「個」の限界 消費と収入の関係性

 

 

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           「個」の限界 消費と収入の関係性

 

 「ゆとり教育」とは、中曽根内閣の時代に創出された制度で、その時の時代背景が重くのしかかっている。学力低下が叫ばれる昨今、右傾の諸氏は「そら見ろ、言っていたじゃないか」と急先鋒となり声高に、その早期刷新と学力増強に邁進しようとする。その一方左傾の日教組や労働組合では、素晴らしい制度でいじるべきではないと主張する。それではこの「ゆとり教育」の正体とは何だろうか。昭和47年に日教組から提案されていて、中曽根内閣の時に臨教審にかけられ、制度化されたものだ。左傾の人が支持するわけである。実質的には2002年度から開始されたが、その後「ゆとり教育」がデンマークの例をみて見直され、来年度から本格的に実施されることになっているようだが、果たして民主党は、これにどう反応して行くのだろう。所謂「授業時間の削減、教育内容の削減、完全学校週休二日制、総合的な学習時間の創設、絶対評価の導入などをうたっている。果たして成功したのだろうか。現場ではコロコロ変わって大変だろうなぁと想像しうる。

 この「ゆとり教育」を受けた子供たち全員が私たちの櫻塾の塾生で、彼らをよくみる以外に、私たちにはそれを判断する方法はないが、何もいじられていないというのが率直な感想だろうか。翻るに、ほぼ教育らしい教育はなかったと断ぜざるを得ない。特にバブル崩壊が一つの分岐点であったかと思う。それ以前は少なくとも父兄間で、「親のしつけ」が前提にあったかと思いたいが、甘いだろうか。今時の学級崩壊は、そんなものではないらしい。真ん中を見よと教師から言われると右とか左とか、或いはまったく無関係なことを始めるのが普通だという。ウザイ教師はシカとされ、それをわざわざ出掛けてきて、注意勧告するのが父兄であり、教師は親の反応を窺いながら、授業せざるを得ないという。実際の生徒からの証言だから間違いない。親の躾けがまともにあったのは実に少数派であった。

 明治時代、文部省派遣の官費留学としてイギリスへ渡った夏目漱石は後年個人主義について思い悩んだ。当時の日本は習慣や習俗にがんじがらめであったから、きっと個人の解放を願って漱石が真摯に悩んだに相違ない。一足飛びに飛ぶが、時代が進み、特に敗戦後GHQによって推し進められた戦後教育では、何事も日本化を赦さなかった。憲法第八条までの条文はすべて天皇制に関するものだが、天皇制さえ骨抜きにしようとしているように思われてならない。敗戦の詔勅をご決断されたのは、他でもなく昭和天皇であったのも、今は遠い遠景になっている。かくいう私は戦前の天皇制を復活させたいわけではない。但し日本国の永い歴史は天皇制と無縁ではなかったと申し上げたいだけである。その上で私は日本国の文化の象徴として天皇制を廃止すべきではないと考える。更に時代が進化するというか、変幻するというか、まさに可笑しな時代になっているのが、現在の日本である。

 今の日本社会は個人主義の極みであり、それはアメリカ化された豊かさと大量消費の幕開けでもあったろう。確かに消費については個人主義でいいかもしれないが、収入やら収益については個人では何も出来ない。夫が会社に出て、首切りの危険にさらされながらやっとこさ働いている時分に、妻たちは友人と優雅な昼食会。自分だけがいいのである。旦那さまの、アテなどしていなかった。それでも夫が帰宅して、子供たちの話に及ぶうちはいいが、夫は夫で、妻は妻の孤立した関係はどうしてそうなったのだろうと考えてみる。すると不思議なことに、各個人にあてがわれたケータイの存在や、各部屋ごとにあるテレビなどを、ふと思い浮べる。ケータイはメールであれ、直接電話であるとしても、何も家庭や学校で絆を創り上げる必要性は殆どなくなる。私も家内もケータイを持っていないから、恨み辛みで申し上げているのではない。ましてや学級にまでケータイが入り込んで、堂々とメールをするような状況は危機的国家の有り様ではなかろうか。

 無論Blogとて無縁ではない。今回大阪で起きた育児放棄(殺人か?)を検証してみよう。驚くことに下村早苗容疑者(23歳)は二人の子供を置いて家を出るまでBlogを書いていた。「さなのHappy Diary」である。最後の書き込みが4月23日になっているから、風俗嬢になって家出した後だろうか。この日より後の5月初旬にも子供の泣き声の苦情があったから、あの子たちはその時点でまだ生きていただろう。水回り付近に近づけないように、部屋の仕切り戸に目張りを貼ってから家を出たという。何て残酷なことをするのだろう。今夜の午後20時30分現在で、カキコ欄のコメントが683度数カウントされている。桜子(3歳)ちゃんと楓(1歳)クンが半ば白骨化されて発見されたのだが、このBlogを読んでみると、何と小まめないいママではないか。去年離婚し、その後不似合いなマンションに親子三人が越してきて以降からのBlogである。この段差は何なのだろう。改めてネットの恐さを実感した次第である。尚コメントした多くの方々は早苗容疑者に向かって罵詈雑言をあびせているが、お子さんがいらっしゃらない方や不妊治療を受けていらっしゃる方々からは、亡くなった子供たちへ向かって今度生まれてきた時は私の子供になってとか、妊娠中の女性や同じ悩みを抱えた女性たちからの真摯で切迫した声も数多い。今の時代の時代性を色濃く反映されたBlogになっている。そしてまさにこの事件こそ、究極の「個」の行き着く最後ではなかろうか。コメント欄のカキコは現代日本の断面をありのまま表現してあまりある。勿論児童相談所の対応はマニュアル通り(法整備の不適性か)で、自分たちは悪くないのだと主張しているようなものでまったく気に入らないが、何故彼女はここまで追い詰められなければならなかったのか。裸で亡くなった子供たちは「羽木性」を名乗っていることも気掛かりでならない。定期的に父親が面会することはかなわなかったのだろうか。それにしても親兄弟や親戚縁者などとの主に家の絆や、学校や地域との絆、会社や所属する団体への絆、社会全体に対する絆、そうしてBlogを通じた絆などがグジャグジャに寸断された瞬間であったと言わねばなるまい。たった3歳と1歳の幼児に対して、これって本当に出来ることだろうか。まったくおぞましい。でも私たちは現代の日本の同じ空気を吸って生きている以上、真摯に考るべき事柄である。子供手当てなどで済む問題なのだろうか。生きる理性も、倫理や道徳は勿論、情緒さえもスッカリ失くしてしまうほど、そんなに「個」が大切なことだろうか。個性と孤立(個立)は余りにも意味が懸け離れている。早苗容疑者のBlogを読むにつけ、ホストクラブなどバンバン使ってしまう消費は個人の勝手で成立するからよしとしても、収入や収益は個人では決して生まれないことを併せて考えるべきである。憂国の情、収まること難し。

 

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