もしもネットで出逢わなかったら

 

 

『赤毛のアン』の舞台 プリンス・エドワード島の初夏

 

 

 

           もしもネットで出逢わなかったら

 

      <ネットにおける自己肥大化>

 ネットと一括りにして申し上げるのも何だか心細い。従って敢えてBlogに限って申し上げることにする。Blogは一般に公開され、一見すると公のものだろうが、その実、私的なタコツボのような狭い世界である。無論このBlogのように、日々500件以上の検索によるアクセスがあるものでもその対象にある。ベニシアさんの『猫のしっぽ カエルの手』の放送記事を長く書いていなかったが、もう既に『Vol39  涼を楽しむ』まで進んでしまい、何と23編もの更新をしていない。せめて彼女に習いたいと、庭の一隅、たった一坪ばかり赦され、昨年からハーブ15~18種類ほど育てて、日々の暮らしの中に生かしている。ベニシアさんの放送は何故好きかといえば、多分彼女の生き方が多くの方々の共感を呼ぶだけではなく、実際に私のように真似をしようという方がきっと多くなるのではあるまいか。たった最初の触りだけを書かせて戴いたのに、最も人気の高い記事になっている。つまりこのBlogは検索機関からの入場が圧倒的に多いためで、ホンの僅かな知り合いだけのBlogではないことだけは確かなようである。朝早く起きて先ず結跏趺坐のヨガをし、庭の手入れをし、美しい花々への愛情を惜しまないベニシアさんの生き方は決して安楽をして獲得出来るものではない。コンポスト作りや、野山に自生している日本のハーブたちにも彼女の愛情が注ぎ込まれる。映像で観て、どんなに多くの方々が影響を受けることだろう。何よりも美しい英語がいい。柔らかな語り口が何とも素晴らしいのである。絵も字も素敵である。そうした実際の生活を肌身で感じられるものなら、或る程度のBlog記事も赦されるのだが、多くの場合真反対で、実に陳腐な私小説まがいで終わってしまっている。タコツボの中で、より一層自己を磨き上げ、自己を肥大させ、一日の労働が終わったように錯覚し、晩酌を傾ける。実にいい気なものである。多くのコメントを頂戴したくて、どんなに融通の利かない、無駄な、涙ぐましい努力をしているのだろう。カキコだけでは済ませず、不平不満をご丁寧にメール作戦もあったり、少人数の中でアイツとは付き合うなと、今時「ムラハチブ」さえ存在する。Blogが如何にタコツボであるかの証拠である。元来、Blogとは飽くまで自己肥大化させない場所であるべきだ。その本性はBlogとは仮想空間の世界であって、書かれた文言だけで、書き手の人格まで信用するのはとても危険なことである。その上Blog中毒とか依存症などもかなりいるらしい。女子高校生が、電車の中でもご飯を食べるときでも、片時もケータイを手放すことがないことに実によく似ている。

 

      <平等主義と社会主義>

 文脈からすると唐突かもしれないが、実は今日的「いじめ」などの問題も、そうした世界が平等であるという前提と幻想から成り立っている。櫻塾にいる高卒・中卒の子供たちは、実際に惨い「いじめ」を体験してきた。最も不幸な例は肉親からの「いじめ」であろうか。彼らは居場所はどこにもなかった。どこもだ!だからコンビニに夜遅くまで、何とか座りをして大柄なシッペ反しをしているつもりなのだ。万引きだって、特別興奮するとか、そんなんじゃないらしい。しなくてもしても、どっちでもいいことらしい。困ったことに、どんな子にでもプライドがある。そのプライドが居場所を更に失くし、居た堪れない事態に陥ってしまう。そこにいわゆるカルト教団の魔の手が忍び寄る。オウム真理教に優秀な頭脳を持った出家信者が多かった事実が、そうしたプライドを保護し増長させるシステムを持っていて、特別に優秀な学生ほど、行き場の失くした後、プライドをくすぐってくれ、そしてエリート集団を形成することが心地いいようだ。平常学校教育での「いじめ」は、何故あるかといえば、あまりにも平等主義の罠にはまっているからだ。「いじめ」を体験したり、苛めたりした数多くの子供たちは尊敬語も知ならければ、謙譲語もまったく知らない。よくいう「タメ口」が気持ちいいし民主主義と思い込んでいるからだ。これはあまりのにも当たり前のことだと嘲笑されるかもしれないが、苛めるほうも苛められるほうも一皮剥いたら、殆ど同意義で同義語であろう。ゲームでしかないのがいつしか肥大化していった結果だろう。現在の学級崩壊は余りにも陰惨である。小学校の教師の中で優秀な教師は、子供たちを「イッパヒトカラゲ」にしない教師である。あの子の家は複雑だからとか、散々苛めを受けてきたとか、或いは途方も無く貧乏な家の子だとか、学校の先生の子でプライドが高いとか、様々なケースがあるだろう。そういう個別の立場や特徴などを踏まえ、子供子供によって見抜き把握し、ちょっとした予見があったときには幾ら些細なことでも決して後回しにしないことである。その場その場で決然と判断するだろう。そして「しつけ」がなってないことを再認識し、自ら教師らしく「しつけ」のあり方を模索するだろう。ひと昔前までは「しつけ」を保護者間で共有していたが、今や保護者そのものが絶望的であり、「しつけ」を受けるべき人は子供ではなく、大半が保護者の大人のほうだろう。そうでなければ学級崩壊など起きっこないのである。或るお嬢さんに、貴女のBlogにスパイウェアーが入っていると警告したのだが、ウィルスバスターを導入していないせいか、未だにGoogleなどで検索すると、Blog名の案内からしてグレーゾーンで一向にグリーンにはなっていない。余程お行儀の悪い成長をなされたのか、或いは飲んだくれの親の顔が観たいものである。この弊害は戦後教育のレジュームがまったく見直されていない結果であろう。愈々怪しくなってきた。民主主義とは兎に角何でも平等であればいいような錯覚や誤解がある帰結なのだ。民主党政権になってから、より一層その傾向が強く、あからさまに出てきている。海外から見たら、日本は社会主義国家であると曲解され、株式市場からもそう断言されていることが苦痛に他ならない。コッショリと忍び足で社会主義国家が浸透しようとしているようである。そんな中で、どの親もまた彷徨しているのだと思う。

 

      <しつけと教育>

 「しつけ」とは、無理無体なことでも、子供の反応を見てからするものではなく、子供が理解出来なくとも断固として実行し躾けるものである。社会性を帯びたもので、子供時分に子供自身は社会性など理解出来るわけがない。そのことを理解していない親が殆どで、どうしたらいいのか親自身もまったく理解していない。だって今の親たちはそうした躾けを受けてこなかったのだから、どうしようもない。先日23歳の風俗嬢が3歳の我が子と1歳の我が子を死なせた罪で逮捕された。離婚後風俗店に勤めたあたりから、子育てが嫌になって、そのまま子供を放置して家を出たという。テレビに映った賃貸マンションは母子だけの生活には如何にも不似合いで堪らなかった。水も、食事も与えなかったら死に至るのは当然のことで、まるで何も分かってやしない。若いうちから、単にセックスだけに溺れてしまったのだろう。殺された子供たちが折角この世に生まれてきたのに、まことに不憫で哀れでならない。自分の都合で子供を作ってしまう醜態はどうしても(水際作戦ででも)止めなければならないが、一から十まで知るべきことがまだまだたくさんあったのだろう。私の場合、何度もお話したが、幼児期から小学校を卒業するまで、厳父に論語の素読を強いられたこと。江戸時代じゃあるまいし、どんなに嫌だっただろう。でもこうして遅くに(四十過ぎて)人の親になってみるとつくづく思う。あれはまったく徒労ではなかったと。私のどこかに染み付いているのかもとも感じる。漢文は嫌いな課目ではなかったし、漢詩は好きな部類に入る。それだけの問題ではない。誰をどう立てたらいいのか、或いは誰にどう服従すべきか、殆ど本能的に理解しているが、その素養は多分ここで培われたに違いない。私は反抗をして数学が大好きになり、父が言うような文化人にはならなかった。建築学は理数系の、かなりいいポジションであると今でも信じている。フランスに憧れ、特にヴェズレーの聖マドレーヌ教会を卒論に出来たのは、学生時代から働き始めた亡き主人のお父上さまへの奉公でなしでは得られなかったようなものだ。そう、私は早いうちからいわゆる奉公を経験したのだ。でもそこでもいいの悪いのという個人的見解や、余地を取り込んでもらえなかった。亡き主人宅なりの躾けが非常に厳重であったためである。それでも私の青春は我が厳父に対する激しい反抗であったようであり、無論母の早世も無縁ではないだろう。かくしてかのお宅でも、厳しい躾けで有名なお宅で、ただ私はそれに充分慣れていただけのことである。少し年下(享年40歳)の亡き主人もそうだが、彼のお父上さまからもお陰でどんなに可愛がられたことだろう。「しつけ」とは誰でも平等にあるべきであり、教育とは努力の如何によって出来る格差があるのが当然であろう。日本では「機会の平等」を解かれているけれど、多く海外では「結果の平等」の名のもとにある。民主党政権になってから、より一層社会主義的な臭いがプンプンして、どうにも気に入らない。努力するものに希望を持つのが当然だが、努力せざるものまで明らかに報われる行政とは。子供手当てなどの、多くのバラマキ型予算の執行は愈々日本を弱体化させるだけである。或いは最もしつけられていないのが今の国家なのかもしれない。子供さんがいらっしゃらないお宅では何一つ恩恵がなく、一体何だろう。平等とは誰にでも利益があるようになるようだが、まったくこれほど理不尽な政策はない。最低生活の保障はよしとしても、だったら子供のいないお宅では何の援助がないばかりか、逆に税負担が大きいのではないか。当家では子供手当てなぞ一切受け取らない。それは不自然であり理不尽の極みだからである。労働組合や日教組にオンブに抱っこだから、民主党に公務員の人数削減だって怪しいものである。金の亡者・小澤一郎が民主党を影で支えているらしいが、ヤツは何様のつもりなのだろう。田中角栄と似ても似つかない、単なる恫喝の政局屋に過ぎない。万一九月に復権するなら、民主党と断絶する。まったく可笑しい限りで、こうしてみると上から下まで行き場のない展望と飢餓とが同居して、永遠に反復しているだけである。

 

      <アメリカニズムと大量消費社会>

  アメリカニズムという言葉がある。極論すればヨーロッパ型普遍主義のことだが、いわゆる民主主義であり、フロンティア精神であり、自由であり、いいも悪いもアメリカ式経済で、大量生産・大量消費社会を言っている。早くから植民地主義を採らなかった代わりに、世界中に軍事ネットを持つ核大国である。そんなアメリカのいう「核抑止力」なる妄想と幻想に、私たち日本人は缶詰か密閉された陋屋の獄舎に繋がれているのだろうか。大いに疑ってみるべきである。多分大量生産で大量消費するのが、あの国では美徳になっているに違いない。でもあらゆるシステムやマニュアルが日本へ導入されたとしても果たしてそうだろうか。いい例は我が国のコンビニであり、ファースト・フーズの店舗展開ではなかろうか。アメリカからどのようなカタチで入ってきても、すべて日本化されない店舗はどうしても流行らないようで生き残って行けないのである。そこが日本人の凄いところで、日本的なキメ細かさがなければ、決して一般には受けないからである。逆に逆輸出だってありえる。だがどうだろう、こうも平均化され平等化されると、大量消費の文化そのものが今後とも日本に根付いて行くのだろうか。ステーキだって一人前最低500gあり、スクランブルエッグなどは一人前で5~6個ありそうである。希望的観測からすると、大きな声で否と申し上げたい。いいものはいい。古くから日本人の智慧は間違ってなどいなかった。江戸時代や明治時代や大正時代の和服が新しくイノチを貰って、何かに再生しているにつけ、本当に嬉しくなる。アメリカニズムに腐食されることなく、独自の文化を堅持すべきである。民主主義だって、日本型民主主義は古くからあったと断言出来る。黒船の、ペリー提督だって、アジア各国を廻った後に言ってたじゃないか。儒教の国家・中国や韓国とはっきりと一線を画すと。但し現在の日本は深刻なデフレ経済である。あのユニクロを代表する通り、安売りが横行して堪らなくなるときがある。御徒町にある安売り王・多慶屋の裏側に、深夜行ってみるがいい。ずっと先のの決済より、今すぐ現金が欲しい弱者の業者や会社がズラリと行列をなしている。安売りのシステムは必ずどこかに犠牲を強いていると思ったほうがよい。多慶屋で、品物を強か叩いて買うほうも、どうも気に入らない。買ってやるという大仰な姿勢で、その瞬間を観たとき、背筋が何だかゾッと寒くなったのを禁じえなかえなかった。私たちの食生活も欠かせない大量消費の波に飲み込まれていないか。醤油も出汁醤油。味噌もそう。カレーだって、あの固形のルーがなかったら作れないのだろうか。マーボー豆腐だって、お茶漬けだって、大量消費で味覚もまた大量多数決の味覚に陥っているだろう。謂わば殆ど調味料を味わっているだけに過ぎない。特に近郊の野菜を作っておられる農家の方々は気の毒である。殆ど野菜匂がない姿カタチのいいものしか卸売りには出せないという。出せない野菜は自宅の、軒先で、ただ同然で売るしかないが、網を張ったような表面のトマトや曲がった胡瓜が如何に美味しいかとしみじみ思う。こうした大量消費時代とは一体何だろうか、もっと私たちの足元を見つけ直してみたいものだ。

 

      <もしもネットで出逢わなかったら>

 或る御仁に申し上げたい。そんなに怒って、無関係の方へのメールや、果ては無関係の方のBlogの書き込み蘭に書きたい放題やっているようだが、恥ずべきなのは貴殿で、かくも長きに渡って贈答された日本全国の名酒を箱ごとすべてそっくり返してくれたなら、それでも大いに恥を晒して結構でしょう。飲んだものは返せないのやったら、ベニスの商人じゃあるまいし、少しは恥を知るべきです。そう甘くはないのです。ハッタリ充分な貴殿のBlogにはまったく関心ありませぬ。私小説のようで、滅茶苦茶キモイのです。もっとも阪神タイガースが現在一位につけているから、このBlogの発信には無関心かもしれませんが、昭和13年生まれで戌寅生まれの、満72歳の御仁にはまったく似合いません。多分直接逢っていたりして、こうしてネットで出逢わなかったのなら、共感出来た部分があったのかも知れません。残念かな、たった一度も逢っておりませぬし、実際お逢いしたいとの念願はただの一度も御座いませんでした。図々しいを通り越して呆れ果てるばかりで、一番いいのは貴殿の文章と、よくご相談されたら如何でしょう。かくしてご老体にも「しつけ」が必要と思うと情けなや!本日は「大阪・住吉祭」や、「京都・愛宕千日詣り」や、「堺大魚夜市」のある日ですが、昨日は宇佐神宮で「夏越の祭」があったようです。ここで、日本人たる衿持の神佛混交を心から愛するが故の、真夏の夏越の大祓いと致しましょうほどに。

 

 

 『赤毛のアン』の作者・Lucy_Maud_Montgomery(1874年11月30日 – 1942年4月24日)のお墓 

何とプリンス・エドワード島の共同墓地のなかにヒッソリとあった 思わず末娘・リラのことを思い浮かべた

キャベンディッシュ・セメタリーにある墓所にて

 

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