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セキュリティの強化につき

 

 

 秋色のニセコ 北海道の友人から贈られた写真 わたくしの大好きな写真です

 

 

 

              セキュリティの強化につき

 

 このWindows Liveのブログは時々大幅にシステムの変更があります。何度もアクセス数が削除されたり、この度の、と言ってももう五月の初旬のことになりますが、最大規模の変更がありました。しかも全く予告なく行われるので、その都度、酷く戸惑ってしまいます。五月まではアクセス数や、どなたさまがいらっしゃったのか、一目で分かったものでしたが、現在はアクセス数や、皆さまの足跡は全く分からなくなっています。日々500~800件のアクセス数は、その当時約120万度数御座いました。でも今はどれくらいなっているか、見ることが全然出来ませんので検討がつきません。我がブログの来訪者の多くはGoogleの検索によって入場されているようです。先ずご来訪者の90%と言っても言い過ぎではないでしょう。Googleの最も優れた部分は一つの記事に対して、数十種類の検索ポイントを有してることです。お陰さまで、中国やイギリスやアメリカやカナダなど海外からのアクセスが圧倒的に多いことが特徴です。他の検索機関を圧倒しています。だからと言って、他の機関を無視するようなことでは決してありませんが、ブログの狭いタコツボのような世界を、皆さまと共有し、そして有効裡に活用して戴ければ、これに代わる幸せは御座いません。多分今日も大勢の皆さまから検索され、読まれているに違いありません。そんなことをつらつら想像するに、務めて誠意をもって、記事を書かせて戴いて報いたいと存ずるのみであります。

 さて今般、この私のパソコンのセキュリティを一層強固に、ウィルス対策を講じましたので、半日以上でしょうか、一部の方々が閲覧出来ないようになっていたかと危惧されます。永らく愛されるブログを目指し、敢えてそのようにしたことをお許し下さりませ。又コメント欄は開放したままですが、ウィンドウズのIDを開設しなければコメント出来ないのではないでしょうか。念が入ったお話で甚だ恐縮で御座いますが、このシステム自体もより一層強固なセキュリティ態勢になっているようです。それとしばしばシステムの変更があるのは、膨大なサーバー負荷への対応ではなかろうかと、良く理解しています。その上、このブログはコメント数を競うような中身では断じてありません。必要な方に必要な情報が正確に伝われば満足の極みです。今後とも精進して参りたいと存じますので、一層のご愛顧のほどをよろしくお願い申し上げます。敬具 (硯水亭歳時記 Ⅱ)

 

 

 我がハーブ園の片隅に咲くルドペキア そろそろ終わる頃か 

 

今日から突然、一段と寒くなりました 皆さまには お風邪などお召しになりませぬよう!

22日の十五夜では自宅に帰った頃、ちょうどいい角度で観ることが出来ました。美しい幽玄なお月さまでした

 

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中秋の名月

 

 

 に揺れるピンクのハゼランと白いコルチカム 球根を植えた覚えがないのに 何故か咲きました

 

 

 中秋の名月

 

 

 明日お彼岸のお中日には満月となりますが、満月と十五夜が違う年が結構あるものです。

今年はその典型で、今夜が中秋の名月の宵となります。明日の満月は月が欠け始めてしまうからです。しかも今日旧暦の8月15日。

薄をお米に見立てたり、お団子を芋に見立てたりして、収穫の感謝の意を表し、縁側のお供えし、家族でお月見を致します。

急ぎ書きましたのは、幸い今夜遅くから雨が降りそうですが、降るまでは観れるようで、慌ててアップ致しました。今夜は充分楽しめそうです。

これから急ぎ自宅に戻り、お月見の準備を致しましょう。又の名を「芋名月」につき、何々少しは始まっているかもしれません。

もう駄目かと思っていたら、再び暑くなったせいか、またハゼランの花が咲きました。風に揺れるものだからちっとも大人しくしてくれません。

全然球根を植えた覚えがないのに、何故か白いコルチカムの花が傍で咲いています。可愛い花です。

そうそう庭の奥に、食べられるエビヅルの実もたわわに生っていました。美味しそうな色彩でしょう。

どうぞ楽しい良いお月見でありますように、心からお祈り申し上げます。

 

(尚今年の場合、10月20日が十三夜で、その日に月見をするのが片月見と呼ばれる名月で、栗名月とか豆名月とか言われています。

どちらか観ないなら不吉だと言われ、それを片月見とか片付見とか呼ばれたものです。真相は分かりませんが、月に色々な美称をつけ、

月見の習慣が根付いたのは永く太陰暦であったせいでしょう。西洋では太陽暦であったために、月は影、従って邪悪なものになっています。

どんなに科学が発展しても、月見をする習慣は大変素敵な習慣ではないでしょうか。今帰ってから観ると、まことに美しく朗々と月が輝いていました。

吉田兼好の徒然草・二百三十九段に、「八月十五日、九月十三日は婁宿(ろうしゅく)なり。この宿、清明なるが故に月をもてあそぶに良夜とす」

と有ります。兼好の当時宣明暦が主流であったために、正確には「婁宿」かどうか、大変訝しいものですが、同じような星で、月があったのでしょう。

いずれにせよ、月見は日本人の徳性と言えるものであります。この十月の名月を、別名、「後の月見」とも申します)

 

 

 

硯水亭歳時記 Ⅱ

 

 

 

食べられるエビヅルの実 あちこちにたわわになっておりました ジャムにしようかなぁ

 

友人のカワウソさんの「こよみのページ」をご参照賜りたく!

 

 

 ユンディ・リーさんのカンパネラをBGMに使用しておりましたが、演奏者が完璧すぎて、

小生のブログにはあいません。従っていつもお世話になっている多夢さんの「御伽草紙」に替えました!

 

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簡単メニューで二人きり

 

 

 シラスと青紫蘇のオニギリ 梅肉とオカカと青紫蘇のオニギリ 二種盛り

 

 

 

         簡単メニューで二人きり

 

 妻の実家から両親に敬老の日だからと言って、奥湯河原の「海柘榴」に招待した。お墓参りを早く済ませたお二人は、何だか敬老の日とお彼岸が重なって可笑しいねと言いながら笑って嬉しそうにやってきた。久し振りに逢う孫たちに相好を崩しっぱなし。父も叔母もご一緒に如何でしょうと言われたら、行くしかなく、ついでに二人の孫を連れて、今朝出かけた。杏や大風は大丈夫だろうかと、何度も連絡すると、意外や意外結構楽しんでいる様子。ひっそりとした邸内で、久し振りに二人きり。妻が本を読んでいる間に、簡単メニューで昼食づくり。

 

 

野菜ごと違う岩塩で揉んで漬け込んでから作る野菜サラダ 後でシークァサーを軽く振りかける

 

 

 

 烏賊の生姜焼き 刺身に出来るような立派な剣先スルメであったから どうしようかと思いつつ

 

 

 茨城の涸沼産のシジミが手に入ったから、一番出汁にシジミ汁を作る。このシジミは特別濃厚な味で、宍道湖のシジミに負けてはいない。更にちょこちょこ食材を探し、ゼンマイがあったから「おばんざい風」に、ゼンマイのお煮つけ。出汁は八方出汁にし、お揚げさんや糸蒟蒻を投入す。最後、胡麻油で風味づけ。

 

 

 ゼンマイのお煮つけ お揚げさんと糸蒟蒻 八方出汁 出汁をきかせ塩辛くしないのがコツ

 

 昼間から酒でもなかろうと、炭酸を出して、まだ少々蒸し暑いお昼を意識する。そこでもう一品。胡瓜の皮を所々剥いで、表皮の苦味を取る。それから沖縄産の海水塩で揉んでから、たっぷり生姜汁を掛ける。スダチがあったので、さっと一振り。あっさり系の浅漬けのように変身する。但しサラダとは違う味に。

 

 胡瓜の生姜汁漬け 針生姜と茗荷の酢漬けを針状に切って混ぜてから盛る

 

 静かなお昼。美味しそうに食べてくれる妻。蝉の声が少しだけ響く。それにしても敬老の日とお彼岸の入りが重なるのはどうかと思う。そして市町村合併で、古きよき漢字名が急速に変わっているのが断じて赦せない。歴史も、民俗の足跡も、一切合切消え去ろうとしている。民族の魂が流離う我が祖国。欧州とは違い、もともと国境意識に乏しかった我が国は刻々と周辺の各国から責められている。尖閣諸島の領有権なんか、言語道断であり、9月2日の終戦締結の日に、ウラジオストックやサハリンでは大々的に戦没者慰霊祭と太平洋戦争終結の祝賀会があったとか、あれこそシベリア抑留問題を棚上げし、北方四島の返還には応じない魂胆が見え隠する。竹島問題は既に韓国によって実行支配されているではないのか。国際問題は曖昧なままでは決していいわけがない。と、何だかややこしい問題を、妻を目の前にして食事するのは愚の骨頂である。午後から妻と、父が撮っておいてくれたグレート・サミッツを見ながらゆっくりと過ごした。父は笑いながら言う。時速20メートルの山登りだから。いつでもビバークする準備だけは肝心だと。それにしてもあの子たちがいないのはウラ寒く淋しい。妻も温泉なんかにやるんじゃなかったと、同じようなことを呟いていた。一晩だけだから、今夜は精々僕たちだけで楽しく過ごそう。

 

 

 マロン菓子と煎茶 煎茶の場合 八女茶と宇治茶とか 二種類の煎茶を必ずブレンドしてから戴く

 

 

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夏が去り、虫たちの大合唱

 

 

 木の実 アラガシ ウラジロガシ シラガシなどの木の実 何時の間にか秋来たる

 

 

 

       夏が去り、虫たちの大合唱

 

 

 当家にはカシの樹が多いが、シイの仲間でマテバシイやスダジイの実は袴(殻戸)が実に面白い。クヌギやナラカシやカシワの、ナラ類の実はもっと面白い。何だかほんわりとズボンを穿いてるようで、見ると、何だか幸せになる。三角の頂点は皆葉っぱになる部分で、養分を蓄える子葉の部分は、人だけではなく栗鼠や猿や、色んな生きものが狙っている。街には豊かな実をつける樹々が意外と多く、よくよく観察すると、何だか心が弾んで来る。街路樹もそろそろ秋の支度だろうか。僕たちに秋はやっと来た。親子四人での散歩は珍しいが、気のせいかチビたちも嬉しそうだ。買ったばかりの新しいズックが嬉しい杏。何とかオムツが取れそうな大風。地味な服装でも自然に目立つ妻。僕は相変わらず本麻の作務衣。僕だけが下駄を履いている。家内はそれがいいというものだから、殆ど下駄で通す。カランコロンと、歩道に響くけれど、妻にそれが好きなんだと言われるから、そうしている。朝の気温もすっかり秋らしくなり、冷房をつけることがなくなった。この朝の冷気は格別で、都会の朝は早い。聖心女子大のすぐ脇を通ると、どうも僕たちは目立つようである。早く通学して来た女子大生から、やたらと僕たちを眺められる。

 子供の頃、僕は夏が好きではなかった。田舎がないからだが、一人っ子で、ただ一人で過ごさなければならなかった。別荘のある連中は家族で疎開するかのごとく、家人も皆いなくなった。強いて言えば祖母の実家がないわけではないが、母親と離れ、一人で旅だつ勇気はなかったのだろう。殆ど大好きな数学を勉強して過ごしていた。偶に母に誘われ、銀座にご飯を食べに行くか日比谷で映画を観て帰るのが一番楽しみだった。新橋~横浜間の鉄道に乗り、両替商の街であった銀座は、築地の外人居留地に行くまで必ず橋を渡り銀座を通り過ぎなければならない。いつしか銀座は世界の情報が集まって来るようになった。新規の町並みが出来るようになると、新橋の花街が急速に縮小し、名残は新橋演舞場として残ったぐらいで、谷崎潤一郎が愛した新橋芸妓は戦後とくに目立って少なくなった。高橋洋服店など、所謂羅紗屋さんは何軒もあったらしいが、今ではこの店一軒ばかりで、父から教えられ、今でもこのお店でスーツを生地から見付けオーダーしている。現在のダンディな社長は、いい仕立て屋さんを育てようと張り切っていらっしゃる。

 

 

 蝉のぬけがらが葉裏にあり 杏が見つけて 大いに喜んでいた

 

 江戸時代、幕府の水甕だったのは赤坂山王地区の溜池であった。市街中、最も低いところで、湧水もあったらしい。小石川植物園や六義園や新宿御苑や浜離宮や古河庭園や、東京の古めいた公園は、その殆どが旧上屋敷か下屋敷の、武家屋敷跡である。僕たちのいる場所は、最も多く下屋敷や薬草園が多くあったところで、江戸は江戸でも街外れであったのだろう。当時の古地図を見ると面白いことばかりで、まるで藤沢周平になったような気分がする。有栖川宮記念公園は元は盛岡藩の下屋敷であったが、それ以前は赤穂藩浅野家の下屋敷であった。大石蔵之助が瑤泉院さまに暇乞いに訪れ、「南部坂雪の別れ」の場面に設定されている南部坂の話は、図書館より先で、赤坂二丁目あたりのアメリカ大使館官舎があるところである。有栖川宮記念公園の高台に、東京都立中央図書館が併設されており、僕が子供の時分から通っていた図書館がある。杏の大風もきっとお世話になることであろう。広尾商店街を歩いていると昔馴染みのご老体がお達者なのは嬉しいことで、声を掛けて戴いたり、家内やチビたちの紹介も結構楽しいものである。

 

 

 もう色づいた櫻の紅葉が落ちていた

 

 公園内で杏が見つけた蝉の抜け殻は夏の終わりを告げ、風あざみの到来というところだろうか。先日の強風で落ちたドングリの実を集める。松ぼっくりも、イネ科の大茜(オオザイ)モロコシの雑草も、背高のっぽになったヨモギも探せば至るところに秋色風見があった。櫻の葉も所々に紅葉して落ちていた。猫じゃらしを採って、娘をからかうと、むっとしてやり返す。それを見てゲラゲラ笑う息子。妻も目いっぱい楽しんでいる様子。足を鍛えなきゃと言いつつ、なかなかジョグも出来ないからと言って品川にあるスポーツ施設の会員になったが、どうやら行っていないらしい。でもこんな平凡な散歩が好きらしく、家族がもっと増えればいいねと僕の顔を見る。妻は拠点として我が家を最大に重んじているようで、仕事場に向かう時も顎を突き出して真っ直ぐ進んでいる。時々こうして一家結束する時間をとても大切にしているようである。普通のことがそのまま行けたら望外の幸せというものだろう。チビの大風は続けて何メートルも歩けないが、四人で歩ける楽しさは格別である。夕暮れ時になると我が家では虫たちの合唱の競演が始まる。そんな他愛ない秋のこと、じわじわと嬉しさがこみ上げてくる。

 

 

 鶴首の野葡萄活けてみた

 

 

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伝説の画家・田中一村展の大迫力と、その死生観

 

 

 田中一村展 250点もの大展示 奄美の死生観に生ききった孤高の画家 昭和の伊藤若冲か

画帳とパンフレットとチケットに ワルナスビの花を置いてみた

 

 

 

     伝説の画家・田中一村展の大迫力と、その死生観

 

 今週のNHK教育テレビで取り上げられた田中一村の絵、思わず見惚れ、午後から何が何でも行きたくなった。幸い妻が久し振りに休養日で、子供たちと遊んでいるから、お一人で行ってらっしゃいというものだから、何も持たず山手線に乗って、秋葉原で乗り換え、千葉駅へ速攻。バスで千葉市中央区役所を目指す。千葉市美術館はこの中にある。何故こうも惹きつけられるのかというと、初めて田中一村の存在を知らしめたのは、やはりこの日曜美術館であったらしいが、私は文化座で’94年に田中一村の演劇を見ていたからでもある。日頃左翼系の文化座は見ないことが多いが、中にはゴッホを題材にした「炎の人ゴッホ」や「青春デンデケデケデケ」などがあり、決して侮っていないせいである。田中一村の劇は堀江安夫作の脚本で、確か「夢の碑ー私説 田中一村伝」であったと思う。痛々しいほど孤独と貧乏に苛まされた孤高の画家に描かれていた。兎に角いかにも悲惨な画家に描かれていたのだと思い出す。「荷車の歌」などに代表されるように文化座らしいなぁと感想を持ったが、実態の田中一村に逆に酷く興味を抱いたもので、今回の展示は彼の全貌を網羅している初の試みとの放送であったから尚更燃えていた。一緒にバス停で降りた初老のご夫妻に、田中一村展をテレビで見たのですかと聞いてみたら、やっぱりそうであり、所沢からすっ飛んで来たという。私のような人もいるのだとテレビの影響に恐れ入りながら、美術館前でお互いに笑顔にてご挨拶を交わしあった。

 千円の入場料を払って、区役所八階から入場する。どうやら画家の画業の年代別に部屋が構成されているらしい。入ってすぐ圧倒される。何故なら画家の息遣いさえ感じられるから。第一章として生まれてから東京時代まで神童と呼ばれた日々の絵の数々。父は彫刻家であったらしく、既に南画の手解きを受けていたらしい。豪快な筆致と、男っぽい墨書。反面精緻な筆遣いも伺える。田中一村とは何者かと、一枚一枚見て行くうちに益々興味が湧いて来る。明治41年(1908)栃木県で生まれ、最初は神童と呼ばれた頃の部屋を出ると、大正3年(1914)一家あげて上京し、麹町三番町に落ち着く。翌年9歳にして、父から「八童 米邨」と雅号を受け取る。この年の児童画展において、天皇賞(文部大臣賞とも)を受けたらしい。花鳥風月を幼年期から描いていたようだ。時に扇面に描くこともあったが、大正15年 18歳にして芝中学を卒業するや、東京美術学校に入学する。同期に東山魁夷などがいたが、たった二ヶ月で退学してしまう。自分のやるべき道と違うように思えたからであったという。昭和2年20歳の時、弟・芳雄が若干16歳にして他界。翌年には弟・実が14歳にして他界。同じ年に母親のセイが43歳にして他界。哀しみを堪えつつ絵を一筋に描き続ける。そして昭和18年に、父・弥吉(雅号・稲村)が52歳にして逝去。更に同年、弟・明が19歳にして他界。この時未だ一村とは名乗ってはいない。次々に肉親を亡くしながら画業愈々本腰へ。時に28歳の若き日であった。第一室から第二室の「東京美術学校退学後の大活躍」から、第三室「昭和初期の新展開」へ。画風は次第に南画から遠ざかって行く。南画と言っても絹本で出来た長尺の丈幅か半切が多いのが特徴だろうか。中でも圧巻なのは瓢箪図であったろう。幾重にも重なる瓢箪は七個、その廻りをグルリと囲む蔓や葉の黒々としたパワフルな絵は後の一村を感じさせ、既にここに原型があったのかもしれない。いずれの筆捌きも豪快なものだが、初期の「雪中南天図」は伝統的な極めて稀な大人しい絵である。

 

 

 雪中南天図 (大正12年の作 田中一村記念美術館蔵)

 

 

 淋しい青春の時でも筆は休まることはなかった。31歳の時、母方の親戚を頼りに、東京の自宅を売って、千葉市千葉寺に家を新築し、姉・喜美子、妹・房子と、祖母スエと共に移り住む。見よう見まねで農業をしながら自給に務め、スケッチ用に鳥類を飼う。33歳の時、妹・房子が結婚する。その時「あばさけ観音」の絵を贈る。千葉の郊外へ出掛けては精力的にスケッチし、多くの絵の源泉を得たようだ。第四室は「第二章 千葉時代」となっており、やがて当美術館所蔵の絵の洪水へと向かう。去来や蕪村ばりの、欲得のない素直な岩彩があふれており、千葉時代は二十年の長きに渡って住むことになるが、戦時中徴用され、船橋で板金工として働いたようだ。だが体調を崩し、しばらく療養。かねてから注文のあった襖絵の仕事をするようになる。鮮やかな変貌も見られるが、盛んに公募展に出展するようになり、だが殆ど入選することはなかった。驚くべきことである。

 

 

 千葉時代の象徴的な傑作 『秋色』 田中一村記念美術館蔵

 

 

 更にこの時代、多くの風景画を遺しているが、いずれも色彩感豊かにして、観察眼も極めて優れていたように思う。院展など多数出展するものの一向に結果が出ない日々が続いたが、この頃から画号を「一村」と改め、軸物ばかりではなく、襖絵や屏風絵にも果敢に挑戦している。落選すると怒り狂って、絵を破り捨ててしまうこともしばしばあったようである。千葉寺近辺では当時闘鶏が盛んだったようで、日本画の基本とも言える鳥の図を多く描いているが、闘鶏用の軍鶏をスケッチしたり、非常に優れたスケッチばかりで、中には田中一村自身の自画像とも思えるような激しい「軍鶏図」が多かった。落選に怒ってのことだろうか。

 

 『軍鶏図』 丹頂鶴や翡翠や 多くの鳥類のスケッチや 軸物を遺している 軍鶏だけは自画像のようだ

 

 

 「わが心の千葉」と題された大きな展示室を抜けると第一部の終了らしい。階下の七階に移る。すると「公募展への挑戦」の部屋や、「襖絵の仕事」や、「やわらぎの郷 聖徳太子殿の天井画制作」と展示は続く。それにしても美しい板ばり天井画であり、今回特別に所蔵する多くの公設館や、個人蔵や、寺社仏閣さまの協力をよく得られたものだとつくづく感心し、何やら胸が熱くなった。妻を連れてくればよかったと頻りに反省したのだが、急な見学で適わず甚だ無念の極みだ。

 

 

 石川県羽咋郡宝達志水町にある聖徳太子殿 やわらぎの郷 天井画 「薬草図天井画」 一部分

 

 

 この他にも美しい天井画があり、それは静かな「野の花」のようである。襖絵も多くの傑作があり、白梅図や紅梅図や、白蓮図や、様々な傑作があるものだと感心し、それにしてもこうして多くの方々のご協力が得られたのは、千葉市美術館の小林忠館長(現・学習院大学教授でもある)のご人徳でもあるのだろう。道理で展示会名は「開館15周年記念特別展 田中一村 新たなる全貌」としてあるわけだ。年代別に完全網羅の趣である。千葉市とは深い関係があったのである。因みに軍服姿の絵もあったが、後に奄美へ移住した際、貧乏で遺影がない奄美の各お宅への遺影画として多くのお宅に遺されていた。それも痛く感動せられた。

 

 

 「秋元光氏肖像」 如何に優れたデッサン力があるかご理解戴けることだろう 後の奄美に役立つことに

 

 

 そうこうするうちに、美的放浪が続く。そして四国や九州や和歌山への放浪の旅へと続いて行く。既に千葉の自宅を処分する覚悟で、親兄弟が全くいなくなったせいでもあったのだろう。田中一村は非情で、孤独であった。放浪するうちに、やがて奄美へ移住を決意するのだが、この遍歴の間の旅にも優れたいい絵が多く残っているから、一層不憫であり、まるで絵が生涯ただ一点しか売れなかったゴッホであるかのようである。だがこの九州・四国・紀州への旅路で一村は一村たりうる様式美に目覚めていったような気がしてならない。

 

 

 九州・四国・紀州への旅は 美的様式美を求めての求道の旅であったに違いない 作品・『青島の朝』

 

 

 昭和33年12月、遂に意を決して奄美への移住を決断する。展示場は「千葉との別れ」の後、最後の部屋へ。第三章・「奄美時代」へと。「スケッチについて」などの多数の展示。まだまだこれでもかというほどの作品の量だが、「奄美での作品」を見て、小生は完璧に絶句してしまった。余りにも美しい様式美、そしてあふれるほどの色彩。的確な筆力、圧倒する美の様式と、存在感。もう田中一村の究極というしかなかった。

 

 

 「榕樹に虎みゝづく」 絹本墨書着色 孤高なるみゝづくも相当なスケッチを繰り返していた

 

 

 

 代表作かも 「アダンと海辺」 絹本着色 大好きな絵 21世紀であったならば

 

 

 

 「不喰芋と棕櫚」 絹本着色 不喰芋の花芽から実になるまでを描いている 棕櫚の実も雄と雌

死生観をはっきりと具現し 暗示してあまりある

 

 

 

 「熱帯魚三種」 絹本着色 物凄い量のデッサンを重ねた

 

 

 プチスズキベラ・ブダイベラ 島伊勢海老 虎斑木菟 それぞれの写生図 膨大な量

 

 

 ただただ圧倒されるばかりである。スケッチの確かさ、その熱意と情熱、様式美と色彩の競演、そうして最も肝心なことは、田中一村が島に伝わる伝承の神々と交信したことである。「イザイホーの神々」のことだ。文化座で見た時のように、間違いなく赤貧洗うが如くであったろう。それでも美への飽くなき探求と挑戦は田中一村をして、間違いなく第一級の絵師として存在しえたに間違いない。昭和における伊藤若冲と言っても決して言い過ぎではなかろう。若冲と同じように誰も師匠を持たなかったからで、或いは時代に早過ぎた登場であったのかもしれない。70歳になったら個展をしたいと周辺に漏らしていたようである。50歳を過ぎてから奄美に来て、異時空間の神経も創作意欲も、ここで炸裂し爆発した画家であった。多分奄美と、一村の魂が呼応したのだろう。ニライカナイの「波上宮」が見えるような、烏帽子のような、神々が住む島を、最も明るい水平線上に描き、田中一村は決して貧乏に敗れてはいなかった。孤高であったのだろう。でも神々との交信で、一村は独りではなかった。「死」と「再生」と、そして海の彼方から来る神々の魂と呼応していたのだ。無念かな個展を開くことなく、シマンチュウにて69歳で突然逝ってしまった。忌日は昭和52年(1977)9月11日、心不全で、あっと言う間に神々のもとへと去って逝ってしまったのだ。誰からも知られず評価されずに、それでも自給し、尚一層一心不乱にて画道を突っ走った彼の生涯はきっとこれからはもっと高く評価されて行くことだろう。戒名は如何にも一村らしく、「専精院釈浄絵居士」と称され、名瀬市東本願寺にて友人たちに囲まれた。午後から行って五時間も見学したのだが、圧倒的な一村の存在感に、私の胸や魂はスッカリつまってしまった。これからも一村の絵が新たに発見されるかもしれない。そう言えば、この小林館長がNHKで初めて放映される時、それまで知らなかった一村の解説を依頼されたようである。時に先生は伊藤若冲の研究者でならしていたというから、満更若冲と無縁ではなかったのだろう。どの絵か、将来国宝になるような予感がしてならないが、私の予見は間違っているだろうか。ああ一村よ!永遠に有り難う!

 

 

 写生する田中一村 奄美にて 遂に到達した神々との呼応

 

9月19日・夜8時から NHK教育テレビで「日曜美術館 田中一村」が再放送されます。尚千葉市美術館の展示は9月26日で終了されます。

出来ればあちこち巡回して欲しいのは、筆者だけでしょうか。こんな展示会は二度とないでしょう。どうぞ是非御見逃しなきよう!

田中一村画集は千葉市美術館にて発売中 一冊2500円 素敵な凄い画集です この記事ではここから転写させて頂きました。

 

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小さい秋見ぃつけた

 

 

 萩の花 万葉集には141首も萩の歌が出てくる 萩の語源は「生(は)え芽(き)」とか 妻のスケッチ帖の前で

 

 

 

        小さい秋見ぃつけた

 

 

 確実に秋になりつつあるようです。邸内では秋の気配がはっきりしてきました。萩の花が咲き始めました。小枝を採って、妻の画帳の前に飾ってみました。それと皆さまには純白の辛夷の花はよく御存知だと思われますが、辛夷には秋になるとコブコブとした面白いカタチの実がなるんですよ。庭の片隅を子供たちと小まめに散策しますと、新しい松ぼっくりが堕ちていました。何か工夫して創りたいなぁというと、娘の杏はたくさん掻き集めます。面白いのでしょう。すっかり歩き始めた長男は少しだけ暖色に染まった葉っぱを採っていました。クスノキから堕ちたばかりの落ち葉です。野葡萄の実もすっかり秋色に。エビヅルの実はまだちっこく青々としています。夏草のワルナスビの花も咲いていますが、とげとげしく採るのに大変。もう終わったかなと諦めていたハゼランも次々に小花をつけていました。咲いているところはちょっとの風で揺らめくのでなかなかデジカメでは撮れません。アマチャヅルの実もまだ緑(あお)いのですが、立派な巻きひげを蓄えてポチポチと生っています。そんなわけで我が家の花塚周辺は野の花でいっぱいに溢れています。

 

 

 白洲次郎・正子夫妻の「武相荘」 そこで発売されていたトートバッグの上に 辛夷の実を置いてみた

 

 よぉ~く見ると、こんな大都会のど真ん中にも秋が見つかるのです。先日も杏と散歩に行った有栖川宮記念公園には早くも鴨が飛来していました。「ダァ!バードカミン?」と、何やら杏が言うには、この鳥さんたちは杏の家にも来るのかというのでしょう。「ヤァ!」と応えると、手を叩いて跳ねていました。何事も熱心になると、ずっと頑張ってやるこの子は母親似でしょう。或いは単なる親馬鹿でしょうか。庭の餌場にやって来る野鳥の中にも偶に珍しい鳥が混じっています。オナガやホオジロやシジュウカラなども。水鳥は狭い池だから滅多に寄り道してくれません。Potterの真似をして、母親愛用の色鉛筆で描きますが、まだまだ絵になっておりません。グジャグジャですが、描くと得意顔をしています。全く止めようとしないんですものね。女の子なのに、お喋りはそれほど得意ではないのですが、独り語りで何かいつも言っています。英語と日本語のごちゃ混ぜの言葉です。お相手は絵本の中に出てくる、誰かにお話しているのでしょう。杏が最も好きなアヒルのジマイマママあたりじゃないんでしょうか。

 

 

 小さい秋の証拠 野葡萄の実がなったよ

 

 大風は叔母と大の仲良し。一つのことに集中することなく、すぐ次の興味へ行ってしまいます。鮮やかな転換は大風の将来を暗示しているようです。絵本は、大風もミッフィーちゃんをそれほど好きではないらしく、杏が盛んに絵本を読むにつれ、昨晩は佐野洋子さんの「100万回生きたねこ」を大風に特別に読んであげました。大風ったら大きなどら猫クンの絵に目を白黒、可笑しかったです。姉の杏がアヒルやネズミや猫や、あれもこれも欲しいというのですが、トイプードルのめいちゃんがいつも一緒にいるものだから、それほど欲張りませんが、但し鳥類にはとりわけご執心の様子です。空を飛ぶ鳥に向かって、おっきい声で独白しているからなんです。子供って、何をしでかすか分かりませんので、可笑しいものですね。私はもっと悪戯っ子だったことでしょう。

 

 

 新しい松ぼっくりと やや黄ばんだクスノキの葉

 

 いつぞやもお話させて頂きましたが、佐野洋子さんが2004年に乳癌になられ、大変な手術をされていらっしゃいます。最近新たに脳にまで癌細胞が転移してしまったとか。それでも凄いですね。自分で納まるべきお寺さんを探し、永代供養を済んでいらっしゃる。そして凄いのは死ぬまでに必要なお金を残し、ジャガーの新車を買ってしまったようですよ。自分でホスピスも予約したのだから凄いの一言ですね。「死にたいなんて誰も思わない。でも誰だって死ぬんだから」ときっぱり。「シズコさん」では認知症のお母さんの介護に明け暮れながら壮絶な確執と和解が書かれてありました。でもどこか逞しいと感想を持ちました。それと親しい写真家の百瀬恒彦さんに頼んで、既に『遺影』を撮影してもらっています。100万回生きた猫は最後に真っ白い美しい猫を愛し、たくさんの子供を作った。そしてどら猫の彼もやがて妻猫の傍で死ぬというお話だが、愛を知ってからやっと死ねることの不思議なストーリーが、今更ながらに凄いパワーを持っている本だと思えました。余命二年と宣告されていながら、死に様はきっと佐野洋子さんらしく、堂々と潔いのでしょう。最期の最期まで頑張って生きて戴きたく、何も出来ず恐縮だけれど、家の駄目んズ息子までがファンですよとだけご報告出来そうです。たくさんエッセイや小説には佐野節ってのがありまして、どれも如何にも彼女らしいカラリとした明るさと気丈さが持ち味ですものね。シズコさんが93歳で亡くなったのに!佐野洋子さんは1938年北京で生まれ、ベルリンの造形大学でリトグラフも学ばれた頑張った方です。今年御歳72歳。まだまだ早いですね。それこそ『神も仏もありませぬ』ではないでしょうか。『覚えていない』や、『シズコさん』や、『役にたたない日々』など、どの文章もリズミカルで楽しく読ませて戴いております。尚『100万回生きたねこ』は今後とも永くロングセラーとなって行くことでしょう。佐野洋子さん頑張れ!

 

 

 百瀬恒彦さん撮影の佐野洋子さんご自身の遺影となる写真 (失礼ながら新聞記事より転写)

佐野洋子さん関連 拙ブログにおける過去の記事 「ヨーコさん、寸分の時間も生きて!」

 

 

 

 小さい秋を 懐石料理用の木箱に盛り付けしてみました

 

 

 平成9年(1997)9月13日はインドで マザー・テレサの国葬が行われた日です。

その日宗教の別なく、一万人の人々が参加された日でした。アメリカ国民には余りにも今日的でありましょう!

 

 

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古い押し花の匂ひする女(ひと)と、当尾へ

 

 

 微笑する石佛 阿弥陀三尊磨崖佛 願主岩船寺 大工末行(まつぎょう)と 刻銘あり

 

 

 

        古い押し花の匂ひする女(ひと)と、当尾へ

        ~花あしびをもとめ 浄瑠璃寺から岩船寺~

 

 結婚する前、妻が何処でもいいから三泊しようと急に言いだすものだから、その日のうちに勢い奈良へ行った。早春だったか秋くれないの時季であったか。遠隔地へはどうも気が進まない。さりとて一箇所への連泊は避けようということになり、気の向くままに近場の奈良郊外を歩いてみたくなった。東寺を過ぎる頃、あなたから誘われたと両親に言ったと、肩をすぼめて言う妻に、可愛い仕草が見て取れる。朝粥が美味しいというたった一つの理由で先ずは奈良ホテルに投宿することに。玄関も古びて、廊下もきしむようなホテルだが、何よりも気に入るのは天井の高さ。奈良はいつ来ても心地いいと妻も言う。狭い京都での暮らしは偶には窮屈になるらしい。午後の光りが漸く柔らかくなってきた頃、私たちは早めの食事を大食堂でとった。庭の隙間から猿沢の池がホンの少し見えていて、古樹が二人を隠している風。興福寺の五重塔だけははっきりと見えた。広めの部屋は仕事をするのにどうも不都合で、何処となく所在なく落ち着かない私。でもこういう時ってのは女性のほうが妙に胆が据わるらしい。折口信夫の「死者の書」や、会津八一の「鹿鳴集」や、堀辰雄や白洲正子の話などをポンポン話し出す妻は、何とも気さくでいいやと思いつつ、彼女の話を黙って聞いていた。奮発してルームサービスでシャンパン(ピンドン)を取ると、彼女も飲むという。しばらく経つと、合歓の花のように、やや淡紅に染まった頬をした妻を見ると、何だか眉刷毛のようで、何だか古い押し花の匂ひのするような子に見えて堪らなかった。小さい時からの愛読書は「更級日記」や「伊勢物語」であったらしい。私のそれまでは殆ど海外に出て、レア・メタルやレア・アーツ関係の売買や化学原料や医療関係の株取引に忙しくしいて、国内では専ら建築設計でずっと繁忙期ばかりだったからで、読む本と言えば数字と、横文字文化の表音文字の世界ばっかりであった。もちろん偶にはウィリアム・C・フォークナーや、バルザックやスタンダールの短編集やプルーストも読まなかったわけではないが、日本文学には極めて疎かったのが本音だったろう。そんなわけで、妻の前では聞き分けのいい子になっていたと思う。妻は珍しく遅くまで起きて、私の酔いが廻るのを手伝ってくれた。彼女は東大寺で夜八時に鳴る鐘の音(初夜~そや~の鐘)が鳴り響いてもずっとお喋りをして楽しんでいた。まるで秘するが花の帯をハラリと解くかのように。普段は自宅でも大學でも殆ど無口なのに、古典文学から薫る匂ひだろうか、妻から発せられる古びた押し花のような香りなのだろうか。何の押し花かも検討がつかないが、やがて私はいい薫りで朦朧となり、いつしか妻の胸の中にすぅ~っと入っていった。

 奈良の朝はいい。静かな部屋の中で爽やかに目覚めた。正式な結納はまだであったが、妻の実家から結婚の許可がおりた途端、もう新妻の顔になっているから可笑しい。前日頼んでおいた茶色の茶粥を食べながら、今日は歩き日和だねといい、どこに行こうかということに。堀辰雄が愛した花あしびの御寺・浄瑠璃寺へ行き、そこから岩船寺に行くハイキングはどう?と妻がいうので、早めにチェックアウトし、この夜の宿として電話してあった四季亭に向かった。そこに荷物を置いてから、バス停へ。朝十時前のバスに乗る。辺りは美しい鄙びた景色。柔らかな夜の気配を抱きながら、私たちは黙って過ごしバスに揺られていた。たった30分もしないうちに、狭い道のなか浄瑠璃寺に到着す。道標に沿って歩くと、やがて浄瑠璃寺へ。確か萩の花や薄の穂があったかも知れん。ウッカリすると通り過ぎてしまいそうな浄瑠璃寺の山門は堀辰雄の描いた「大和路~浄瑠璃寺」にもあったが、何故か花あしびや七本のも柿の木は見えなかった。既に枯れて幾年も過ぎたのだろうと思えたが、浄池を見て、左右対称に立つ三重塔と阿弥陀堂の対比が面白い。地元ではこの御寺を九体寺と呼んでいるらしいが、薄暗い阿弥陀堂の堂内に入ると圧巻。大きな阿弥陀様が九体も鎮座していた。受付で言われた通り、御本尊の直ぐ脇にある吉祥天女が開闢されていた。小さな御佛さまだが、頬がふっくらとして、何とも愛らしく大きく見える。間違いなく、この御寺は平安後期の造営された当時のまま、ふくよかな香りが充満し漂っていた。堀辰雄の「大和路~浄瑠璃寺」には馬酔木の花のことを「どこか犯しがたい気品がある。それでいて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人に見せたいような、いじらしい風情をした花だ」と表現してある。

 

 

 浄瑠璃寺の九体阿弥陀佛 御本尊左脇に 吉祥天女さまがいらっしゃった

 

 浄池の廻りを静かに手をとって散策する。堀辰雄が描く柿の木や花あしびは確かなかったような気がする。でも堂々と立つ伽藍に惚れ惚れしながら見つめていた。佇まいが酷くいいのである。阿弥陀堂が浄土なのだろう。此岸は池の反対側にある三重塔だろうか。目映いほど鮮やかな色彩の塔の居住まい。一つも欠けることがなく、一つも余計なものがない一堂伽藍で、私は境内の反対側から亡き主人ばりの絵を夢中になって描いた。如何にも下手糞であるが、悠久の時を楽しむように、妻はまんじりともせず境内を悠々と歩いて楽しんでいた。

 

 

 

 

 上は我がパステル画による阿弥陀堂 下が写真による阿弥陀堂

 

 

 多分ゆったりと二時間はいただろうか。さてそろそろ本命の石佛巡りをしましょうという妻の声で、惜しみながら美しい御時の雰囲気を醸しだす御寺を後にした。狭い村のなかを歩いて行くと岩船寺へと道標が見える。何故岩船寺から来なかったか、妻がいうには岩船寺からだと、急坂が大変だからだという。確かに岩船寺への参道へ行くと、直ぐに急峻な坂道へ出た。竹林の風がサワサワとしていて気持ちいい。奈良駅で買った柿の葉寿司を二人で静かに開ける。ペットボトルのお茶が身体の芯にしみわたる。小枝の先から燦々と照る光りは私たちを自ずから慶賀してくれている様子。一陣の風が吹き渡り、又再び坂を歩き始める。何か視線のようなモノを感じ、不図振り向けば不動明王の磨崖佛が。

 

 

 

 竹藪の坂道の奥に屹立していた尊大なる不動明王尊像(磨崖佛)

 

 

 あっと小声をあげ、私はその御尊像と対峙する。光りの明滅が彼岸とも此岸とも言えない摩訶不思議な空気感が漂う。よく見ると、花崗岩の岩肌に「弘安十年亥丁三月二拾八日於岩船寺僧○○○造立」と読める。この年号は蒙古襲来の六年後のことだと妻の解説つき。既に岩船寺の寺内に入っているのだという。石佛たちはそこらじゅうにあり、これら石佛に何やら神佛混交の匂いさえ感じてくる。このお不動さまには敵国撃退の願文でもあったのだろうか。岩船寺は真言密教の御寺であるが、承久の乱後、哀れにも兵火に遭い、すっかり消失してしまったが、元々は聖武天皇の勅願によって建立された大寺であったという。道理で大きな境内に違いないが、本堂はどうなっているのだろうと気が急かされた。そこで妻がいうには、これら多くの石佛さんは大工末行(まつぎょう)という帰化人の作だと。南都が平重衡によって焼かれた後、南都東大寺などの復興のために南宋から招かれた御仁にて、京田辺市の法泉寺に十三重石塔があり、それらは数少なく散見される程度だが、中々の石佛美術史を飾っているのだという。更に下って行くと、「右浄瑠璃寺、左三尊阿弥陀、みろくの辻」と書かれた道標があった。ここを境に、奈良から笠置街道・伊賀伊勢へと通じる古道だと説明される。何気なく次々に説明出来る妻に心強く思えた。うら若い女性がよく勉強したものだと改めて感服した。更に進んで行くと、畑の中、山上中腹に驚くべき巨岩がせせり出ている。近づいてよく見ると、何と磨崖佛阿弥陀三尊像ではないか。よくよくご機嫌のご様子で、三尊とも心から笑っていらっしゃる。中央の御佛は阿弥陀如来坐像で、定印を結んでおられる。座高80cmほど。向かって右は観音菩薩坐像で、この御佛も笑っていらっしゃった。向かって左は勢至菩薩坐像だろうか、蓮台に座って、この御佛も心から笑っているようである。何とも長閑な光景の中、人っ子一人いない静寂の中に私たちはいた。私たちもつられて微笑したままどのくらいいたのだろう。どの御佛も心底から笑っていらっしゃった御姿にすっかり魅せられ、時が経つのを忘れ、そこに二人では佇んでいた。その御三尊とは巻頭の写真の微笑佛である。そこの足許を見てという妻の問い掛けに、先ほど這い上がって来た土の階段の中途に、もう一体の小さな石佛が草陰に隠れるようにしてあった。遂最近までお隠れになっていらっしゃった御佛で、通称を「眠り地蔵さま」だという。どの御佛さまへも深々と頭を垂れ、佛道を成ぜむと、我発心し祈り給うた。

 

 

 

 上が磨崖佛阿弥陀三尊像の全体 左下にある通称「眠り地蔵尊像」 最近まで叢の中にお隠れになっていたという

 

 そこにどのくらいいたのだろう。二人は沈黙したままでも、どんなにか充足感があったのだろうか。阿弥陀さまの御前で二人してじっと佇んでいた。晴れやかな旅路。美しい長閑な光景。何一つもいらなかった。欲しくもなかった。満ち足りていた。そろそろ歩き始める。漸くやっとこさ岩船寺に到着。山門を潜ると、何とまぁ瀟洒な佇まいだろうか。浄瑠璃寺の半分もない境内だが、「花の寺」としても名高いようで、櫻爛漫たる時季や、紫陽花の頃や、紅葉の頃か、嫌そうではない。秋の初めの今時分であったと、そう思い出した。私たちを出迎えてくれたのは秋名菊だった筈と。

 

 本堂前にある秋明菊(貴船菊ともいう) 秋の到来を告げていた

 

 

 御本尊阿弥陀如来坐像、四天王立像、普賢菩薩騎象像、十一面観音菩薩像、薬師如来坐像、菅原道真像、弁財天像など、諸佛・諸天尊像が瀟洒な空間に居住まいし、まことに見事な大寺の風貌を感ぜられた。秋紅葉の時もいいですよと仰るご住職さまが直々に受付にいらっしゃった。私は古色蒼然たる岩船寺の印寡を頂戴したくなり、図々しくも揮毫をお願いしてみた。そしたら直ぐにいいですよと仰られて、堂々たる筆捌きで、「開一華五葉」と印字して戴いた。曰く「いっかごようひらく」と。「一輪の華が開くということは、生命の根源である地・水・火・風・空の五要素によって開いています。人間も万物の支えによって生かされているのです。その自覚をもって日々を過ごしたいものですね」とにこやかに仰って戴いた。何とも言えぬ感動を覚えた。堂内にはその他、最も奥に三重塔がキリリと立っていなさる。五輪石塔や、十三石塔や、石室不動明王や、厄除け地蔵菩薩さまや、目を瞑るとまことに大きな御寺が網膜の中に現出せられた。当然寺の外にある幾多の石佛群も想像の範疇に入る。江戸時代の御寺の縁起によると、聖武天皇が夢想によって、大和国鳴川善根寺に籠居していた行基菩薩さまに、一宇の阿弥陀堂を草創させたのが始まりであったらしい。弘法大師の姉の子である智泉大徳が伝法灌頂して、新たに報恩院を建てさせたとある。その後嵯峨天皇がこの智泉大徳に勅して皇孫誕生を祈願させたところ、霊験があらたかに、無事皇孫が誕生したのだという。その子は後の仁明天皇で、この恩顧に報い、広大な寺領を授け、皇后本願寺となって、弘仁四年(813年)に岩船寺として改められたと言われている。寺院の方々の立ち居振る舞いや、岩船寺の願主と書かれた多くの石佛群の壮大さを想像するに、容易に馥郁とした往時が偲ばれてならなかった。深く御礼を申し上げ、岩船寺を去ろうとした時、ちょうど村の方が来ていらっしゃっていて、よかったら奈良市内まで所用があるのでついでに送りますからと、軽自動車に乗せて戴いた。妻の身長は176cm、私の身長は185cmで、縮こまって座る私たちを見て、運転して下さっている御方から笑われたり驚かれなどしながら、しばし岩船村落のことや丘陵地帯に点在する石佛たちに話題が弾んだ。ちょうど日が落ちんとする時刻、直接四季亭まで送って下さった。何という魔法の一日だったのだろうと。春日大社一の鳥居脇にある奈良公園・四季亭で三階にたった一つだけある部屋・観月の間に落ち着いた。我が愛する部屋でもある。軸物は西大寺住職の堂々たる書。そして食事時久し振りに逢う女将のご挨拶などを受け、奈良・唐招提寺近くで焼かれた赤膚焼きの器で心行くまで懐石料理を楽しんだ。その夜、確か月は出ていなかったかも。会津八一先生の歌、「ゆめどのはしづかなるかなものもひにこもりていまもましますがごと」や、「義疏(ぎそ)のふでたまたまおきてゆふかげにおりたたしけむこれのふるには」など鹿鳴集歌を吟じ、いにしえのものおもひを蘇りさせたくなるほど、静かな、再び二人だけの夜。妻に何故当尾は京都府なのに京都の匂いがしないけど、どうしてと質問する。妻は東大寺や法隆寺の学僧たちが、この地を好んで必死に佛教の本義を勉強したためだから南都の薫りがプンプンなのえと。更に当尾を塔尾とも古来から呼ばれていたともいう。冷酒を交わしながら、妻の古い押し花のような薫りとは、何の花の押し花なのだろうかなぁと考えた。ラベンダーのような強い香りでは断じてない。酔いが程よく廻った頃、そうかぁと思い出した。足利義正の銀閣寺、あの銀沙壇脇にある国宝・東求堂に密やかにある香木の、幽かな薫りではなかろうかと思われた一瞬、妻の顔を見やった。そして可笑しいことに、その瞬間、相対して微笑佛のように妻が微笑みかけるものだから、咄嗟に目線が宙に浮いた。それから正対して透き通るような妻の肌をしみじみと見つめ直した。心地いい疲れが二人を包む。宇佐八幡宮を本宮とする六郷満山の石佛も、臼杵の磨崖佛も、その多くの石佛たちは何故神佛混交の古い薫りが漂うのだろうかと、その夜二人して興奮気味に長いこと話していただろうか。折角だからと、高野槇で出来た大きな木風呂に二人で浸かった時も、妙なのだが、議論のしっ放しであったことをよく記憶している。浄瑠璃寺から岩船寺まで、たった2キロの道程。それを丸一日を掛けたスローな散策の終わりは、確かに我が妻になる自覚が、彼女に現れ出ていたに相違ない。忙しさしか知らなかった男にはどんなにか救われたような思いがして、嬉しかったことだろう。

 

 

 岩船寺住職の揮毫 「開一華五葉(いっかごようひらく)

 

<ご参照に>世の中は広いもので、ネットで検索致しますと、「当尾の里の寺と石仏」がヒットしました。ご興味のある方はこちらもどうぞご覧あれ!

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「ハレ」と「ケ」 日本人の祭の原型

 

 

 

 藤島竹二 作画 『天平の面影』

 

 

 

 

                   「ハレ」と「ケ」 日本人の祭の原型

 

  二度の世界大戦を敗北したドイツに比べたら、第二次世界大戦のみによる敗北であった日本へ対する戦勝国の対応は、中でもアメリカの対応の実態はまことに寛大極まるものであったといっていい。安保条約によって日本は経済的繁栄と安全保障を手にし、冷戦後も経済的打撃は一切受けなかった。寧ろ冷戦時代、唯一経済的に成功した国家であったろうとさえ揶揄されていた。ところがあの不思議なバブルの喧騒極まる狂乱を経て、不図気付いてみると、内外環境の変化に気付き、今やその遅れはどうしようもなく決定的である。政府は訳の分からない政争を繰り返し、明らかに政治が弱体化し、日本国ももはや救い難いほどの内向き思考だけで、日本人は自信喪失して、よく「第二の敗戦」であると言われる。経済的に堕ちこぼれて行くだけではなく、戦後茫漠としながらもあったかに見えた唯一のナショナル・アイデンテティさえ完璧に喪失していたのである。そんな喪失感や不安感が今日の坂本龍馬不在とか待望論の逸る気持ちを、堂々と論じたくなるのが生来の気分であるが、先ずこの混乱した日本人像をよく観察し、自画像として凝視することから始めなければならない。第二次世界大戦末期、アメリカのフランクリン・ローズヴェルト元大統領が死去すると、ドイツのゲッペルズ宣伝相は罵詈雑言を浴びせていたが、日本の鈴木貫太郎首相は深く哀悼の意を表した。この時ドイツの偉大な文学者・トマス・マンがアメリカ亡命していて、トマス・マンは、未だ死んでいない日本人の武士道的美徳をとりわけ褒め讃えたと伝えられている。それでは武士道とは何か、又それ以前にあるだろう日本人のアイデンテティとは何ぞやを改めて冷静に紐解いてみたくなるのが早道なような気がしてならない。確かに9月2日は太平洋戦争の無条件降伏文書への調印の日であるが、長崎へ原爆が落とされた日に参戦してきたロシアが今年ウラジオストックなど方々で終戦記念日として大々的にセレモニーが行われた。由々しき問題である。57万人もの軍民あげた抑留者を過酷に扱った非情さを、私たち日本人の脳裏には決して忘れることが出来ないでいるからだ。ロシア人の精神的美徳とは何処にあるのだろう。北方四島を不法に占拠している正当性をアッピールしているに過ぎないのではなかろうか。

 さて日本人を語るとき、避けては通れない史書がある。他でもなく『古事記』であるが、『古事記』の発掘と今日私たちが読めるようにして貰ったのが本居宣長の功績であった。宣長の半生を掛けて書かれた『古事記伝』は、実に歴史的にはまだ浅い時間的経過であると言っても過言ではあるまい。『古事記』は、とある栄光時代の太安麻呂に仮託された、オホ氏や秦氏など新羅・加羅系氏族の栄光の原拠であり、それは彼らを寵愛し、「日本国」を興した天武天皇を頌栄する書であったことに間違いない。そしてそこにある「神話」とは、実は「天皇が日本を支配する正統性」を語ることだけを目的とした物語である。そしてそれを前提にして、オホ氏などの系譜が書き直されていた。そういう『古事記』を現在のような『古事記』とした読んだのが本居宣長である。『古事記』は漢字仮名交じりの書き下し文ではなく、立派な漢文であり、今の『古事記』の正体は、本居宣長の『古事記伝』中で初めて出現したものである。宣長は『古事記』に、「古言」たる「日本語」を見つけた。「やまとごころ」である。そしてこうした「日本語」とは、我が「日本」の固有性であり、「日本人」であり、「日本民族」であったと断定した。つまり宣長が見出したものとは「日本」の原型そのものであったろう。こうして宣長は、天皇と結び付いている「永遠の日本」を作り上げてしまってもいたのである。近代国家には「国民」を定義することが常に求められている。「日本人」とは何かを定義しなければならない。このとき、近代日本の焦った選択は、宣長の定義を真正面から形骸的に採用したのだ。これが今も続く私たち日本人の何処かに潜むアイデンティティー(自己確認)の原型である。『古事記』は確かに「永遠に天皇とともにある日本国」を定義はしているが、そればかりではなかろう。そしてこの『古事記』が、「近代日本の聖典」である由縁であるように曲解された。その証拠に、そこには、どこにも「人間」の誕生や、「日本人」そのものが描かれてはいないのである。

 日本を、確定的な平安前期からもっと遡らせてみよう。「日本」と「天皇」を宣言し、紀記編纂を命じた天武天皇まではひとまず可能である。それ以前は「倭(ヤマト)」と「大王」の時代となる。それでも推古天皇・聖徳太子の時代を経て、何とか応神・仁徳、それに雄略天皇の古墳時代中期(「倭の五王」の時代)まで、日本の始まりを仮に引き上げ得たとしよう。しかしここから先は真っ暗な闇なのである。ちなみに応神天皇の母は、紀記に従えば神功皇后であり、それは『魏志倭人伝』の卑弥呼のことだとの声は多いが、活躍年代に若干の差がある。すなわち、四世紀をもって日本の、つまり大王(天皇)の確たる足跡は途絶えるのである。では何故に「ニッポンは昔から日本」であるのか。私たちの「失われた輪」(ミッシング・リング)に残された鍵は二つある。「紀記」と「魏志倭人伝」である。実はこれらの鍵を使った日本の始原探究は江戸時代に始まったばかりなのであり、倭人伝の邪馬台国を、わが北九州あるいは畿内にありとしたのは新井白石である(卑弥呼を神功皇后とした)。記紀万葉こそ、対外的に発せられた正史があること、或いは天皇制の正当性を、各豪族や蝦夷や隼人に対して定義づけられたものだったに違いない。

 民俗学とは昔の研究であっても、そこは習慣・習俗の研究であるから、常に変遷するのが当たり前で、勢い鎌倉時代から始まったとか室町時代から始まったとか、うっかり断言出来ないものがある。明らかに現在に伝わったいる習慣・習俗そのものを研究する分野である。従ってより実証的となると一層慎重であらねばならない。ただ記紀万葉にも既に垣間見れる「ハレ」と「ケ」の概念はどうやら限りなく古めいていて、深い興味を抱かざるを得ない。原始宗教はアミニズムであると同時に、極めてハレかケの感覚が旺盛だからであろう。そこに原初的な日本人の感性が潜んでいるのではなかろうか。それではハレとケの概念は、どんなものだろうか。先ず注目を要するのは時間的な流れであろう。まさしく円環的時間論に基づいているものである。円環的時間論というのは、世界は始まるが、一定期間が経ったら崩壊し、再び再生するという、時間が同心円を螺旋状のように回る世界観のことである。そこには本質的な「進歩」や「発展」はない。弥生時代には無論ハレやケの感覚は備わっていたと思うが、もう一つ冒険して縄文時代まで遡れないだろうか。と、いう浪漫を、筆者は抱いてしまうのである。

 この時間的観念に対するのが直線的時間論である。世界は一度始まったらもう元には戻らず、絶えず変化していき、最後は崩壊を迎えて終わるという、一回限りの一本の時間軸が延びた世界観である。現代に棲む私たちもまた後者の時間論の呪縛の只中にあることは言うまでもない。この世界観は、実はやや特殊なものであり、ユダヤ-キリスト教の世界観(神による世界創造~終末と審判)に基づくものである。なぜ直線的時間論が特殊なものであるかと言うと、この時間論を担うキリスト教的ヨーロッパ文明が全世界を席巻するまでは、世界では円環的時間論がむしろ圧倒的であったからだ。例えば、東洋的な王朝の時間を考えてみよう。まず、王の死が世界の崩壊である。新しい王の即位は新世界の誕生、世界の再生なのである。年号とは本来そういうものとしてあった(暦年主義の「西暦」と比較されたがよかろう)。王朝の交替という、より大きな事態では、全くもって世界秩序の作り直しなのであった。

 話を少し戻すが、人間は自然の一部であり、自然とともに生きてきた。そういう人間が自然の姿を見て、また自分たち自身の有り様を顧みて、どういう世界観をもったかは自ずからで明らかであろう。世界にあるあらゆる生き物は生と死によって明滅し、子は親をまねるように生きてきた。原初的、原型的な世界観が円環的時間論にあることは間違いない。実際、直線的時間論を自明にして生きる現代人である私たちでさえ、いまでも基底的には円環的時間論を生きているのではなかろうか。時間とは世界であるが、例えば「正月」は一年という時間の始まりであるとともに、世界の誕生(再生)である。生の前には死がある。大晦日の夜の、あの何とも言えぬ時間のやり過ごし方は「死」の体験でなくて何であろうか。それが証拠に、年が明けた新年の挨拶の晴れ晴れしさはどうであろう。一年自体が、生と死をくり返しているという感覚が、ハレとケに通じる。もちろん、一日や一月も生と死をくり返している。これを天に転じれば、太陽が、そして月が生き死にし、円環的時間をくり返しているのである。私たちも、一生涯の中で絶えず生き死にしている。放っておけば、生は崩壊してしまう。生エネルギーを補充し、再生行為をくり返さねばならないのだ。これが円環的時間論に棲む人生観である。

 ではいかにして日本人は、生涯の中で生エネルギーを補充してきたのであろうか。それは祭りの日に、神から得てきたのである。祭りの日こそ晴れ(ハレ)の日である。いまでは祭りとは見せ物となったものを言うが、しかし本来は、正月や盆、節句、農耕儀礼など、神と交渉をもつ様々な機会のすべてが祭りである。すなわち、これがハレの日である。祭りの本質とは何か。神話の再演、世界の始まりの時間を神と一緒に過ごすことにある(神人饗応)。そうしてから改めて原初のエネルギーを得るのである。その具体的な象徴行為が餅(米)を食べることだ。これはただの米ではない。神に捧げる食べ物を御饌(みけ)というが、これをおすそ分けしたケ(食べ物)である。神のエネルギー源と同じものを食べることで、ケ(生エネルギー)が充満するのである。これがハレる(晴れる、張れる、春、満ち満ちる)という意味になる。なお、御酒(みき)の場合も同様であるが、この「水」は変若水(おちみず、若返り、再生の水)となる。

 さて、話は変わる。ヨーロッパには円環的時間はないのか。キリスト教の普及以前には円環的時間論のケルト・ゲルマン文明があった。実は、ヨーロッパにも円環的時間が基底的に生き続けている。マリア信仰は今世紀になってローマ教皇に認知されるまでは「異端」の教えであったが、これは古代信仰の大地母神の偽装形態(カムフラージュ)である。さらに、キリストその人の誕生日であるクリスマスは、古代以来の冬至と正月の祭であり、その復活祭(イースター)とは春分祭(春祭り)に他ならない。つまり、キリストの名を借りた伝統的伝承的な太陽祭なのである。「復活」とは太陽(一年)の再生であり世界の再生である。復活祭に先立ち、謝肉祭(カーニバル)が行なわれる。最も有名なのがリオのカーニバルであるが、ご存知の通りサンバのリズムに合わせたらんちき騒ぎである。このどこがキリスト教的なのだろうか。その本質は円環的時間論に基づく祭りなのではなかろうか。ところでブラジルとは興味深い国である。インディオの土地と人々を16世紀にポルトガル人が植民地とした国であるが、その後、アフリカから多くの黒人奴隷が移住させられた。その結果、白人、インディオ系混血人、黒人が共存する国となった歴史を持つ。彼らの共通の信仰はキリスト教であるが、特に後二者の信仰は意識せざるカムフラージュであると思われる。インディオ、黒人たちの信仰の深層にはそれぞれの円環的時間論の神話があった筈である。リオでのカーニバルの盛大さはこの抑圧された神話の噴出と考えねば説明できるものではない。再生の前には「死」がなければならない。その「死」の期間に行なわれるのがカーニバルである。そこは非日常、いや反日常の時間、人の時間ではない神の時間となる。世界の秩序が誕生する以前の混乱状態(カオス、非・反秩序)を、カーニバルとして再演しているのだ。すなわち、誕生前の世界はこうあったという神話である。そして、祭りの終わりとは、秩序(コスモス)の成立(回復)、世界の誕生(再生)を意味することとなる。

 日本にも「カーニバル」はある。祭りの中で、人の時間ではないときがそれである。ケ(日常)の正気や秩序を失うとき、人は神の世界にいる。本来の祭りのクライマックスは、酔いつぶれることである。これもカオスであり、非-人知、神に近づくことなのである。また、盆踊りもそうしたものである。郡上八幡など一晩中、踊り明かすことが神憑かりの時間なのであろう。ハレとは、日常(人の秩序)を超えた時間、神の時間である。そして、祭りとは神話の再演であり、世界の死と再生なのである。今風に翻案すれば、日本がハレの日を迎えるのか、ケのままで無為に過ごし借金大国として後世に汚名を残すのか、二者択一の節目の時代なのである。

 

 

 富士遠望 山室山の図 本居宣長

 

 

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初秋の月

 

 

 いわし雲 東京・渋谷の天空にて 平成22年9月3日午後四時

 

 

 

 

                      初秋(はつあき)の月

 

 

              世界はいと静かに

              涼しき夜の帳(とばり)に睡り

              黄金(こがね)の魚一つ

              その差延べし手に光りぬ、

              初秋の月。

 

              紫水晶の海は

              黒き大地に並び夢みて、

              一つの波は彼方より

              柔らかき節奏(ふちどり)に

              その上を馳せ来る

 

              波は次第に高まる

              麥の畝の風に逆らふ如く

              さて長き磯の上に

              擴がり、擴がる、

              しろがねの絹として、

 

              波は幾度もくり返し

              奇しくも光の魚を抱かんとす

              されども網を知らで、

              常に高く彼處(かしこ)に光りぬ、

              初秋の秋。

 

     與謝野晶子詩集』 <初秋の月>より

     Atelier.Sumire.Gingetsu.Books  早川茉莉氏 編集・出版の美しい単行本から

 

 こんな猛暑の、密やかな初秋に、いわし雲出で来て、少しばかり秋の気配を感ず。謝野晶子の全詩全歌はシュールにして、今も生き生きと通じいぬ。それを知らしめたる熱意ある女史に深々と敬意を評し給ひけむ。尚、昨夜は下弦の月にして満月はいまだし。満月の出で来たる、9月22日を今から遠からじと心待ち心待ちすなり。釣り竿を、夜の川面に垂らし、魚ではなく、川面に写る月を釣らむと欲した晶子の心根、その心魂がいとおしく美しい。

 

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