古い押し花の匂ひする女(ひと)と、当尾へ

 

 

 微笑する石佛 阿弥陀三尊磨崖佛 願主岩船寺 大工末行(まつぎょう)と 刻銘あり

 

 

 

        古い押し花の匂ひする女(ひと)と、当尾へ

        ~花あしびをもとめ 浄瑠璃寺から岩船寺~

 

 結婚する前、妻が何処でもいいから三泊しようと急に言いだすものだから、その日のうちに勢い奈良へ行った。早春だったか秋くれないの時季であったか。遠隔地へはどうも気が進まない。さりとて一箇所への連泊は避けようということになり、気の向くままに近場の奈良郊外を歩いてみたくなった。東寺を過ぎる頃、あなたから誘われたと両親に言ったと、肩をすぼめて言う妻に、可愛い仕草が見て取れる。朝粥が美味しいというたった一つの理由で先ずは奈良ホテルに投宿することに。玄関も古びて、廊下もきしむようなホテルだが、何よりも気に入るのは天井の高さ。奈良はいつ来ても心地いいと妻も言う。狭い京都での暮らしは偶には窮屈になるらしい。午後の光りが漸く柔らかくなってきた頃、私たちは早めの食事を大食堂でとった。庭の隙間から猿沢の池がホンの少し見えていて、古樹が二人を隠している風。興福寺の五重塔だけははっきりと見えた。広めの部屋は仕事をするのにどうも不都合で、何処となく所在なく落ち着かない私。でもこういう時ってのは女性のほうが妙に胆が据わるらしい。折口信夫の「死者の書」や、会津八一の「鹿鳴集」や、堀辰雄や白洲正子の話などをポンポン話し出す妻は、何とも気さくでいいやと思いつつ、彼女の話を黙って聞いていた。奮発してルームサービスでシャンパン(ピンドン)を取ると、彼女も飲むという。しばらく経つと、合歓の花のように、やや淡紅に染まった頬をした妻を見ると、何だか眉刷毛のようで、何だか古い押し花の匂ひのするような子に見えて堪らなかった。小さい時からの愛読書は「更級日記」や「伊勢物語」であったらしい。私のそれまでは殆ど海外に出て、レア・メタルやレア・アーツ関係の売買や化学原料や医療関係の株取引に忙しくしいて、国内では専ら建築設計でずっと繁忙期ばかりだったからで、読む本と言えば数字と、横文字文化の表音文字の世界ばっかりであった。もちろん偶にはウィリアム・C・フォークナーや、バルザックやスタンダールの短編集やプルーストも読まなかったわけではないが、日本文学には極めて疎かったのが本音だったろう。そんなわけで、妻の前では聞き分けのいい子になっていたと思う。妻は珍しく遅くまで起きて、私の酔いが廻るのを手伝ってくれた。彼女は東大寺で夜八時に鳴る鐘の音(初夜~そや~の鐘)が鳴り響いてもずっとお喋りをして楽しんでいた。まるで秘するが花の帯をハラリと解くかのように。普段は自宅でも大學でも殆ど無口なのに、古典文学から薫る匂ひだろうか、妻から発せられる古びた押し花のような香りなのだろうか。何の押し花かも検討がつかないが、やがて私はいい薫りで朦朧となり、いつしか妻の胸の中にすぅ~っと入っていった。

 奈良の朝はいい。静かな部屋の中で爽やかに目覚めた。正式な結納はまだであったが、妻の実家から結婚の許可がおりた途端、もう新妻の顔になっているから可笑しい。前日頼んでおいた茶色の茶粥を食べながら、今日は歩き日和だねといい、どこに行こうかということに。堀辰雄が愛した花あしびの御寺・浄瑠璃寺へ行き、そこから岩船寺に行くハイキングはどう?と妻がいうので、早めにチェックアウトし、この夜の宿として電話してあった四季亭に向かった。そこに荷物を置いてから、バス停へ。朝十時前のバスに乗る。辺りは美しい鄙びた景色。柔らかな夜の気配を抱きながら、私たちは黙って過ごしバスに揺られていた。たった30分もしないうちに、狭い道のなか浄瑠璃寺に到着す。道標に沿って歩くと、やがて浄瑠璃寺へ。確か萩の花や薄の穂があったかも知れん。ウッカリすると通り過ぎてしまいそうな浄瑠璃寺の山門は堀辰雄の描いた「大和路~浄瑠璃寺」にもあったが、何故か花あしびや七本のも柿の木は見えなかった。既に枯れて幾年も過ぎたのだろうと思えたが、浄池を見て、左右対称に立つ三重塔と阿弥陀堂の対比が面白い。地元ではこの御寺を九体寺と呼んでいるらしいが、薄暗い阿弥陀堂の堂内に入ると圧巻。大きな阿弥陀様が九体も鎮座していた。受付で言われた通り、御本尊の直ぐ脇にある吉祥天女が開闢されていた。小さな御佛さまだが、頬がふっくらとして、何とも愛らしく大きく見える。間違いなく、この御寺は平安後期の造営された当時のまま、ふくよかな香りが充満し漂っていた。堀辰雄の「大和路~浄瑠璃寺」には馬酔木の花のことを「どこか犯しがたい気品がある。それでいて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人に見せたいような、いじらしい風情をした花だ」と表現してある。

 

 

 浄瑠璃寺の九体阿弥陀佛 御本尊左脇に 吉祥天女さまがいらっしゃった

 

 浄池の廻りを静かに手をとって散策する。堀辰雄が描く柿の木や花あしびは確かなかったような気がする。でも堂々と立つ伽藍に惚れ惚れしながら見つめていた。佇まいが酷くいいのである。阿弥陀堂が浄土なのだろう。此岸は池の反対側にある三重塔だろうか。目映いほど鮮やかな色彩の塔の居住まい。一つも欠けることがなく、一つも余計なものがない一堂伽藍で、私は境内の反対側から亡き主人ばりの絵を夢中になって描いた。如何にも下手糞であるが、悠久の時を楽しむように、妻はまんじりともせず境内を悠々と歩いて楽しんでいた。

 

 

 

 

 上は我がパステル画による阿弥陀堂 下が写真による阿弥陀堂

 

 

 多分ゆったりと二時間はいただろうか。さてそろそろ本命の石佛巡りをしましょうという妻の声で、惜しみながら美しい御時の雰囲気を醸しだす御寺を後にした。狭い村のなかを歩いて行くと岩船寺へと道標が見える。何故岩船寺から来なかったか、妻がいうには岩船寺からだと、急坂が大変だからだという。確かに岩船寺への参道へ行くと、直ぐに急峻な坂道へ出た。竹林の風がサワサワとしていて気持ちいい。奈良駅で買った柿の葉寿司を二人で静かに開ける。ペットボトルのお茶が身体の芯にしみわたる。小枝の先から燦々と照る光りは私たちを自ずから慶賀してくれている様子。一陣の風が吹き渡り、又再び坂を歩き始める。何か視線のようなモノを感じ、不図振り向けば不動明王の磨崖佛が。

 

 

 

 竹藪の坂道の奥に屹立していた尊大なる不動明王尊像(磨崖佛)

 

 

 あっと小声をあげ、私はその御尊像と対峙する。光りの明滅が彼岸とも此岸とも言えない摩訶不思議な空気感が漂う。よく見ると、花崗岩の岩肌に「弘安十年亥丁三月二拾八日於岩船寺僧○○○造立」と読める。この年号は蒙古襲来の六年後のことだと妻の解説つき。既に岩船寺の寺内に入っているのだという。石佛たちはそこらじゅうにあり、これら石佛に何やら神佛混交の匂いさえ感じてくる。このお不動さまには敵国撃退の願文でもあったのだろうか。岩船寺は真言密教の御寺であるが、承久の乱後、哀れにも兵火に遭い、すっかり消失してしまったが、元々は聖武天皇の勅願によって建立された大寺であったという。道理で大きな境内に違いないが、本堂はどうなっているのだろうと気が急かされた。そこで妻がいうには、これら多くの石佛さんは大工末行(まつぎょう)という帰化人の作だと。南都が平重衡によって焼かれた後、南都東大寺などの復興のために南宋から招かれた御仁にて、京田辺市の法泉寺に十三重石塔があり、それらは数少なく散見される程度だが、中々の石佛美術史を飾っているのだという。更に下って行くと、「右浄瑠璃寺、左三尊阿弥陀、みろくの辻」と書かれた道標があった。ここを境に、奈良から笠置街道・伊賀伊勢へと通じる古道だと説明される。何気なく次々に説明出来る妻に心強く思えた。うら若い女性がよく勉強したものだと改めて感服した。更に進んで行くと、畑の中、山上中腹に驚くべき巨岩がせせり出ている。近づいてよく見ると、何と磨崖佛阿弥陀三尊像ではないか。よくよくご機嫌のご様子で、三尊とも心から笑っていらっしゃる。中央の御佛は阿弥陀如来坐像で、定印を結んでおられる。座高80cmほど。向かって右は観音菩薩坐像で、この御佛も笑っていらっしゃった。向かって左は勢至菩薩坐像だろうか、蓮台に座って、この御佛も心から笑っているようである。何とも長閑な光景の中、人っ子一人いない静寂の中に私たちはいた。私たちもつられて微笑したままどのくらいいたのだろう。どの御佛も心底から笑っていらっしゃった御姿にすっかり魅せられ、時が経つのを忘れ、そこに二人では佇んでいた。その御三尊とは巻頭の写真の微笑佛である。そこの足許を見てという妻の問い掛けに、先ほど這い上がって来た土の階段の中途に、もう一体の小さな石佛が草陰に隠れるようにしてあった。遂最近までお隠れになっていらっしゃった御佛で、通称を「眠り地蔵さま」だという。どの御佛さまへも深々と頭を垂れ、佛道を成ぜむと、我発心し祈り給うた。

 

 

 

 上が磨崖佛阿弥陀三尊像の全体 左下にある通称「眠り地蔵尊像」 最近まで叢の中にお隠れになっていたという

 

 そこにどのくらいいたのだろう。二人は沈黙したままでも、どんなにか充足感があったのだろうか。阿弥陀さまの御前で二人してじっと佇んでいた。晴れやかな旅路。美しい長閑な光景。何一つもいらなかった。欲しくもなかった。満ち足りていた。そろそろ歩き始める。漸くやっとこさ岩船寺に到着。山門を潜ると、何とまぁ瀟洒な佇まいだろうか。浄瑠璃寺の半分もない境内だが、「花の寺」としても名高いようで、櫻爛漫たる時季や、紫陽花の頃や、紅葉の頃か、嫌そうではない。秋の初めの今時分であったと、そう思い出した。私たちを出迎えてくれたのは秋名菊だった筈と。

 

 本堂前にある秋明菊(貴船菊ともいう) 秋の到来を告げていた

 

 

 御本尊阿弥陀如来坐像、四天王立像、普賢菩薩騎象像、十一面観音菩薩像、薬師如来坐像、菅原道真像、弁財天像など、諸佛・諸天尊像が瀟洒な空間に居住まいし、まことに見事な大寺の風貌を感ぜられた。秋紅葉の時もいいですよと仰るご住職さまが直々に受付にいらっしゃった。私は古色蒼然たる岩船寺の印寡を頂戴したくなり、図々しくも揮毫をお願いしてみた。そしたら直ぐにいいですよと仰られて、堂々たる筆捌きで、「開一華五葉」と印字して戴いた。曰く「いっかごようひらく」と。「一輪の華が開くということは、生命の根源である地・水・火・風・空の五要素によって開いています。人間も万物の支えによって生かされているのです。その自覚をもって日々を過ごしたいものですね」とにこやかに仰って戴いた。何とも言えぬ感動を覚えた。堂内にはその他、最も奥に三重塔がキリリと立っていなさる。五輪石塔や、十三石塔や、石室不動明王や、厄除け地蔵菩薩さまや、目を瞑るとまことに大きな御寺が網膜の中に現出せられた。当然寺の外にある幾多の石佛群も想像の範疇に入る。江戸時代の御寺の縁起によると、聖武天皇が夢想によって、大和国鳴川善根寺に籠居していた行基菩薩さまに、一宇の阿弥陀堂を草創させたのが始まりであったらしい。弘法大師の姉の子である智泉大徳が伝法灌頂して、新たに報恩院を建てさせたとある。その後嵯峨天皇がこの智泉大徳に勅して皇孫誕生を祈願させたところ、霊験があらたかに、無事皇孫が誕生したのだという。その子は後の仁明天皇で、この恩顧に報い、広大な寺領を授け、皇后本願寺となって、弘仁四年(813年)に岩船寺として改められたと言われている。寺院の方々の立ち居振る舞いや、岩船寺の願主と書かれた多くの石佛群の壮大さを想像するに、容易に馥郁とした往時が偲ばれてならなかった。深く御礼を申し上げ、岩船寺を去ろうとした時、ちょうど村の方が来ていらっしゃっていて、よかったら奈良市内まで所用があるのでついでに送りますからと、軽自動車に乗せて戴いた。妻の身長は176cm、私の身長は185cmで、縮こまって座る私たちを見て、運転して下さっている御方から笑われたり驚かれなどしながら、しばし岩船村落のことや丘陵地帯に点在する石佛たちに話題が弾んだ。ちょうど日が落ちんとする時刻、直接四季亭まで送って下さった。何という魔法の一日だったのだろうと。春日大社一の鳥居脇にある奈良公園・四季亭で三階にたった一つだけある部屋・観月の間に落ち着いた。我が愛する部屋でもある。軸物は西大寺住職の堂々たる書。そして食事時久し振りに逢う女将のご挨拶などを受け、奈良・唐招提寺近くで焼かれた赤膚焼きの器で心行くまで懐石料理を楽しんだ。その夜、確か月は出ていなかったかも。会津八一先生の歌、「ゆめどのはしづかなるかなものもひにこもりていまもましますがごと」や、「義疏(ぎそ)のふでたまたまおきてゆふかげにおりたたしけむこれのふるには」など鹿鳴集歌を吟じ、いにしえのものおもひを蘇りさせたくなるほど、静かな、再び二人だけの夜。妻に何故当尾は京都府なのに京都の匂いがしないけど、どうしてと質問する。妻は東大寺や法隆寺の学僧たちが、この地を好んで必死に佛教の本義を勉強したためだから南都の薫りがプンプンなのえと。更に当尾を塔尾とも古来から呼ばれていたともいう。冷酒を交わしながら、妻の古い押し花のような薫りとは、何の花の押し花なのだろうかなぁと考えた。ラベンダーのような強い香りでは断じてない。酔いが程よく廻った頃、そうかぁと思い出した。足利義正の銀閣寺、あの銀沙壇脇にある国宝・東求堂に密やかにある香木の、幽かな薫りではなかろうかと思われた一瞬、妻の顔を見やった。そして可笑しいことに、その瞬間、相対して微笑佛のように妻が微笑みかけるものだから、咄嗟に目線が宙に浮いた。それから正対して透き通るような妻の肌をしみじみと見つめ直した。心地いい疲れが二人を包む。宇佐八幡宮を本宮とする六郷満山の石佛も、臼杵の磨崖佛も、その多くの石佛たちは何故神佛混交の古い薫りが漂うのだろうかと、その夜二人して興奮気味に長いこと話していただろうか。折角だからと、高野槇で出来た大きな木風呂に二人で浸かった時も、妙なのだが、議論のしっ放しであったことをよく記憶している。浄瑠璃寺から岩船寺まで、たった2キロの道程。それを丸一日を掛けたスローな散策の終わりは、確かに我が妻になる自覚が、彼女に現れ出ていたに相違ない。忙しさしか知らなかった男にはどんなにか救われたような思いがして、嬉しかったことだろう。

 

 

 岩船寺住職の揮毫 「開一華五葉(いっかごようひらく)

 

<ご参照に>世の中は広いもので、ネットで検索致しますと、「当尾の里の寺と石仏」がヒットしました。ご興味のある方はこちらもどうぞご覧あれ!

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「ハレ」と「ケ」 日本人の祭の原型

 

 

 

 藤島竹二 作画 『天平の面影』

 

 

 

 

                   「ハレ」と「ケ」 日本人の祭の原型

 

  二度の世界大戦を敗北したドイツに比べたら、第二次世界大戦のみによる敗北であった日本へ対する戦勝国の対応は、中でもアメリカの対応の実態はまことに寛大極まるものであったといっていい。安保条約によって日本は経済的繁栄と安全保障を手にし、冷戦後も経済的打撃は一切受けなかった。寧ろ冷戦時代、唯一経済的に成功した国家であったろうとさえ揶揄されていた。ところがあの不思議なバブルの喧騒極まる狂乱を経て、不図気付いてみると、内外環境の変化に気付き、今やその遅れはどうしようもなく決定的である。政府は訳の分からない政争を繰り返し、明らかに政治が弱体化し、日本国ももはや救い難いほどの内向き思考だけで、日本人は自信喪失して、よく「第二の敗戦」であると言われる。経済的に堕ちこぼれて行くだけではなく、戦後茫漠としながらもあったかに見えた唯一のナショナル・アイデンテティさえ完璧に喪失していたのである。そんな喪失感や不安感が今日の坂本龍馬不在とか待望論の逸る気持ちを、堂々と論じたくなるのが生来の気分であるが、先ずこの混乱した日本人像をよく観察し、自画像として凝視することから始めなければならない。第二次世界大戦末期、アメリカのフランクリン・ローズヴェルト元大統領が死去すると、ドイツのゲッペルズ宣伝相は罵詈雑言を浴びせていたが、日本の鈴木貫太郎首相は深く哀悼の意を表した。この時ドイツの偉大な文学者・トマス・マンがアメリカ亡命していて、トマス・マンは、未だ死んでいない日本人の武士道的美徳をとりわけ褒め讃えたと伝えられている。それでは武士道とは何か、又それ以前にあるだろう日本人のアイデンテティとは何ぞやを改めて冷静に紐解いてみたくなるのが早道なような気がしてならない。確かに9月2日は太平洋戦争の無条件降伏文書への調印の日であるが、長崎へ原爆が落とされた日に参戦してきたロシアが今年ウラジオストックなど方々で終戦記念日として大々的にセレモニーが行われた。由々しき問題である。57万人もの軍民あげた抑留者を過酷に扱った非情さを、私たち日本人の脳裏には決して忘れることが出来ないでいるからだ。ロシア人の精神的美徳とは何処にあるのだろう。北方四島を不法に占拠している正当性をアッピールしているに過ぎないのではなかろうか。

 さて日本人を語るとき、避けては通れない史書がある。他でもなく『古事記』であるが、『古事記』の発掘と今日私たちが読めるようにして貰ったのが本居宣長の功績であった。宣長の半生を掛けて書かれた『古事記伝』は、実に歴史的にはまだ浅い時間的経過であると言っても過言ではあるまい。『古事記』は、とある栄光時代の太安麻呂に仮託された、オホ氏や秦氏など新羅・加羅系氏族の栄光の原拠であり、それは彼らを寵愛し、「日本国」を興した天武天皇を頌栄する書であったことに間違いない。そしてそこにある「神話」とは、実は「天皇が日本を支配する正統性」を語ることだけを目的とした物語である。そしてそれを前提にして、オホ氏などの系譜が書き直されていた。そういう『古事記』を現在のような『古事記』とした読んだのが本居宣長である。『古事記』は漢字仮名交じりの書き下し文ではなく、立派な漢文であり、今の『古事記』の正体は、本居宣長の『古事記伝』中で初めて出現したものである。宣長は『古事記』に、「古言」たる「日本語」を見つけた。「やまとごころ」である。そしてこうした「日本語」とは、我が「日本」の固有性であり、「日本人」であり、「日本民族」であったと断定した。つまり宣長が見出したものとは「日本」の原型そのものであったろう。こうして宣長は、天皇と結び付いている「永遠の日本」を作り上げてしまってもいたのである。近代国家には「国民」を定義することが常に求められている。「日本人」とは何かを定義しなければならない。このとき、近代日本の焦った選択は、宣長の定義を真正面から形骸的に採用したのだ。これが今も続く私たち日本人の何処かに潜むアイデンティティー(自己確認)の原型である。『古事記』は確かに「永遠に天皇とともにある日本国」を定義はしているが、そればかりではなかろう。そしてこの『古事記』が、「近代日本の聖典」である由縁であるように曲解された。その証拠に、そこには、どこにも「人間」の誕生や、「日本人」そのものが描かれてはいないのである。

 日本を、確定的な平安前期からもっと遡らせてみよう。「日本」と「天皇」を宣言し、紀記編纂を命じた天武天皇まではひとまず可能である。それ以前は「倭(ヤマト)」と「大王」の時代となる。それでも推古天皇・聖徳太子の時代を経て、何とか応神・仁徳、それに雄略天皇の古墳時代中期(「倭の五王」の時代)まで、日本の始まりを仮に引き上げ得たとしよう。しかしここから先は真っ暗な闇なのである。ちなみに応神天皇の母は、紀記に従えば神功皇后であり、それは『魏志倭人伝』の卑弥呼のことだとの声は多いが、活躍年代に若干の差がある。すなわち、四世紀をもって日本の、つまり大王(天皇)の確たる足跡は途絶えるのである。では何故に「ニッポンは昔から日本」であるのか。私たちの「失われた輪」(ミッシング・リング)に残された鍵は二つある。「紀記」と「魏志倭人伝」である。実はこれらの鍵を使った日本の始原探究は江戸時代に始まったばかりなのであり、倭人伝の邪馬台国を、わが北九州あるいは畿内にありとしたのは新井白石である(卑弥呼を神功皇后とした)。記紀万葉こそ、対外的に発せられた正史があること、或いは天皇制の正当性を、各豪族や蝦夷や隼人に対して定義づけられたものだったに違いない。

 民俗学とは昔の研究であっても、そこは習慣・習俗の研究であるから、常に変遷するのが当たり前で、勢い鎌倉時代から始まったとか室町時代から始まったとか、うっかり断言出来ないものがある。明らかに現在に伝わったいる習慣・習俗そのものを研究する分野である。従ってより実証的となると一層慎重であらねばならない。ただ記紀万葉にも既に垣間見れる「ハレ」と「ケ」の概念はどうやら限りなく古めいていて、深い興味を抱かざるを得ない。原始宗教はアミニズムであると同時に、極めてハレかケの感覚が旺盛だからであろう。そこに原初的な日本人の感性が潜んでいるのではなかろうか。それではハレとケの概念は、どんなものだろうか。先ず注目を要するのは時間的な流れであろう。まさしく円環的時間論に基づいているものである。円環的時間論というのは、世界は始まるが、一定期間が経ったら崩壊し、再び再生するという、時間が同心円を螺旋状のように回る世界観のことである。そこには本質的な「進歩」や「発展」はない。弥生時代には無論ハレやケの感覚は備わっていたと思うが、もう一つ冒険して縄文時代まで遡れないだろうか。と、いう浪漫を、筆者は抱いてしまうのである。

 この時間的観念に対するのが直線的時間論である。世界は一度始まったらもう元には戻らず、絶えず変化していき、最後は崩壊を迎えて終わるという、一回限りの一本の時間軸が延びた世界観である。現代に棲む私たちもまた後者の時間論の呪縛の只中にあることは言うまでもない。この世界観は、実はやや特殊なものであり、ユダヤ-キリスト教の世界観(神による世界創造~終末と審判)に基づくものである。なぜ直線的時間論が特殊なものであるかと言うと、この時間論を担うキリスト教的ヨーロッパ文明が全世界を席巻するまでは、世界では円環的時間論がむしろ圧倒的であったからだ。例えば、東洋的な王朝の時間を考えてみよう。まず、王の死が世界の崩壊である。新しい王の即位は新世界の誕生、世界の再生なのである。年号とは本来そういうものとしてあった(暦年主義の「西暦」と比較されたがよかろう)。王朝の交替という、より大きな事態では、全くもって世界秩序の作り直しなのであった。

 話を少し戻すが、人間は自然の一部であり、自然とともに生きてきた。そういう人間が自然の姿を見て、また自分たち自身の有り様を顧みて、どういう世界観をもったかは自ずからで明らかであろう。世界にあるあらゆる生き物は生と死によって明滅し、子は親をまねるように生きてきた。原初的、原型的な世界観が円環的時間論にあることは間違いない。実際、直線的時間論を自明にして生きる現代人である私たちでさえ、いまでも基底的には円環的時間論を生きているのではなかろうか。時間とは世界であるが、例えば「正月」は一年という時間の始まりであるとともに、世界の誕生(再生)である。生の前には死がある。大晦日の夜の、あの何とも言えぬ時間のやり過ごし方は「死」の体験でなくて何であろうか。それが証拠に、年が明けた新年の挨拶の晴れ晴れしさはどうであろう。一年自体が、生と死をくり返しているという感覚が、ハレとケに通じる。もちろん、一日や一月も生と死をくり返している。これを天に転じれば、太陽が、そして月が生き死にし、円環的時間をくり返しているのである。私たちも、一生涯の中で絶えず生き死にしている。放っておけば、生は崩壊してしまう。生エネルギーを補充し、再生行為をくり返さねばならないのだ。これが円環的時間論に棲む人生観である。

 ではいかにして日本人は、生涯の中で生エネルギーを補充してきたのであろうか。それは祭りの日に、神から得てきたのである。祭りの日こそ晴れ(ハレ)の日である。いまでは祭りとは見せ物となったものを言うが、しかし本来は、正月や盆、節句、農耕儀礼など、神と交渉をもつ様々な機会のすべてが祭りである。すなわち、これがハレの日である。祭りの本質とは何か。神話の再演、世界の始まりの時間を神と一緒に過ごすことにある(神人饗応)。そうしてから改めて原初のエネルギーを得るのである。その具体的な象徴行為が餅(米)を食べることだ。これはただの米ではない。神に捧げる食べ物を御饌(みけ)というが、これをおすそ分けしたケ(食べ物)である。神のエネルギー源と同じものを食べることで、ケ(生エネルギー)が充満するのである。これがハレる(晴れる、張れる、春、満ち満ちる)という意味になる。なお、御酒(みき)の場合も同様であるが、この「水」は変若水(おちみず、若返り、再生の水)となる。

 さて、話は変わる。ヨーロッパには円環的時間はないのか。キリスト教の普及以前には円環的時間論のケルト・ゲルマン文明があった。実は、ヨーロッパにも円環的時間が基底的に生き続けている。マリア信仰は今世紀になってローマ教皇に認知されるまでは「異端」の教えであったが、これは古代信仰の大地母神の偽装形態(カムフラージュ)である。さらに、キリストその人の誕生日であるクリスマスは、古代以来の冬至と正月の祭であり、その復活祭(イースター)とは春分祭(春祭り)に他ならない。つまり、キリストの名を借りた伝統的伝承的な太陽祭なのである。「復活」とは太陽(一年)の再生であり世界の再生である。復活祭に先立ち、謝肉祭(カーニバル)が行なわれる。最も有名なのがリオのカーニバルであるが、ご存知の通りサンバのリズムに合わせたらんちき騒ぎである。このどこがキリスト教的なのだろうか。その本質は円環的時間論に基づく祭りなのではなかろうか。ところでブラジルとは興味深い国である。インディオの土地と人々を16世紀にポルトガル人が植民地とした国であるが、その後、アフリカから多くの黒人奴隷が移住させられた。その結果、白人、インディオ系混血人、黒人が共存する国となった歴史を持つ。彼らの共通の信仰はキリスト教であるが、特に後二者の信仰は意識せざるカムフラージュであると思われる。インディオ、黒人たちの信仰の深層にはそれぞれの円環的時間論の神話があった筈である。リオでのカーニバルの盛大さはこの抑圧された神話の噴出と考えねば説明できるものではない。再生の前には「死」がなければならない。その「死」の期間に行なわれるのがカーニバルである。そこは非日常、いや反日常の時間、人の時間ではない神の時間となる。世界の秩序が誕生する以前の混乱状態(カオス、非・反秩序)を、カーニバルとして再演しているのだ。すなわち、誕生前の世界はこうあったという神話である。そして、祭りの終わりとは、秩序(コスモス)の成立(回復)、世界の誕生(再生)を意味することとなる。

 日本にも「カーニバル」はある。祭りの中で、人の時間ではないときがそれである。ケ(日常)の正気や秩序を失うとき、人は神の世界にいる。本来の祭りのクライマックスは、酔いつぶれることである。これもカオスであり、非-人知、神に近づくことなのである。また、盆踊りもそうしたものである。郡上八幡など一晩中、踊り明かすことが神憑かりの時間なのであろう。ハレとは、日常(人の秩序)を超えた時間、神の時間である。そして、祭りとは神話の再演であり、世界の死と再生なのである。今風に翻案すれば、日本がハレの日を迎えるのか、ケのままで無為に過ごし借金大国として後世に汚名を残すのか、二者択一の節目の時代なのである。

 

 

 富士遠望 山室山の図 本居宣長

 

 

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初秋の月

 

 

 いわし雲 東京・渋谷の天空にて 平成22年9月3日午後四時

 

 

 

 

                      初秋(はつあき)の月

 

 

              世界はいと静かに

              涼しき夜の帳(とばり)に睡り

              黄金(こがね)の魚一つ

              その差延べし手に光りぬ、

              初秋の月。

 

              紫水晶の海は

              黒き大地に並び夢みて、

              一つの波は彼方より

              柔らかき節奏(ふちどり)に

              その上を馳せ来る

 

              波は次第に高まる

              麥の畝の風に逆らふ如く

              さて長き磯の上に

              擴がり、擴がる、

              しろがねの絹として、

 

              波は幾度もくり返し

              奇しくも光の魚を抱かんとす

              されども網を知らで、

              常に高く彼處(かしこ)に光りぬ、

              初秋の秋。

 

     與謝野晶子詩集』 <初秋の月>より

     Atelier.Sumire.Gingetsu.Books  早川茉莉氏 編集・出版の美しい単行本から

 

 こんな猛暑の、密やかな初秋に、いわし雲出で来て、少しばかり秋の気配を感ず。謝野晶子の全詩全歌はシュールにして、今も生き生きと通じいぬ。それを知らしめたる熱意ある女史に深々と敬意を評し給ひけむ。尚、昨夜は下弦の月にして満月はいまだし。満月の出で来たる、9月22日を今から遠からじと心待ち心待ちすなり。釣り竿を、夜の川面に垂らし、魚ではなく、川面に写る月を釣らむと欲した晶子の心根、その心魂がいとおしく美しい。

 

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おもひは風の盆

 

 

 伊勢の神宮における「風の盆」の奉納

 

 

 

おもひは風の盆

 

 

気象庁の発表で、今年の夏の暑さは113年ぶりとか。それもアッサリ更新しまいそうで、都会の真ん中にいる私たちは

本当にウンザリしています。多分9月の中旬までは続くことでしょう。皇居から東京駅に至る廣い道路は御幸道路と申しますが、

ヒートアイランド現象に対応する新たなアスファルト舗装にする計画です。渋谷でも、あちこちで溶岩で作られた対応策が、

現在進行しています。都心に緑を多くする取り組みも急遽進んでいるようですが、地球温暖化対策はもはや喫緊の課題でしょう。

 

ヒグラシのカナカナという鳴き声は朝晩の冷えた時しか鳴かないのですが、今年はメッキリ少なくなっています。

日本の外環では台風が三つも揃っているのに、本州に張り出した太平洋高気圧は一向に衰えを見せません。

いっその事、台風一過あってもと願うのですが、しばらくはそれすらも望めないでしょう。或る意味で憔悴しきっています。

 

三年前、9月初旬の越中おわらの風の盆、私たちは新婚旅行を兼ねて八尾に行って参りました。妻はほぼ完璧に踊れるので、

どんなに風の盆が楽しかったことでしょう。井田川、狭い町を流れる堰の清らかさ、酔芙蓉、町流し、陶酔して弾く胡弓の泣くような音色、

仄かな雪洞のあかるさ、早乙女の美しさ、城ケ山に通じる階段で話し合っている元恋人同士、その後彼らは朝まで踊り明かしたという。

白々と明けた路上に、幾多の祭の残骸。甲高い歌声と、女踊りと男踊りの妖しい交差、余韻は果てることなく続いたあの宵。

今夜、夕餉のとき、妻が戴いた八尾の衣装に正装して優雅に踊ってくれました。私は篠笛で作曲した風の盆を吹きました。

子供たちは目を白黒、父も叔母もいたく歓んでくれました。私たちに未だにその余韻に浸っています。

 

明けて、明くる朝、井田川の河原には確かにグミの実を観ましたね。たわわに実る稲の穂も。明けて更に白くなった酔芙蓉の花も。

四季の移り変わりや農作業を踊りにした先人先哲の凄さ。毎年このブログで風の盆を書いているに、まだまだ書き足りませぬ。

あの美しさゆえでしょうか、尽きぬ話を出してしまうことの歓びと、過ぎ去りし日の多くの亡き人への、面影と追憶と。

 

越中おわらの風の盆  本お祭は9月1日~3日まで 去年長男大風が 9月3日に生まれた 満一歳になる大いなる歓び!

 

 

 風の盆 風景 女踊りや男踊りや 町流しなど

 

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真鰯の手料理

 

 

 サンマのような大きさで丸々と太ったとれたての真鰯 一尾70円につき 30尾ほどデリバリーして戴き 鰯尽くしの手料理を

 

 

           真鰯の手料理

 

 今年は異常気象のため、サンマが南下せず、どうやら不漁らしい。確かにサンマ一尾700円とあったから聊か驚いてしまった。その代わりに、鰯が豊漁で凄いらしく、小さな鰯などは肥料にするために、お魚屋さんで生で売られるは少ない(フライになっているようだ)と言っていた。当家から我が母校の高校へ向かって歩いて行くと、広大な有栖川宮記念公園がある。広尾には小さな幼児公園は全くなく、殆ど麻布地区にあるので、杏との散歩は港区まで遠征することになるのだが、この辺りは渋谷区と港区が混在している場所でもある。日比谷線広尾駅から行く有栖川宮記念公園は渋谷区と思われがちだが、存外港区になり、広尾地区ではない。でもここは無料で年中無休だから、ついでによく散歩に行く場所でもある。更についでに行くところが、公園前のナショナル麻布スーパーである。このスーパーはもともと外人向けに創業されたスーパーだが、生鮮食料品が充実していて、今や日本人の来客が圧倒的に多い。表参道の紀ノ国屋まで行けない場合は大抵ここで済ませている。購入額が一万円を超えると自宅までデリバリーをしてくれるので、散歩の途中でも、何かの用足しのついででも寄れて大変有難く思っているスーパーである。して今回は大量の真鰯を購入。他に妻が大好きなイタ飯用の具材と、大量の生姜やナンプラーなど若干の調味料や叔母用のボルドー産のワインなどであった。ところでマーボー茄子を作るんでもカレーを作るんでも、今は何でもかんでもすべて出来上がった調味料つきの具材が、どうにも気に入らない。まるで既製品そのものを食べているようなもので、一億総同じ味覚になっていやしないか。どうも気になって仕方がない。カレーなど、自分でアレコレ考えたスパイス数十種を使って、オリジナリティ溢れるカレーを作るのが本当だろう。尤もマツタケ味のお茶漬けのもとはイタ飯のパスタには直ぐ使えて重宝であるが、何か違うんではないかと思われてならない。

 

    <真鰯尽くしの料理~今回作った分 調理時間約一時間>

 つみれ汁  手開きした真鰯五本、頭も尾も鱗もハラワタも背びれも取り中骨も取る。小骨は多少あっても構わない。主に魚肉だけを手で粗く潰す。擂粉木は敢えて使わない。そこに生姜汁を入れてから胡椒や塩も入れる。浅葱三本ほど微塵切りにして魚肉と合わせてから練り込む。但し粗い状態までしか練らない。よく繋ぎに片栗粉などを使うが、粗微塵など手触りで団子状態になるのが分かるので、片栗粉や卵など繋ぎは一切使わないで出来る。そして大匙でお団子を作っておく。汁は八方出汁に塩・胡椒・生姜を多めに入れてヒリリとした味にする。隠し味に薄口醤油と料理酒少々。汁が煮立ったら、お団子状態の真鰯を投入する。お団子が浮いてきたら出来上がり。お椀に盛り付ける時、カボスを絞り、白髪葱を上から添える。或いは結び三つ葉や細切茹で人参など。

 真鰯の蒲焼き  六本の鱗を取り手開きし、ハラワタや頭や中骨を取る。尾はそのまま。全体の水分を取ってから、薄く塩・胡椒し片栗粉をまぶす。余分な片栗粉は手で叩く。天麩羅を揚げる要領で、具材を冷やしてから揚げるとパリッと仕上がる。タレは醤油・料理酒・味醂などを同割で煮込み濃厚にする。生姜汁を最後に足してタレは終わる。タレに天麩羅状の真鰯を浸し、出来れば炭火(なければガスコンロに網を遠火の強火にして焼く)で若干でいいので炙ってから、お皿に盛り付けして終了。香ばしい香りが食欲をそそる。紅生姜などをあしらう。

 お造り  四本の真鰯の鱗を取りながら尾から皮を剥ぐ、手開きしてから、ハラワタ・頭・尾・背びれを取り三枚下ろしにする。布巾などでよく水気を取る。半身を三分割し、包丁目の切り目と反対に二三づつ包丁目を付け(醤油が乗りやすくするため)、盛り付けは大皿に青い紅葉を敷き詰め、そこに並べる。カボスの薄切りを整然と切り身の上に乗せる。夕顔や南瓜の花芽などで飾り、山葵・赤芽・浅葱などを添える。

 真鰯の生姜煮  五本の真鰯の鱗を取り頭と尾とハラワタを取り、大きい鰯なら三分割に縦に筒切りにしておく。中骨はそのままでも充分に柔らかく食べられるようによく煮える。小さかったら二分割に。鍋に水カップ1,5杯、醤油大匙4、砂糖大匙3、薄切り生姜2片を入れ、アルミホイルを適当な大きさで落とし蓋を作り、荷崩れしないように中火でじっくり炊く。汁が三分の一になったらアルミを取り、汁をすくいあげながら煮詰めて行く。汁がなくなり、トロリと濃くなったら、火を止めて盛り付ける。深めのお椀がいいだろう。木の芽か針生姜を上に乗せる。

 ナメロー  通常のナメローは鰺で作るのが一般的だが、今回は真鰯にて挑戦す。三本の真鰯の頭を落として尾のほうから皮を剥ぎ(頭からは剥がれない)、三枚下ろしにする。切り身を包丁で叩いて粗く切る。浅葱10cm2本・生姜2片・青紫蘇3枚を微塵切りにする。その両方を混ぜて、更に細かく包丁で叩くように切る。味噌大匙3を混ぜて更に細かく叩く。木の葉のように平皿に盛り冷蔵庫で冷やしてから出す。レモンかカボスの四半欠けを添える。冷やしたナメローは冷やしたお茶で、そのまま掛けてお茶漬けとしても食べられる。

 サラダ煎餅で竜田揚げ  安いサラダ煎餅を細かく砕いて衣に使う。残りの真鰯全部を使用。頭・ハラワタ、背びれを取って三枚下ろしをし、薄口醤油・料理酒・胡椒などのタレに10分ほど漬けておく。その後高温の油を準備し、サラダ煎餅の粉をまぶして揚げる。白胡麻や黒胡麻で揚げる場合も同じ要領。盛り付けはトマトの薄切りや胡瓜の小口切りやレモンやカボスを敷いた上に乗せて出す。

 もっともこの他に、一番ポピュラーな塩焼きや、真鰯のハンバーグ、ワイン蒸し、真鰯の酢の物、酢味噌和え、ぬたなど各種出来て、極めて調理し易いものである。鱗を取らなくてもいい焼き魚や中骨を取らない調理などがあるが、皮剥きの場合、身のほうをよく指で持っていたいものです。魚の臭みには生姜とお酒が必須で、下拵えだけ充分にすれば、家のチビたちだって充分に食べられるから嬉しい。現在の旬は真鰺だが、真鰺の場合も、鰯と同様の調理法でいいかもしれない。冬場に取れる小さな片口鰯などは、私は大抵塩辛にして食します。父は冷酒でナメローを、妻はご飯で生姜煮を。子供たちはサラダ煎餅で作った竜田揚げや、何と何と真鰺の骨煎餅をポリポリと、嬉しくなってきます。お魚を調理した後は酢漬けのラベンダーで手を洗うとまぁ不思議、全く臭いは何処へやらです。この猛暑より暑い暑さは、辞書で引くと「極暑」というらしい。多分来月の上弦の月(15日)まで涼しさは期待出来ないでしょう。何処となく秋の気配がないわけではないが、せめてお安い鰯でもたくさん食べて元気いっぱい乗り切りましょう!

 

 

 

 真鰯の生姜煮            ナメロー              つみれ汁など

 

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花塚

 

 

 八月につける来期の櫻芽(はなめ) 葉は紅葉し落葉するが 花芽は寒さにじっと耐えて春を待つ

雨や風や嵐に耐え ひたすら春の花の時季を待つこれら花芽たち この辛抱強さに教えられることのみ多い

 

 

 

            花塚

 

 当家の小さな庭の片隅に、二坪ばかりの雑草とともに花々がいつも咲く塚がある。亡き母の遺髪の他、母が愛した愛犬や小鳥や、僕が愛したアフガン犬や、代々愛玩した生命体の数々が埋められている。父は母が残した花々や小品盆栽を地植えにし塚にした。それが当家でいう花塚である。一見雑草ばっかりのように見えるが、なかなかどうして四季折々の花々を咲かせてくれる天然の花園のような、よく出来た小さな塚で、私はこの家を出て主家に入った後も、時折ここを訪れたものである。この塚を最初に創ったのが父だが、掘り返してみると様々なもので溢れていて、掘るのにしのびない。直ぐ泣けてくるからである。柿渋で染め上げられた楮の和紙に包まれた母の遺髪は、何だか今も生きているようである。1mほどこんもり高くなった花塚には、父のある種の、堅い意思があったのだろう。思えば、昭和20年3月10日の下町を中心にした米軍による絨毯爆撃は相当にに酷いものだったらしいが、ここら山の手も5月23日に焼夷弾やら機上からの撃やらの大空襲によって、私の本来の実家である白金の家が全焼した。僅かに残ったのは広尾の曽祖父たちが住んでいた宅のほうで、生き残った者たちは皆この家に身を寄せて暮らしていたようだ。戦後間もなく父は近衛兵から役所に編入勤務し、大學卒業と同時に外交畑を歩んでいる。遅い結婚であったが、うら若い母と一緒になって、白金に残った盆栽や、貴重な歴代の焼け焦げた遺品の数百点を収拾し、この広尾の家に大切に保存したらしい。そして新たに新築された年は昭和24年の春であったという。遺品には殆ど焼けた跡が決して消えていない。母との新婚時代から父は殆ど自宅には帰って来ず、場合によっては数年も帰って来ない時があったようだ。対外大使館や領事館などに勤務したためである。当家の盆栽の殆どは母が子供をあやすかのように、水遣りや剪定や植え替えなどを小まめにやっていたものらしい。然も母は当時珍しかった小品盆栽なども手掛け、それなどは日に三回も水遣りをしなければならず、従って今は武蔵小金井に引越した植木屋さんにお手伝いを依頼した模様だ。なかなか子供に恵まれず、諦め掛けた挙句に私が生まれたわけである。夫婦揃って各国を移動する慣わしが本来だが、父はどの国へも戦場に行くようなものであると言って、断固、母を連れて移動することはなかった。父は父なりの深い感慨があったのだろう。

 私が生まれて、たった十年ちょいと過ぎた頃、夏の朝顔市の帰りに、大きなトラックに轢かれ、母は即死した。上野署から連絡を受け、私は慌てふためいて役所の父に電話すると、重要な会議中だからといって、近所に住む叔父と同行し立ち会うようにとの指示であった。私にはそれが頗る情けなく思い、叔父には電話だけして、タクシーで事故現場の上野広小路まで急いで向かった。シートの下で哀れな姿で路上に横たわっている母を見て、ワァッと泣き喚いた。散々泣いた後に父も駆けつけたが、何故か泰然自若としていたことを今もってよく覚えている。粉々に砕けた自転車と右半分の顔に、車両の後輪に踏まれた青痣や窪みは決して忘れることはが出来るものではない。何処にでも自転車で行って、行動的で快活な母はその日を境にプツリと消えてしまった。どうやら夏になると毎年淋しく情けない気分になるのは、終戦記念日や原爆慰霊祭のためだけではなさそうである。父は、母の亡き後、悉く反抗した私に散々持て余していたのだろう。でも私が料理し父に食べて貰うことだけはやった。お弁当も作った。私立A中学高校を卒業し、T大學建築学部に入学すると間もなく私は家を出て、亡き主人のお父上さまの書生として一番町のお屋敷に寝泊りしていた。在学中からビル設計などをやらせて貰い有頂天のような日々を過ごしたものだが、実家の父は、遂に役所を辞め、山の仲間たちと日本全国の山歩きを始めた。孤独だったようである。外交官時代にはアルプスの山々やキリマンジャロなどの幾多の世界の名峰の山登りをしたようだが、詳細なことは分からない。口数が少なく、まるで禅坊主のような人だからである。

 主家に大きな変化があった。書生していたお父上さまや母上さまが相次いで亡くなられ、オマケにたった40歳の享年の、我が主人まで、私は失ってしまった。何ということだろう。そんな時丸善で偶然に手にした本は『The Return of the Prodigal Son~Henri.J.M.Nouwen ヘンリ・ナウエン著~』であった。レンブラントの「放蕩息子の帰郷」の絵から着想を得たナウエンの魂の遍歴の書であったが、これには痛く感銘させられた。クリスチャンでもない私だが、きっと父は私が実家に帰ることを喜び赦してくれるに違いないと確信したようなものだった。結婚前後、報告も兼ねて私と妻と父が何度か逢って、そのうちに父が相当に妻を気に入ったようである。子供に恵まれず、旦那さまを亡くしてから実家に入って来た父の妹、つまり叔母だが、叔母もまた相当にお気に入りの様子であった。父子の問題は特別な話し合いもなく、いつしか氷解したのだろうか。そして父にとって最初の孫が生まれた。そんな父が相好を崩すのは、二人の孫と遊んでいる時と、我が妻と話す時だけである。父と私は未だ何処かに打ち解けない部分があるのだろうか。きっと共通した深い哀しみを分かち合っているからであろう。父だって再婚話をすべて断っているし、母をどれほど愛していたかは、私にはよく理解し分かる話だ。母の遺体との面会の時も、火葬場で穏亡(おんぼう=お棺に火をつけたり見守る人のこと)の焚く煙の天空に上がる様をまるで幽霊のようにじっと虚空を眺めていた。静かで永く深く悲しむのが父の流儀なのだろうか。無論私にだって言い知れない哀しみに満ちていたが、父に僅かな声さえ掛け辛かった。特に我が妻に対するその可愛がりようったら、全く見たこともない表情で、私の妻が最もお気に入りで自慢の種らしい。母とは似ても似つかない妻であるが、若かりし日を思い出すからであろうか。妻から史学の話を聞く時の居すまいは、まさに驚嘆に値する。どうあっても可愛いらしく、時々妻の気に入りそうな和服や小物などを買って与えるのが、山登りや盆栽以外に、唯一の趣味であろう。妻は妻で、父を親しく呼ぶものだから、父はまるで亡き母との思い出を重ね合わせるように、信じられないぐらい快活に返事をする。京都の実家に帰ろうとしない妻を格別に慈しんでいるかのようなものである。

 

 

 愛用の作務衣と眼鏡と、ミントを挿した麦藁帽子と

 

 

  イクメンとは育児をする男性のことらしいが、我が子であれば当然のことで、私の場合、妻の事情もあってやや逸脱しているかもしれない。殆ど我が子とともに棲息している風である。妻は二つ目のドクター号獲得に奮闘しつつ、品川の我がマンションで孤軍奮闘しているが、東京大學史料編纂所の存在も大きいのだろう。神田の古本街でもいい顧客の一人になっているようで、新発見の古文書など、古書店から持ち込まれると、欣喜雀躍として喜び、私から毎月渡される小遣いの大半をそれに当てているらしい。学問を続けるのが結婚の条件でもあったのだから、当然のことのように妻の学問を最後まで支持し続ける所存。もう一人か二人の子供が欲しいと妻は強請るのだが、長女と長男がもう少し成長してからでもいいのではと私は思っている。だが父は何人でも作って貰えれば、そんな果報ものだよと頻りに妻に賛同している。処暑も過ぎたというのに、東京も猛暑日が続いている。櫻塾の後半も始まった。太陽がカンカン照りの中の花たちは皆首を項垂れ、辟易としているかのようである。子供たちに汗疹も出来ず、毎日簡易プールに浸って大騒ぎだが、杏は何故か弟と一緒に入るのは厭らしい。杏は一人天国が絶対に好きのようである。

 

 

 

 杏のお気に入りの絵本たち 「エルフさんの店」は別格にして 殆ど輸入本を親しんでいる

 

 

  ビアトリクス・ポターの絵本を原文で読み、簡単な日常語も、杏はタドタドしいが、英語で話せている。24話中、最初の「ピーター・ラビットのおはなし」と、「アヒルのジマイマのおはなし」などを特に気に入って何度でも読まされる。そして最後は高柳佐知子先生の「エルフさんの店」で、杏の満足な読書が終わる。エルフさんのお話には色んなエッセンスが入っているから面白いのだろう。更にどうかなぁと思って見せたRenee Zellweger(レニー・ゼルウィガー)主演の映画「Miss Potter(ミス・ポター)」では本に出て来る動物たちが実際に生き生きとして動く場面があるので、杏のお気に入り映画となっている。ジブリ作品も幾つか見せたが、以外に「崖の上のポニョ」は好きではなかった。何と杏は「となりのトトロ」の大ファンなのである。どっちみち動物たちが大好きで、チョコレート色したトイプードルの自分の犬の名前もお気に入りの、トトロの姉妹サツキとメイからの、メイが好きだと言い張ってメイと名付けて可愛がっている。弟の愛犬はコーギー犬だが、まだ名前はない。単にワンちゃんとだけ言って、杏は決して面倒を見ないようだ。割とそこが一途で冷淡な部分は妻似なんだろう。弟は火の出る瞬間湯沸かし器のような存在で、表情が常に変化して飽きることはない。時折ワンちゃんと遊ぶのだが、直ぐに飽きてしまう。興味がクルクル変幻して自在なのだ。いずれにせよ、それら愛犬たちは当然ながら自分たちより逸早く花塚に入れられるようになる。そうなれば、「無常」を始めて知り、切なさも初めて認識するだろう。昨日まで「はぜらん」が満開であったが、現在は白い鉄砲百合が満開になり、花塚は何かと賑々しい。我が家での花塚はそれぞれのイノチの讃歌を絶唱している。花塚には哀しみだけではなく、多くの歓びも充満しているかのようである。

 

 

 花塚付近にある紫陽花の終わり花 意外と美しい ドライフラワーにして彩色する手もあり

 

 

 盆栽苑の傍にある藪のような花塚の花たち ここに色んな哀しみや歓びが優しく埋められている

 

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同意と正義

 

 

 キツネノカミソリとハゼランとラベンダーと

 

 

 

               同意と正義

 

 

 私は或るお約束をしながら、或る若いご夫妻に対し、現在大きな罪を犯している。彼らの留学に一定額の援助をするという約束であったが、その間を取り持つ人物と重大な諍いが出来てしまって、未だに履行出来ていない。幾らネット上でのことであっても、或いは口頭での約束であっても、それらは一種の契約に違いないし、約束は守らなければならない。その約束自体を、私は別にちゃんと考えていたが、私の想像を遥かに超え、中間にいるそのお方が各ネットのコメント欄で大騒ぎを始めたことから諍いが始まったのである。履行するのが遅いということ、イライラして待っているということを、彼が書き易い女性ブログ中心に書き始めた。私が実現に向け、どんなに苦心惨憺しているか、他を思い遣る心が皆無で、私は酷く驚いてしまって、深手を負った。東京には化け物のような大金持ちが幾らでもいる。私もそれらの方々と同じ人種だと判断された結果なのだろうか。このところの貸家賃料の下げ続けた結果でもあったが、私がそれまでに準備出来た彼らに対するお約束の金額が少し及ばなかった。八割は用意出来たが、どうしても今年の、父からの生前贈与分の税金が予想外に高く、アレコレ思案し工面している最中だった。私は決して感情的にキレたわけではない。よく考えてみると、どうしても中間にいる彼らの父親の所業が断じて赦せなかった。こんなに苦渋し難渋しているのに、勝手ばかり言っているのかと愕然としてならなかった。然も片務的なこの約束で、我が結論を待つ以外に何の方法があるのだろう。

 というのも、彼に対して過去二年間、普通では買えないような高額な日本酒を贈り続けた。須藤酒造の『花薫光(かくんこう)』などは一升二万円でも買えない代物である。安いものでも出羽櫻酒造の『雪漫々(ゆきまんまん)』で、一万円で二升は買えない。富山・銀盤グループの『米の芯(こめのしん)』だって、そこらのサラリーマンでは普段飲めるものではない。二年間にわたり、ほぼ三週間おきに贈り続けた(一回につき二升~三升)のだが、或る日、ブログに対する彼のコメントから、私は驚き、ピタリと贈答酒を送るのを止めてしまった。どうしてそうなったのだろうと、多分今でもご本人はチットも分かっていないだろう。つまりこうだ。一般的に契約とは、一種の『哲学的同意』があってなされるものである。アリストテレスの言う倫理観に基づくものでもあろう。然しだ、常識的に言っても先ずあり得ないだろうことを、平気の平左で受け取るようになっていた。受け取るのがアタリキシャリキであるかのように。それは私のブログにコメントを書く代償のような言い草であった。私は愕然とし、この無償の行為を止める切っ掛けになった。二年間で送った総金額だって相当なものである。いや金額の話などどうでもいい。この時無言の、阿吽の信頼の糸がプツリと音を立てて切れてしまったのだった。私の言う『哲学的同意』とは代償など全く存在しないものでしかあり得ない。寧ろ無傷で無償の交流でしかない筈であり、だがその、あり得べき倫理観に基づいた『哲学的同意』の部分が、ガラガラポンと音を立てて崩れ去った瞬間だった。そうか、この方の正体とはかくなる卑俗なものであったかと、聊か驚いてしまい、急激に我が意が引いてしまったのだ。

 お約束の対象の方は、その方の次女さんである。彼は、今でも毎回必死に多くのコメント欄に、他人の創作である詩人の詩とともにコメントが書かれているから、鋭い方はお分かりだろう。お気楽なものである。そして次女さんたちは年に一度パリから京都まで帰って来るそうである。そんなお金があったなら、とっくにニューヨークでも何処でも行けそうなものであろう。次女が哀れと、事情を何も知らない他の方のブログに、それこそ無関係の女性陣に同情を頻りに買い続けている。密かにメールを送るは、直接逢った場合は誰彼なく直談判をし、ブログ上で私へのムラハチブに強要するはで、本人が知らなくても、いずれは知れることになるだろうことも殆ど判別出来ていない。幼児以下の知能である。恐ろしく無作法な方と、無言の同意と言う契約をしたもんだと我ながら呆れて嘆いたことだ。そこで私はバッサリと、この話しを打ち切ったのだ。正義の上から私のほうが圧倒的に不利であろうが、あれから数ヶ月経った今でも、得意のコメント欄中心にタラタラと文句を零している彼の風体を読むにつけ、正義に反してまで採った我が結論に、聊かの不備もないと断ぜざるを得なかった。私は心の底から彼を嫌いになった。我が霊感が働いて教えて戴く無くとも、文章を読めばピタリと分かることがある。それは「四柱推命」「易学」「気学」からであり、そこから判断し彼の運気をみると、間違いなく「八白土星」の星廻りで、リーダーシップがあり、明るく聡明で繊細な神経の持ち主だが、最も忌むべきことは彼の持つ大いなるハッタリ性が根源にあることが分かる。跡継ぎ運からも遠い。更に彼の誕生月日まで分かればもっと詳しく分かる筈だ。つまり今までの人生で我侭放題しながら、自身の奥様をどんなに泣かせてきたのだろう。殆どの現役の時はそれで通してきたのである。娘たちに対する彼の深謀遠慮は、彼の人生の今までの贖罪でしかなく、本当に次女を思うならば、他人に頼らず、敢然と断酒し僅かながらでも仕送りするのは本筋であろう。馬鹿も休み休みにし、タイガース応援で大酒を飲みながら熱狂している場合ではないだろうが、好きなことでも決して止められる筈はないのが本来の人の親である。先ず己が大事であるというのは、『哲学的同意』は決して成り立たない。試しに彼のブログを明けてご覧あれ。全部開けられるのに、凡そ10分も掛かる。たった一つ壁紙の交換だけで、それがスッキリ解消し、信仰深い彼の読者にとってどんなに楽になることだろうか、ご存知の筈なのに何もしやしない。無論余計なお世話だが、恐らく重厚感を出すためであろう。日々のブログも全く変わり映えしない。古語らしい文言を駆使し風格を出そうと躍起だけで、戦時中疎開をしていた第二の故郷に思いを馳せているに過ぎない。つまり思い出だけに生きているのだ。でも待てよ、私はそれすら信じていない。悪い意味での私小説でしかないとキッパリと断じたい。だが同じ京北町で頑張っておられるF氏こそ日々ご努力され、前進し、全く澱みがない。朴訥な文章もそうだが、彼の生き様が如何にもそうである。幾つになっても今日より明日前進する彼こそ真に尊敬するに値する人だ。一途な彼の周辺におられる方々も又ハッタリ性がない。羨ましいほどの御仁である。

 そもそも契約には相互便益性が存在するのが普通である。私が彼に求めた便益性とは、真に自律性に富み、そこに根差した彼自身の誠実さだけであった。一方的便益享受の契約でも、何らかの彼自身が負う自律した完璧な倫理観が必要であっただろう。何も始まらない前に、然もネットで愚痴を言い始めた時、この契約は怒涛の如く瓦解した。挙句の果てに、直接逢った方には口頭で、私と付き合わないように言ったり、契約不履行を非難したり、次女へ対する同情を誘うのに忙しかったし、アレコレ聞くも哀れの極みであった。あちこちに送った、私を中傷するメールでやった酷い非難もそのいい例である。これは明らかに自己中心的な功利主義者であるばかりでなく、下手をしたら独善的偏見に満ちた独断主義であった為だろう。要するに倫理観に基づいた自律性を求めるには完全な無理があったのだ。他律性、然も、悪性の、仮想社会でのコミュニストでしかなかったことが、そこで判然とした。このご老体は既に創造的原点から遠く去っている遺物に過ぎないし、残りの人生を、誤魔化しが利く相手とだけ、ネットという仮想空間での中毒患者で終わろうとしている。哀れで可哀想の極みである。

 然れども私は彼の次女ご夫妻に対し、大変な失礼や無礼を続けているのに変わりはない。私には果たさねばならない私の自律的義務がある。その中身は日本教とでも言うべき和の衿持から出たものである。そこで今まで殆ど手法として存在しなかった、直接彼らご夫妻と改めて交信しようと思う。お約束の金額は今年中に揃うだろう。でも現在超円高だから、今直ぐにでもユーロや米ドルに換算すれば、ほぼ目標に近い金額になる筈だ。もし改めて、お互いにお互いの信義が結べたら、早速私は実行しよう。但し金額はそうであっても、ニューヨークでの生活は一年間だけ、出来たらサンタフェにある私の別宅に住み続け、創作活動に没頭して欲しいのである。あのジョージア・オキーフだってサンタフェが拠点であったばかりではなく、多くの若い芸術家が静かに住み活発で、意欲的に創作に励んでいるからである。紅い日干し煉瓦の家で、閑静な町は標高2000mにあり、アメリカ人にとっても一種のステータスとなっているからである。決して過不足はない筈だが、場所の紹介と提供はそれしか出来ない。後はお二人で存分に検討し判断されたらよかろう。芸術を志すご夫妻の創造的な意見や見解や、ご自身たちの衿持とは何だろうか、はっきり仰って戴いて、私が持つ世界観と倫理観と摺り合わせる必要が絶対条件になることも敢えて書かせて戴こう。本来個人的な遣り取りの行為がこうして公になったのは、他でもない、あなたたちの父君の所業がそうさせたもので、是非赦されよ。では連絡を待っています。尚父君からのメールはすべて迷惑メールと処理してあるから、今後一切彼とは無関係であることも赦されよ。戦争前の国民的熱狂が一つの我が国民が持つ戦争犯罪の一つだが、タイガース応援もそれと似たようなもので、あの応援団は大嫌いである。大リーグ観客にもブーイングがあったり野次はあるが、選手のプレーそのものを楽しんでいる。加熱するリーグ戦にあたって、あの狂気に満ちたファン心理に何を言っても無駄だろう。だから彼が別にどんな応援の仕方をしようが構わないし、死ぬまで酒を飲み続けるのも私には全く関係がない。そんな爺さんとは無関係者として今後の交渉にあたることにしている。モスクワより少しは涼しいようなパリのあなたへ、セーヌ河畔に今年も海辺のリゾートが出現したであろうか。あなた方のメールの受け入れは已然としてそのままにしてある由。

 また本記事を公にすることを2,3日思い悩んだ。でも手段はこれしかないように思えてならなかった。それと言うのも、今後彼が出没するブログには一切の私のコメントは差し控えるべきだろうと思うと、その悔しさと淋しさと哀しさと、そしてその大なる覚悟と、更に暗黙の了解である正義と、一方的に恣意的にやられた不本意な論理が残存する。このブログでは皆さんに公開してあるコメント欄に、彼の大いなる反論を待っている。私のブログはコメントの多さを自慢するものでは絶対にない。『櫻灯路』の時の、亡き主人は常に20人以上のコメント者があり可哀想でならなかった。私のブログは、私がひたすらに書き慣れようとする文章の練習の意味が多いのであって、それでいいのであると信じている。こうして決断出来たのは、脱落した筈の、櫻塾の三人組が夏休み終了前に帰って来てくれたのも大きいのかも。無限の可能性に富む若い人に拍手!

 

 

 役目を終えた酸漿

 

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