伝説の画家・田中一村展の大迫力と、その死生観

 

 

 田中一村展 250点もの大展示 奄美の死生観に生ききった孤高の画家 昭和の伊藤若冲か

画帳とパンフレットとチケットに ワルナスビの花を置いてみた

 

 

 

     伝説の画家・田中一村展の大迫力と、その死生観

 

 今週のNHK教育テレビで取り上げられた田中一村の絵、思わず見惚れ、午後から何が何でも行きたくなった。幸い妻が久し振りに休養日で、子供たちと遊んでいるから、お一人で行ってらっしゃいというものだから、何も持たず山手線に乗って、秋葉原で乗り換え、千葉駅へ速攻。バスで千葉市中央区役所を目指す。千葉市美術館はこの中にある。何故こうも惹きつけられるのかというと、初めて田中一村の存在を知らしめたのは、やはりこの日曜美術館であったらしいが、私は文化座で’94年に田中一村の演劇を見ていたからでもある。日頃左翼系の文化座は見ないことが多いが、中にはゴッホを題材にした「炎の人ゴッホ」や「青春デンデケデケデケ」などがあり、決して侮っていないせいである。田中一村の劇は堀江安夫作の脚本で、確か「夢の碑ー私説 田中一村伝」であったと思う。痛々しいほど孤独と貧乏に苛まされた孤高の画家に描かれていた。兎に角いかにも悲惨な画家に描かれていたのだと思い出す。「荷車の歌」などに代表されるように文化座らしいなぁと感想を持ったが、実態の田中一村に逆に酷く興味を抱いたもので、今回の展示は彼の全貌を網羅している初の試みとの放送であったから尚更燃えていた。一緒にバス停で降りた初老のご夫妻に、田中一村展をテレビで見たのですかと聞いてみたら、やっぱりそうであり、所沢からすっ飛んで来たという。私のような人もいるのだとテレビの影響に恐れ入りながら、美術館前でお互いに笑顔にてご挨拶を交わしあった。

 千円の入場料を払って、区役所八階から入場する。どうやら画家の画業の年代別に部屋が構成されているらしい。入ってすぐ圧倒される。何故なら画家の息遣いさえ感じられるから。第一章として生まれてから東京時代まで神童と呼ばれた日々の絵の数々。父は彫刻家であったらしく、既に南画の手解きを受けていたらしい。豪快な筆致と、男っぽい墨書。反面精緻な筆遣いも伺える。田中一村とは何者かと、一枚一枚見て行くうちに益々興味が湧いて来る。明治41年(1908)栃木県で生まれ、最初は神童と呼ばれた頃の部屋を出ると、大正3年(1914)一家あげて上京し、麹町三番町に落ち着く。翌年9歳にして、父から「八童 米邨」と雅号を受け取る。この年の児童画展において、天皇賞(文部大臣賞とも)を受けたらしい。花鳥風月を幼年期から描いていたようだ。時に扇面に描くこともあったが、大正15年 18歳にして芝中学を卒業するや、東京美術学校に入学する。同期に東山魁夷などがいたが、たった二ヶ月で退学してしまう。自分のやるべき道と違うように思えたからであったという。昭和2年20歳の時、弟・芳雄が若干16歳にして他界。翌年には弟・実が14歳にして他界。同じ年に母親のセイが43歳にして他界。哀しみを堪えつつ絵を一筋に描き続ける。そして昭和18年に、父・弥吉(雅号・稲村)が52歳にして逝去。更に同年、弟・明が19歳にして他界。この時未だ一村とは名乗ってはいない。次々に肉親を亡くしながら画業愈々本腰へ。時に28歳の若き日であった。第一室から第二室の「東京美術学校退学後の大活躍」から、第三室「昭和初期の新展開」へ。画風は次第に南画から遠ざかって行く。南画と言っても絹本で出来た長尺の丈幅か半切が多いのが特徴だろうか。中でも圧巻なのは瓢箪図であったろう。幾重にも重なる瓢箪は七個、その廻りをグルリと囲む蔓や葉の黒々としたパワフルな絵は後の一村を感じさせ、既にここに原型があったのかもしれない。いずれの筆捌きも豪快なものだが、初期の「雪中南天図」は伝統的な極めて稀な大人しい絵である。

 

 

 雪中南天図 (大正12年の作 田中一村記念美術館蔵)

 

 

 淋しい青春の時でも筆は休まることはなかった。31歳の時、母方の親戚を頼りに、東京の自宅を売って、千葉市千葉寺に家を新築し、姉・喜美子、妹・房子と、祖母スエと共に移り住む。見よう見まねで農業をしながら自給に務め、スケッチ用に鳥類を飼う。33歳の時、妹・房子が結婚する。その時「あばさけ観音」の絵を贈る。千葉の郊外へ出掛けては精力的にスケッチし、多くの絵の源泉を得たようだ。第四室は「第二章 千葉時代」となっており、やがて当美術館所蔵の絵の洪水へと向かう。去来や蕪村ばりの、欲得のない素直な岩彩があふれており、千葉時代は二十年の長きに渡って住むことになるが、戦時中徴用され、船橋で板金工として働いたようだ。だが体調を崩し、しばらく療養。かねてから注文のあった襖絵の仕事をするようになる。鮮やかな変貌も見られるが、盛んに公募展に出展するようになり、だが殆ど入選することはなかった。驚くべきことである。

 

 

 千葉時代の象徴的な傑作 『秋色』 田中一村記念美術館蔵

 

 

 更にこの時代、多くの風景画を遺しているが、いずれも色彩感豊かにして、観察眼も極めて優れていたように思う。院展など多数出展するものの一向に結果が出ない日々が続いたが、この頃から画号を「一村」と改め、軸物ばかりではなく、襖絵や屏風絵にも果敢に挑戦している。落選すると怒り狂って、絵を破り捨ててしまうこともしばしばあったようである。千葉寺近辺では当時闘鶏が盛んだったようで、日本画の基本とも言える鳥の図を多く描いているが、闘鶏用の軍鶏をスケッチしたり、非常に優れたスケッチばかりで、中には田中一村自身の自画像とも思えるような激しい「軍鶏図」が多かった。落選に怒ってのことだろうか。

 

 『軍鶏図』 丹頂鶴や翡翠や 多くの鳥類のスケッチや 軸物を遺している 軍鶏だけは自画像のようだ

 

 

 「わが心の千葉」と題された大きな展示室を抜けると第一部の終了らしい。階下の七階に移る。すると「公募展への挑戦」の部屋や、「襖絵の仕事」や、「やわらぎの郷 聖徳太子殿の天井画制作」と展示は続く。それにしても美しい板ばり天井画であり、今回特別に所蔵する多くの公設館や、個人蔵や、寺社仏閣さまの協力をよく得られたものだとつくづく感心し、何やら胸が熱くなった。妻を連れてくればよかったと頻りに反省したのだが、急な見学で適わず甚だ無念の極みだ。

 

 

 石川県羽咋郡宝達志水町にある聖徳太子殿 やわらぎの郷 天井画 「薬草図天井画」 一部分

 

 

 この他にも美しい天井画があり、それは静かな「野の花」のようである。襖絵も多くの傑作があり、白梅図や紅梅図や、白蓮図や、様々な傑作があるものだと感心し、それにしてもこうして多くの方々のご協力が得られたのは、千葉市美術館の小林忠館長(現・学習院大学教授でもある)のご人徳でもあるのだろう。道理で展示会名は「開館15周年記念特別展 田中一村 新たなる全貌」としてあるわけだ。年代別に完全網羅の趣である。千葉市とは深い関係があったのである。因みに軍服姿の絵もあったが、後に奄美へ移住した際、貧乏で遺影がない奄美の各お宅への遺影画として多くのお宅に遺されていた。それも痛く感動せられた。

 

 

 「秋元光氏肖像」 如何に優れたデッサン力があるかご理解戴けることだろう 後の奄美に役立つことに

 

 

 そうこうするうちに、美的放浪が続く。そして四国や九州や和歌山への放浪の旅へと続いて行く。既に千葉の自宅を処分する覚悟で、親兄弟が全くいなくなったせいでもあったのだろう。田中一村は非情で、孤独であった。放浪するうちに、やがて奄美へ移住を決意するのだが、この遍歴の間の旅にも優れたいい絵が多く残っているから、一層不憫であり、まるで絵が生涯ただ一点しか売れなかったゴッホであるかのようである。だがこの九州・四国・紀州への旅路で一村は一村たりうる様式美に目覚めていったような気がしてならない。

 

 

 九州・四国・紀州への旅は 美的様式美を求めての求道の旅であったに違いない 作品・『青島の朝』

 

 

 昭和33年12月、遂に意を決して奄美への移住を決断する。展示場は「千葉との別れ」の後、最後の部屋へ。第三章・「奄美時代」へと。「スケッチについて」などの多数の展示。まだまだこれでもかというほどの作品の量だが、「奄美での作品」を見て、小生は完璧に絶句してしまった。余りにも美しい様式美、そしてあふれるほどの色彩。的確な筆力、圧倒する美の様式と、存在感。もう田中一村の究極というしかなかった。

 

 

 「榕樹に虎みゝづく」 絹本墨書着色 孤高なるみゝづくも相当なスケッチを繰り返していた

 

 

 

 代表作かも 「アダンと海辺」 絹本着色 大好きな絵 21世紀であったならば

 

 

 

 「不喰芋と棕櫚」 絹本着色 不喰芋の花芽から実になるまでを描いている 棕櫚の実も雄と雌

死生観をはっきりと具現し 暗示してあまりある

 

 

 

 「熱帯魚三種」 絹本着色 物凄い量のデッサンを重ねた

 

 

 プチスズキベラ・ブダイベラ 島伊勢海老 虎斑木菟 それぞれの写生図 膨大な量

 

 

 ただただ圧倒されるばかりである。スケッチの確かさ、その熱意と情熱、様式美と色彩の競演、そうして最も肝心なことは、田中一村が島に伝わる伝承の神々と交信したことである。「イザイホーの神々」のことだ。文化座で見た時のように、間違いなく赤貧洗うが如くであったろう。それでも美への飽くなき探求と挑戦は田中一村をして、間違いなく第一級の絵師として存在しえたに間違いない。昭和における伊藤若冲と言っても決して言い過ぎではなかろう。若冲と同じように誰も師匠を持たなかったからで、或いは時代に早過ぎた登場であったのかもしれない。70歳になったら個展をしたいと周辺に漏らしていたようである。50歳を過ぎてから奄美に来て、異時空間の神経も創作意欲も、ここで炸裂し爆発した画家であった。多分奄美と、一村の魂が呼応したのだろう。ニライカナイの「波上宮」が見えるような、烏帽子のような、神々が住む島を、最も明るい水平線上に描き、田中一村は決して貧乏に敗れてはいなかった。孤高であったのだろう。でも神々との交信で、一村は独りではなかった。「死」と「再生」と、そして海の彼方から来る神々の魂と呼応していたのだ。無念かな個展を開くことなく、シマンチュウにて69歳で突然逝ってしまった。忌日は昭和52年(1977)9月11日、心不全で、あっと言う間に神々のもとへと去って逝ってしまったのだ。誰からも知られず評価されずに、それでも自給し、尚一層一心不乱にて画道を突っ走った彼の生涯はきっとこれからはもっと高く評価されて行くことだろう。戒名は如何にも一村らしく、「専精院釈浄絵居士」と称され、名瀬市東本願寺にて友人たちに囲まれた。午後から行って五時間も見学したのだが、圧倒的な一村の存在感に、私の胸や魂はスッカリつまってしまった。これからも一村の絵が新たに発見されるかもしれない。そう言えば、この小林館長がNHKで初めて放映される時、それまで知らなかった一村の解説を依頼されたようである。時に先生は伊藤若冲の研究者でならしていたというから、満更若冲と無縁ではなかったのだろう。どの絵か、将来国宝になるような予感がしてならないが、私の予見は間違っているだろうか。ああ一村よ!永遠に有り難う!

 

 

 写生する田中一村 奄美にて 遂に到達した神々との呼応

 

9月19日・夜8時から NHK教育テレビで「日曜美術館 田中一村」が再放送されます。尚千葉市美術館の展示は9月26日で終了されます。

出来ればあちこち巡回して欲しいのは、筆者だけでしょうか。こんな展示会は二度とないでしょう。どうぞ是非御見逃しなきよう!

田中一村画集は千葉市美術館にて発売中 一冊2500円 素敵な凄い画集です この記事ではここから転写させて頂きました。

 

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伝説の画家・田中一村展の大迫力と、その死生観 への2件のフィードバック

  1. 良枝 より:

    思わずコメントさせていただきます。私もこの画家、大好きなんです。画家としてやっていく覚悟って言うんでしょうか。生活費を稼ぐ時期と、絵を描く時期とをハッキリと自分の中で自律して、素晴らしい作品を残した方です。芸術家はパトロンがいないと出来ないわけではないのです。今の時代は、いいパトロンがつくとか、実家がそもそも裕福とかそんなことで左右される自称芸術家が多くて悲しくなりますね。とにかく、この方の作品は生活に根ざしている感じがしてとても好きです。お忙しいところ、失礼しました 苦笑

  2. 文殊 より:

    りんこしゃま コメント、大変嬉しゅう御座いました。田中一村をお好きだと伺い、りんこしゃんの感性に届いて、書いたかいがあったというか、本当に嬉しかったです。田中一村は生涯にわたって、画業一本でしたね。雑ざりっ気のない部分が画面にも深く反映されているものだと思っています。奄美での生活は困窮を極めましたが、一切ゆらぐことなく、ちっぽけな小屋に寝泊りし、ひたすら絵に打ち込みました。それが一村の画家としての、最高の輝きを現出させたのでしょう。とにかくピュアです。いつもこの話をする時に、大好きなモディリアーニを思い出します。彼をして、友人と言えばピカソしかいなかったモディ。ジャンヌだって身重で、背面から落下して自殺しなくてもよかったのにと、今更深い感慨を抱きます。田中一村は生涯独身でした。その方面の噂や、浮いたお話は全くありません。精錬潔白な方のようです。それだけに痛ましいと存じます。今後大きく評価が変わって行くことを念願してやみません。だんだん!

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