へのお話で恐縮だが、祇園祭に関連して、京都の中心とはどこであったかを先ずは書かせて戴きたい。というのも家内の実家の直ぐ傍にある六角堂についてである。ここに、妙な石がある。六角堂は正式寺名を頂法寺と言い、今では西国札所三十三箇所の第十八番札所になっていて、京都の方にとっては大変馴染み深い。中京区六角通烏丸東入ルにあるこの御寺に、六角形をした遺跡があるが、今はそれほど注目されていないようだ。平安京造営の折、既にここにあった御寺に、聖徳太子の御持佛であった一尺八寸の如意輪観音さまが、まさにこの石の上に祀られていたところに、この不思議な臍石(へそいし)があった。ただ新設される都大路のド真ん中になってしまうため、皆々思案していたところ、一夜にして北方に五状ほど下がり、無事に道路を通すことが出来たという。それが現在の六角形した旧跡の臍石のことである。今日では東門内に移され、封じ込んであるが、その名に因んで、参詣する善男善女へ「臍石餅」が喜ばれているようである。

 この臍石こそ、京都の中心であっただろう。一つには都外から一向一揆が迫っていた頃、法華一揆も起きようかとしていたことである。天文元年(1532)、一向一揆衆が猛襲で恐れられていた時、町衆は日々集会を行うように鐘を鳴らしたが、上京は革堂にて、下京はこの六角堂で鐘がつかれ、終日耳に針をさすが如く聴き、末世の為躾(ていたらく)を嘆いていた。この時の難局にあたって、法華一揆をして蜂起し、遂に「天下の錯乱」という悲劇的なことになったのだった。こうして見ると、下京の中心はまさにこの六角堂にあったに違いないと思わせるものがあった。それ以前応仁・文明の乱後、祇園会の山鉾を見ることが出来たのは、明応九年(1500)のことである。乱の勃発とともに二十九年間の廃絶期間を経ていた。そして天文二年(1533)の法華一揆によって、法華衆が町中を支配するようになった頃、室町幕府は山門の訴として突如祇園祭を中止させた。町衆は祇園社に参集し、口々に、「神事無之共(これなくとも)、山鉾渡シタク」と言い、町衆のすっきりした覚悟と心意気が伝わって来るようである。神事は神社の祭、山鉾は町衆の祭だと言って憚らなかったのである。四条通りに店舗を構える町衆は、「祇園会地口銭」なるものを、店舗に応じた可分の費用を出し合って、この山鉾渡御を続けて来た。地口銭は永禄九年(1566)頃には八十文になっていたと言うから驚く。当時百文で米一斗二升を買えたはずだから、負担は決して少なくはなかった。

 京都の中心として六角堂があげられる前に、京都の中心は大内裏にあったと考えられもしよう。然し桃山時代から江戸時代にかけて、四条室町が京都の真ん中であるとされて来た。その四つ辻に立つと、よく理解出来る。東に函谷(かんこ)、西に月、南に鶏、北に菊水で、一町内で一度に四つの鉾が見られる。京都市内でもただ一箇所で、まことに古くから「鉾ノ辻」として愛称されてきた通りである。この辻を少し上がると夷堂や大黒庵の遺跡が背中合わせにある(えべっさんと大黒天)とともに、金剛流の能楽堂がある。如何にも町衆は謡い本をそらんじていたことを物語ることだろう。山鉾巡幸の宵山の夜は鉾町の店先に屏風を飾り、籐蓆などを敷いて家族団欒の姿も見える。かの吉井勇は、「宗達の屏風ありやと鉾町を めぐりてあるく京の宵山」と詠っている風情は未だに健在である。更に忘れてならないものに、占出山(うらでやま)があることだ。その町内を巡ると、子供たちから、「安産のお守りは これより出ます 常は出ません 今晩限り ご信心のおん方様は 受けてお帰りなされませ お蝋燭一丁 献じられましょう」との売り言葉に妙に惹きつけられる。大路を埋め尽くした人の波は、駒形に火を入れた堤燈にうっとりとし、再び巡って来た一年を、盆や正月とは全く次元の違った華やいだ情緒の中におられることだろう。行かずとも、コンチキチンと祇園囃子が聞こえてきそうである。

 六角堂について、序にお話申し上げたいことがある。無論華道のことであるが、立華とは佛さまに供華せられる形で発展して来たが、特に顕著になったのは足利義正の時代であったろうと推測される。銀閣寺内・東求堂(とうぐどう 国宝)で、義正は「室礼(しつらい)」として小物の置き方などを整理し普遍化していた。遠く所領地まで権威が及ばなかった室町幕府は唐物と称する海外との交易や富豪の町衆に頼らざるを得なかった。東求堂こそ、東山文化を代表するのみならず、私には精神的な、日本型ルネッサンスをさえ感じ取っている。ここを同仁斎と号したように、まさしく「一視同仁」とは、その後の日本文化を象徴し決定付けたものとなり、茶や華で言えば阿弥衆から一般民衆へ解き放った瞬間であったろう。茶道の祖である村田珠光であったり、華道で言えば池坊専慶であったのだろう。華道を創始したのは六角堂の僧住の中の一つ・池坊であったことは今更言うまでもないことである。

 

 

 

 家内と、お付き合いがあった時でもよく泊まった俵屋さんの一室からの眺め 

(俵屋さんの場所は中京区麸屋町姉小路上ル)

 

 

 今日のBGMは多夢さん作曲の、『夏の星空』

広告
カテゴリー: 祭り パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中